2011年10月31日月曜日

【雑】ご、GO! TEAMがももいろクローバーZに!!?



 *Ian Parton(The Go! Team) wrote the new score for Japanese pop group “Momoiro Clover Z”. 

うわーー・・・、アイドルの歌にこんなにトキメキを感じるのは・・・

星井七瀬/Seventh Tarz Armstrong以来か

労働讃歌(初回限定盤A)(DVD付)

だって、Go! Teamスゲー好きだし(特に『Milk Crisis』 そういやここでも日本語)

チアリーダー的なラップに(double dutch chantsと言うらしい。縄跳び?)

洋物刑事ドラマのサントラっぽいホーン部隊。

歌詞は大槻ケンヂで、絶望先生のやつは良かったし。

♪へこんでる奴らはだいたいトモダチ、か。ははは、いーじゃん。

肝心のももいろクローバーZのことはほとんど何も知らないけれど―、

とにかくまぁ・・・聴いてやられた、と。

あ、PVに新おにぃも


(こっちが本家The Go! Team)

人間・いのち・世界Ⅱ-7「ニヒリズムと宗教」

1限  151

今日は宗教改革記念日、ですね。では出席を
*久々このクラスの出席に間に合った…

前回はマテリアリズム(物質主義)という観点から見えてくる世界について。
まぁボクの授業はこちらから答を差し上げるというようなものではなにのですが
答は皆さんがどこかからかさがしてくる、と

今日は
(7)ニヒリズムと宗教
です。

ニヒリズムとはなんでしょうねぇ?
(学生)ニヒリズムはテロリズムに通じるということを聞いたことがあるのですが、個人主義的な―
(学生)虚無主義

「虚無主義」なにか内向きな感じのする言葉ですねぇ。
僕は自分の中にこれがあったという感じは全くないんですよ。
それは僕の生育歴によるものかと思いますが。

 *えー?まじでか。自分はそればっかの時期があったな。

しかし時代の性格としてそういうものがある、ということは分かっているのですが、
牧師になったばかりに読んだ本で「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)のなかの
主人公の心理状態としての「からっぽ」 という表現。
虚無主義とその空っぽが同一かどうかはむつかしいですが
なにか、「からっぽな自分」というものを見る、というのは内向きな感じ。
多分虚無主義においては
「内を見ても外を見ても空っぽ」なのかと思いますが。
空っぽ、空しさ、とか、そうした気分、感じ方が
現代の中に、私たちの中に巣食っているということでしょうか

後期の初めの授業に、「新新宗教」の回で、この空っぽ感についてお話したかと思いますが、
オウム真理教―僕はそのころ阿佐ヶ谷に住んでいたものですから、
象のかぶりもので選挙活動をしている人たちをよく見て、駅前には修行場もあったりして、
阿佐ヶ谷、荻窪辺りはキリスト教人口が高いところでもあるのですが、ルーテルも、聖公会も―、
大きなお寺もありますねぇ

その頃、オウムに入信した人のインタビュー記事が宝島かなにかに載っていたのですが
まだ、事件として扱われる以前ですね。
その記事に―(先生の朗読を拾い書き)

「昨年四月、私は小児病棟の看護師として働きだした、人間関係にも恵まれて充実感もあった、しかしどうしようもない寂しさがこみ上げてくる。気晴らしで遊んでも楽しいのは一瞬で、そのあと空しさが私を襲う、どうして他の人が楽しいと思うことに空しさを覚えるのか。小さい頃から感じていたが年々強くなる。心は不安になって追い込まれていく。布団をかぶって泣いていた。その当時交際していた男性がきっかけでオウムを知ることになって、入信。私がさびしかったのは「すべてが無常である」ということを小さい頃から感じいたに違いない」

この人はなにか、お金とか人間関係に困っていた、という事ではないですね。
むしろ充実している、ように見える。なのに空しい
それが、オウムと出会って「無常」として理解される。
それが自分の中の心の色、を作っていた、というか。
私は無常と彼女の空しさとは違うものと思いますが、
そのような言葉で心理状態をつかまえる、と。
そこに「教え」というものがあった、宗教が無常という言葉を教えているんですね。

