2011年11月19日土曜日

【復習】英専-9 罪悪感を捨てる苦しさ

罪悪感のオモリをともなう抑制された否定的感情は錨に例えられる。
スイマーが錨をリリースすれば、自然に浮上することができるだろうし、
うつ病患者の中の抑制された否定的感情をリリースすれば、
患者の抑うつ反応は過ぎ去るだろう。」


The suppressed negative feelings with their accompanying weigt of guilt
are like the anchor in the the analogy.
Release the swimmer from his anchor and he will rise naturally to the surface.
Release the suppressed negative feelings in a depressed person
and his depressive reaction will be over.

Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality 
Alexander Lowen, M.D. (1972)


自分がまだうまく理解できていないのはこの「否定的感情のリリース」について。

ローウェンが言うことから考えると
「否定的感情のリリース」の際には、
「罪悪感のおもり」もリリースされることになるのだろう。
どちらかというとこの罪悪感の方が気になる。

自分の引っかかりの発端は、
罪悪感が消えていく、ということを苦しいことと感じてしまう所にある。
リリースという語の意味を考えてみれば当然のことともいえるが、
罪悪感が「解放」される際に、ある種の「喪失感」が起こるとすると
それを認められないのは苦しい。

以前のクラスでは、
「現実の身体」と「自我の身体へのイメージ」の間で挫折が起こり、
そこで「現実の身体」の「喪失」が起こる。
その「喪失体験」を認められない場合には抑うつに繋がる、という話があったが、
「罪悪感の喪失」においても同様のことがいえるのではないか。

つまり漠然とした仮説として思ったのは
「罪悪感の喪失」も、これを認められなければ
抑うつに繋がり得るんじゃないだろうか。ということ。

しかし、この比較での基本的な違いは、
「身体」における現実性と、
防衛機制としての「罪悪感」の現実性の違い。
いかに長期間それが働いてきたとは言え、
罪悪感が消えていく、というのは「不必要になった防衛の放棄」なので
身体という現実の喪失とは根本的に違うんじゃないか、という点だろう。
そうだとするとそれが抑うつに繋がることはないのだろう。

まぁそりゃそうなんだろうな。
いつまでも罪悪感に固執していなけりゃならない、
と言いたいのではないのだけれど-

どうもローウェンの言う
「うつ病患者の中の抑制された否定的感情をリリースすれば、
患者の抑うつ反応は過ぎ去るだろう。」
ということがうまく腑に落ちない。
勿論実際にはそんなスッと起こることじゃないんだろうけれど。

否定的感情と罪悪感の違いは何か。

抑制されていた否定的感情が表れ、リリースされるのは
ある種の「快感」と捉えられるのに対し、
喪失体験を認めない、という抑うつの力動の中では
適応の機制として働いてきた「罪悪感」のリリースは
ある種の苦しみというか、抵抗を生むことなのだと思う。
防衛機制とエスの関係から考えてみると。

防衛機制を放棄することは苦しみなのか?
先生の、思春期のクライエントの話などからしても、
それはまぁ大変なことなのだろう。

つまり、
「この罪悪感という身を守るすべを捨ててしまっても安全なのか?」
「これを失って、自分の否定的感情なんかだそうものなら、
(過去にもそうだったように)また傷つくんじゃないか?」ということだ。

じゃあ、治療者という立場から考えて
この「罪悪感の喪失」をどう扱えばいいのだろうか。
実感からすると、これって結構根深いものなんだと思うな。
多分自分にも大きく関係しているから、どうも敏感になってしまう。

否定的感情を表すことができて、その根にあった喪失体験を認められれば
あえて罪悪感をクローズアップしなくても自ずと消えていって
それで問題ない、という風に考えていいことなのだろうか。
んー。

とりあえず、考えて分かったことは
結局自分が「何をわかっていないのか」ということなんだけど、

・罪悪感の喪失も、それを認められなければ抑うつのもとになるのか?
・防衛機制がなくなることと、罪悪感が失われることの違い

なんか、罪悪感には独特の根深い問題がありそうな気がする。
というかあれだな、「原罪」が救いになり得るだろうと思うのは
罪悪感に答えを与えてくれるものだからだ。

その罪悪感はあって当然っすよ。
だってアダムとイブの子孫だもの、
だって人間は自己中心性から逃れられないものだもの
みたいな。


人間って身体と神に綱引きされているみたいだな。
まー、ルターだってアウグスティヌスだってきっと
この「身体」との格闘から神について考えていったんだろう。
彼らの場合は身体から解放されるためかもしれないけど。

そして自分の力だけで解決するのは無理だ、
ていうかそもそも「自分だけで何とか」ってのが神に背くという罪だ、ってなって
同時に、信仰という営み自体がもたらす恵みの大きさに気づくみたいな。

ルターとかアウグスティヌスとかは身体という現実に
グラウンディングしていたと言えるのか?
どうなんだろ

もうすこしローウェンの言うところの「信仰 (faith)」について読んでから考えてみよう。

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