2011年11月21日月曜日

人間・いのち・世界Ⅱ-9 戦争と平和


1 人間・いのち・世界Ⅱ-9 石居 151 *出席間に合った

9)戦争と平和

私たちは、今、戦争について考えることなんてありますか?
私たちの国が戦争を経験したのは65年以上前になりました?
*湾岸戦争とか、イラクはノーカウントなんだなー

世界中から戦争がなくなるということはなくて、どこかしらで、ということですが
戦争ということは、どういうことをそういうんでしょうか?
戦争ってなんでしょうね?

国対国、地域?(内紛、紛争との違い)

武力による問題解決

近代以降の国家という概念のもとの戦争とそれ以前の戦争はまたちょっと違うかもしれません。

ということで、戦争は「国家」と結びついた概念だ、と。
では、国家ってなんでしょうね?

J-Popの話
・スポーツ、サッカーのW杯予選、北朝鮮戦の話。
・外国との文化の違い
・米軍基地
・国民の義務(納税・労働・教育)―国家の強制力―秩序
・尖閣諸島の中国漁船との衝突の話
・北方領土
・君が代(国旗国家法)
・領土・国民・主権
・日米安保同盟

戦争が国対国という事で考えられるとすると、
私たちにとって国家とは何か。

このクラスは、人間・いのち・世界というタイトルですが、
戦争においては命が奪われるということがありますね、
殺人が起こる、それが当たり前のことである。
普段の常識とは違ったことが容易に起こる。

国家と国家の間の力関係

聖書の中で、国家の力ということに関して興味深いことが見られます。

エジプトの力の元にあるイスラエル民族をモーセが
エジプトのファラオとの交渉の間で導き出すと言う出エジプトのおこり
このときのイスラエル民族は国家でもないし、単一の民族であったかも定かではない。
その集団がエジプトを出て、パレスチナに移住する。
この状態が、ヨシュア記に描かれている。
これは戦争なんですよ。
これは今でも
「キリスト教ってそういうことなんですか」と言われるところです。
だって、「神様が皆殺しにせよ」と言われるわけですよ。
「万軍の主」としての神
民族宗教として働いていた中での宗教という事ですよね。

国家と言うとすると、王国が出来た時でしょうね。
サウルという王によって、イスラエルの王国が形を持つ。
それまではゆるやかな諸部族の連合体です。
契約があって、ヤハウェの神の下にある連合として協力し合うという
サウルによって王国が立てられたときにそれが一つに。
それがやがて北と南に分かれ、バビロニアとアッシリアに滅ぼされる。

興味深いところ、というのは、
王国がつくられるときの
王国が建てられるという時の聖書の2つの立場。
・サムエル記(上)812
いよいよ王様が立てられて一つの王国になっていくというあたり。
これを見ていくと、全く異なる二つの考え方が並列的に考えられている。
王国に反対する側と賛成する側。
いずれもそれが神様の考え方だ、として主張される。
「神様は王国を建てることに賛成だ」
「神様は王国を建てることに反対だ」

例えばサムエル記(上)86節をみると、王が建てられることへの反対の立場
サムエルは預言者ですが
「裁きを行う王を与えよ」という長老の求めは
「サムエルの目には悪とうつった」と。

ところが9章を見ていくと-
ここでは、サウルという人物が見出されてくる
このサウルは神様によって特別に認められた存在として描かれていて
王様にふさわしいものだと、それが良いことのように描かれている。

例えば、915,16
神様がサウルを指導者としてたてることを、サムエルそうせよ、と。

しかし10章にいくと、17
サムエルが民を呼び集め、こういう、と。
主は-イスラエルをエジプトから導き登ったのは私だ
しかしあなた達は今日、あなたたちの神を退け、王を立ててくださいと主に願っている-
王を立てることに反対の言葉ですね。

王が一つの権力を持つことへの賛否が交互に出てくるんです。
見ていると混乱をするんです。

王国を建てるという事で権力が生まれる。
その権力が建てられることへの批判と賛成、両方が聖書の中にある、と。
実際には確かに王国が建てられるので、その歴史が描かれていくので
賛成という立場が強く打ち出されるということはあるのですが。
しかし聖書にはそれに反対する声もちゃんと記録されている。
ここが興味深いところです。

どうして反対なのでしょう。
神様の力ということを退けることになる、ということ-

本当は神の下に王が立てられるという事なので、
その秩序という事で賛成という事なのだが、
反対するという声においては、この権力は神を退けると見ている訳です。
神を退ける危険がある、と。

逆に言うと、国家の権力というものは、神を退けるもの
自らを神とする危険を持っている、という事じゃないですか

つまり絶対的な力を行使する。
そうならないように、多分、
近代国家、民主主義、三権分立のような仕組みが考えられる訳ですが
いずれにしても国家というある種の力が
神様を退ける危険性があることを聖書は知っている、と。

新約聖書は、この国家の力に対する2つの立場

ローマの信徒への手紙13
ここでパウロはこういっています。
○ロマ書131
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、
今ある権威は全て神によって立てられたものだからです。」

神による秩序という点から国家の権力を認めているという考え方。
だからパウロはその秩序の元で裁判を受けようとしているんですよね。
彼はローマの市民権を持っていますから。
したがうべき権威として国家の力を認めている。

もう一つの立場は
○ヨハネ黙示録131節から
これはですね、ちょっとわかりづらいかもしれません
「私はまた一匹の獣が-10本の角と7つの頭~」

これもまたローマ帝国のことを言っています。
10代、皇帝位が続いてということです。
ここでは、国家は悪魔的な力として、支配力を持っているものとして描かれています。

新約聖書においても二つの立場から描かれていますね。
このようなことが、国家の力の持つ二重性、と。
このことを私たちはよく注意して考えておく必要があると思います。

聖書において描かれているのは
国家の力を俯瞰するような存在としての神


現実の中で国家同士の力が対立するときに
俯瞰的にそれを調停する力というものを持っていますかね。
(ひとしきり議論っぽくなって-)

アモス書9
神の裁き、ということで語られる箇所ですが

アモス97
イスラエルの人、クシュの人、アラム人は-

何を言っているかというと、
イスラエルの人たちはヤハウェは自分たちの神様だと思っている
で、他の民族の神様との力比べ-というようなことを考えているが、
ここではそうじゃない、と言われているんですよ。
つまり神様は世界の神様であって
他の民族に対してもそれぞれ助けているのであって、

・自らを絶対化することへの批判。
それがこの一神教だからこそ起こっていることと言えるのではないでしょうか。
神の語られることを人間の信仰心と捉えるのか、神の言葉として捉えるのか。
少なくともアモスにおいては、
民族宗教の枠を超えて、世界の神様であるからこそ、
自らを絶対化する自分たちのありようへの批判の視点を得ることになっています。

*交渉における他者をどのようなものとして想定するのか。

(終鈴)

まだ「平和」の問題に入れていないので、来週続きをやりましょう。

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