実際に、この方のことだけではなくて、調査があって、新新宗教のことを話した際にもいいましたが
こうしたことが大きな入信の動機、となっている現代の特性。
だから、きっと、この人だけに特別なことではなくて、現代の若い人というか、その中にある一つの気分と。



仏教の言葉ですね「無常」世界の捉え方。
情がないということとは違いますよ。(無情ではない)
常なる物がない、と。すべてはかわっていく、と。
生きることはまた四苦八苦ですね。
なぜか
無常であると言う事を真理と受け取れず執着してしまうからだ、と。
物にも、人にも、自分にも。
この常ならざることに我慢ができない、そこに苦しみが起こる。

また、聖徳太子の頃から言われる事ですが、世間虚仮(せけんこけ)と
この世のことは全てかりそめ、と。これも無常の世界観です。
【辞書―世間虚仮、唯物是真】
現象世界は仮のもので、ただ仏の世界のみが真実であるという意。
聖徳太子の語として天寿国繍帳銘(てんじゅこくしゅちょうめい)に記される。

仏教の世界は、この世界からある意味では断ち切ると言う事での解脱
それによって救いを得ていく、と。だから第一義的にはこの世界を否定的に見ている、と。

*んー、無常即否定、じゃないだろう?そこは前提というか、足場、というか。

そうした無常観は日本人の中には比較的古くからあったということですね。
また、こうしたものと、「移り変わり」を肯定的に受け止める日本人の心性は調和しやすい。
(気候と人びとの性質の関係の話)
ある種の楽天的な気分だったものが、厭世的なものとして広がっていくのは鎌倉仏教から、ですね。
これは戦国、という世界の中で。
戦争がひろがる、武器を取る農民、農地が荒れる、血縁を超えた争い
いままでたしかなことと思われてきた共同体の崩壊、
また天変地異から、飢饉が多くおきた時期でもありました。
武家社会の勃興と没落
平家物語、驕れるものは久しからず―末法思想の浸透
はかなさ、もののあわれというものと無常観とが日本人の精神性に広まっていく

この、時代の大きな変化の中に私たちが投げ出されるという経験をする時に
確かさが感じられない中で、無常を実感していく、と。




こうした大きな変動において内面が揺り動かされるということは世界史にも例がみられる
例えば、西ローマ帝国の崩壊もそうです。
アウグスティヌスはその前夜の人ですね。
そういう時代だからこその、深い内面への洞察、また彼の神学的な考察の深まりが生まれたのではないか
不確かであるというのは世界の問題なのだけれども、
自分の奥底に確かさを感じられない、ということを、
彼は「原罪」という罪の問題として捉えていきます。
たしかなものを求める欲望が激しい人でもありました。
そしてそれが女性へ向くということがありました、またマニ教に向くことも。
そして最終的には、アンブロシウスの説教に出会って、そこに自分の救いの道を見出すことになった。
世界の大きな変動の時期です。
*原罪

また、中世末、近代前夜
そこで大きな試練を受けて新しいものを生み出そうとした人がマルティン・ルターです。
彼が戦った問題は「死の恐怖」でした。
当時はペストの大流行、飢饉があり、非常に死が身近なものであった。
社会そのものは新しい産業、資本主義のおこり、
それまでのおおきなキリスト教的な世界の支配が、しだいに地方地方の独立の気運に包まれる
激動の時代、でした。
ルターは、確かさを求めた。そして修道院に入る。
毎日が昨日と変わらない明日という形で続くならば生まれなかった不安なのではないでしょうか。

*そういや今日世界の人口が70億人になるらしい、とニュースで見た。
60億人になったのはいつだったか、でも20代になってから見たニュースとして覚えているな。
(60億は1999年だった)
『70億人目前、人類はいつからどのように増加してきたのか』(GIGAZINE)

また、日本においては明治維新
第二次大戦後
70年代、90年代
2001年、9.11
2011年、3.11
*ここでそう並べるか…

大きな社会の変化、自然も含めて、私たちに激動の時代を提示する、と。
こういう次代に私たちは生きている、と。
その時代時代に確かさを失わせるようなものがあって、また無常なるものがあると。
そこに虚無というものもあるのかもしれない。
そうした気分、が、現代の状況かもしれません。
(私は(最近はみませんが)あのポポポポーンのCMを見るたびに胸がキュッとするようなものを感じましたが)

3.11以降の絆、つながりという感覚、
改めて求められてきている。

なにか、たしかなものを求めていくというときに
「人と人とのつながり」あるいは「人と自然のつながり」
何か自分たちが失ってきてしまったものを確かめたいという思いが今非常に大きくなってきていると。

3.11以降世界は変わるという風に言われましたね。
僕はまぁそんなに楽観的にはみていなくて、それをも押し流す流れというものがあると思いますが
しかし、変えるきっかけ、にはなるんじゃないかと思っています。
自分たちが何をえらびとっていくのか、を自覚しない限り変わっていかない。
しかし私たちは時代の大きな変化の中で何かを求めつつ、
しかしつかめないときに見出されるものとしての虚無感

私はよくわかりませんが、最近のコミックや、なにかにもそうしたテーマがありませんかね
*そりゃやっぱ『自殺島』だろー




私は古いと言われるかもしれませんが宮崎駿のアニメの中に―
虚無との戦い、ということ
(ナウシカ、千と千尋の話がしばし)



ニヒリズム、と言ってしまうと、哲学の中の言葉として扱われますが
ニーチェのね。しかしそうやって限定してしまうと、
キリスト教の土台のない私たちとは無縁の問題か?となりかねませんが
そうではありません。

現代の大きな時代の変化
グローバリズム(アメリカナイズ)のなかの自由主義、資本主義の世界
それが人間社会の多くを被うような時代、そこには宗教とか、伝統的な社会を超えて
現代的な都市的な均一な空間が現れる。
人間の欲望を駆り立てる社会、消費社会の根幹ですね
生産者としての視点が追いやられがちな
また、個人の豊かさ、にばかり目が向きがちな
結婚ということも必要ではないと思われるような(3.11で少し変わってきているようですが)
繋がりが奪われ、人間が個に分断されて。無縁社会、孤族という表現がメディアでありましたね。
3.11で変わってきていると入っても、ぼくはこの流れは簡単には覆らないと思っています。
そう考えると大きなチャレンジの時代に生かされている、と。

僕がうまれた昭和30年代はまだまだ古きよき、というような時代でした。
物を売る人が家の前にきていましたね、豆腐屋さん、氷屋さん
いろんな年代の子達と石蹴りをして遊んだ時代ですよ。

失われてしまったつながり、断ち切られる、競争社会に押し込まれる、というような。
その反動としての「ゆとり世代」というようなことがありましたが―

この授業、前期は、「人間とは」「生きる意味とは」というようなことをやりましたが、
そのときに、意味というものは、関係の中に見出される、というお話をしましたね。
自分ひとりの中を見ていても、生きる意味などというものは見出されない。
誰かにとっての掛け替えのない自分となって見えてくるもの。生きることの確かさを受け取っていく。
誰かの子供であるとか、誰かの親であるとか、誰かの親友であるとか、恋人とか夫婦とか
そういったつながりをつくることのなかで、掛け替えのない結びつきの中で生きがいを見出す、と。
勿論、大きな社会の中での意味、というものもあるのですが。

そうした繋がりが失われると、私たちは意味を喪失する、と。

*これが納得できない、ということではないのだが、
どうもこの便宜的な感じに抵抗をおぼえる自分もいる。
人を無闇に殺さないための、人間が生き延びていくための、文化としての「つながり」
この「つながり」が現実的に役に立っていることは分かる。多分それが治療的にはたらく時もある。
けれど、そもそものところ何のためのつながりなのか、ということに確たるものは無い、
という所が自分の前提になっている。
あ、だから便宜的で良いのだけれど、そこを無視して話が進むことに抵抗を感じている。
多分、それを便宜的である、と認識していることは
意味を与えてくれるものである「つながり」が同時に苦しみを与えるものでもある、
ということを乗り越える上で役に立つということになるんじゃないだろうか。
なんか発想が虚無感っぽいな、というか安全確保の感じ、あるいはしり込みの感じ、言い訳の感じ

私たちは、僕が言えば(まぁ聖書が言えば)ということですが、
一人ひとりの違い、ということ、能力、条件の違いはあるが
一人一人掛け替えのない存在として神様に生かされている。
神様との関係の中に確かさが与えられる。
しかし神様は見えないものだから、必ず人をとおしてその繋がりがあたえられる。
そうした人との繋がりが断ち切られるほどに、私たちは意味を見出しにくくなる。

これが、まぁ、現代の私たちのある種の気分をつくってしまっていますね。

*神の与える掛け替えのなさ、を拒否したくなる心持ち、逃げたくなる感じ、重い感じ
ってのも神から背こうとしているという意味での「原罪」にあたるものなんだろうか?
だとしたら、それは背負って生きていく、ということで、まぁ良いってことなのか。
でもねぇ。
これ、必要なのかな。神が掛け替えのない存在として作ったって前提。
それが無くなること即ニヒリズムってことになるんだろうか。
もうちょっと人間の感覚、としての、意味を喪失することの恐怖、というか
恐怖じゃなくてもいいんだけど、ヤバイなって感じで、踏みとどまるってことは無理なのか。
あるいは、そこで踏みとどまれない場合の、保険としての、セーフティネットとしての神なのか。
(そういう状況を称してフランクルは「ヌージェニック神経症」という概念を作ったのか。

・ヌージェニック神経症[訳注 実存的葛藤から生じる状態]
(Frankl)一般に神経症のおよそ20%はヌージェニックと考えることができる。セラピストは、患者が直面している実存的問題を理解し、人生の目的と意味へと患者を導くことによって問題の克服を手助けしなければならない。(『心理学者、心理学を語る』)

フランクルが言うような
「生き延びる理由や目標をもっている人は、生き延びる確率が最も高かった」
「宗教は意味への意志の一つの形態」(『心理学者、心理学を語る』)
というのは、それはもうそうなんだと思う、納得もいく。
その理由や目標があらかじめ設定されている、という意味での神の機能にはうまくなじめないのだけれど、
それに対して、人間は神から背くという原罪を負っている、っていう一つ入り組んでいるところが
自分にとってのキリスト教の魅力というか、まぁ惹かれるところなんだろうな。



西欧ではですね、ニヒリズムが改めてクローズアップされるのはニーチェですが
彼は何を言ったのか。
神は死んだ、とこう言ったと。
この言い方はあまり正しくなくて「神は死んでいる」です。
こういう言葉によって何を表したか。
近代のある種の終り、ですね。
近代が作ってきたのは、その前の中世からの大きな転換の時代です。
キリスト教的世界からいかに人間の自立的な歩みをするか、と言うのが近代ですね。
西欧の近代の人間の自立、は、しかし背後に神を抱えていたんですね。
*対神恐怖(岸田秀)
そこからの脱出も一つの営みでしたが、そこには相手としての神はいつもあった。
そしてそれが近代を支えてきました。

デカルトというひとがね、コギト、精神的な自我というものを世界の足場にしたんです。
世界は神様が作られたと教えられてきた、
しかし、そこでの疑い得ない自分の足場を求めざるをえない。
そうしてたどりついたのが、考えている、疑っているという自分、つまり精神的な自我、です。
考えている限り、考えている自分がいるということは、論理的にたしかだ、と。
つまり考える自分、が足場になるのが近代的自我の出発点です。
でも、そうすると、考えている自分の確かさはわかるが、世界の存在は自明ではなくなる。
そこでデカルトが取り入れたのは、神の存在証明であり、そこから世界の確かさを導くわけですが
近代的自我の背後にそーっと神様がもちだされていた、ということです。

唯一の神があるという事が人間の生きることの
普遍性、永遠性、絶対性
そういう価値を保証するもの、なんですね。

ヘーゲルは、人間の精神と言うものの自己運動の中で絶対精神にたどりつく、と。
今は私たちの知っていることは限られているでしょ
しかし少しずつ分かるようになるじゃないかと。真理が
やがてその精神は「絶対的な真理に到達する」。これはつまり神になるということです。
近代と言うのはこうした真理をどうしたらひとが見出されるのか、ということへの格闘の歴史、と。

すこしさかのぼりますが、カント
カントも、神の有無は人間が扱える問題ではないが、
しかし神が無ければ困る、と言った。それは倫理の領域で困る。如何に生きるかということ。
これは善を求めて生きる。そこでは善が自明でないと倫理が成り立たない。
そういう私たちにとって必要な神。
どうしてか。神の裁きがないと、正直ものがバカを見る世界になってしまうから。
倫理の成り立ちに神は必要。つまり
「善の基準」がないと人間は生きていけないということを表しているんですよね。

近代と言うのはそうしたあゆみ、
人間の新しい歩みをつくるなかで、
ずっと神の問題を引きずっている(まぁこの表現が正しいかどうかは問題ですが)
まぁともかくそういうこと。

その果てにニーチェが言ったこととしての「神は死んでいる」
神を想定していることそのものが間違っている、と。
不条理なものは不条理だと。
絶対の真理なんてない。どこかにあると思っているのか?そんなものはない、と。
あるのはなにか。
あるのは一人ひとりが自分の都合にあうように認識している世界。
私が見ている世界と、○○君が見ている世界は違う、人間が違うんですから。
見ている世界が違う=皆自分の中での意味づけに基づいて世界を認識している訳だから、
その果てに、真理の世界として、みんなの世界認識が一致するのか?
そんなものは無い、と言っているのがニーチェです。
だから絶対的な善もないし、一人ひとりの都合のよさがあるだけで
そこでは力のある物が基準をつくる、と。
その時の強者が、自分の善いを実現するために決まりを作っている。と。
悪人だろうとなんだろうと、強い者が勝つんです。そして世界をつくっている。
いうなれば、強ければ善い、という事なんです。それが世界だ、と言うのがニーチェの世界観です。

神など無いのだから、それが私たちの生きている世界だから。
そうして彼はキリスト教批判を行います。彼は牧師の息子ですがね。
そしてルサンチマンという言葉で宗教を言い表します。
ルサンチマン、つまり、負け犬の遠吠え、ということですね。そのくやしさの感情
だから、強いものが勝つんじゃ困る弱い物が、宗教を作ったと。
宗教は弱者のルサンチマンだ、と。

弱いものは殺せというのが強い物の理屈です
「小さき者を大事にせよ」というのはそれに対するルサンチマン、と。

ニーチェはそういうことで
じゃあどうするんだ、と。どう生きるんだ、と。
そこで持ち出されたのが「超人」です。超人になる、と。
そういう無常なるものを引き受けて生きることの決断をする。
これがニーチェのニヒリズムの中に生きる答えなんですね。

すごいなぁと思いますがね、
しかしニーチェは発狂してしまいましたね。

わたしたちは人間なんだから超人にはなれないですよ。

*超人、というから、人間には無理ということになるかもしれないが、
それは短絡的ではないか?
例えば「自己超越」ということはしかしあってもよいのではないか。

V.E.フランクル:「自己超越とは、人の存在が何か他のものや他の人に向けられていることを意味する。人間であるということは、実現すべき意味を得ようとすることだ。たとえば、誰かを愛したり大義のために身を尽くしたりするとき、人はことばの最良の意味で本来の自分になる。意味を見出す動機づけがあると僕は言い続けているんだよ。」(『心理学者、心理学を語る』)

しかしこのニヒリズムは神を否定したこと中でおこったことでした。
しかしキリスト教においては、神無きニヒリズムではないのです。
神があるところでのニヒリズム」、これは北森嘉蔵が言った事ですが
これは、だから「神なきニヒリズム」より深い絶望ですが、
そこでたった一つ見出される光としてのキリストの十字架

20世紀に生きた神学者、ディートリッヒ・ボンヘッファー
彼はナチスドイツの時代に一度は海外に逃げますが、ドイツにもどり地下活動を行います。
そして45年の解放直前に処刑をされてしまった人です。
20世紀の神学者の中でもひとつの、深い、神学思想を持った人と
彼は「神なしに、神の前で、神とともにいきる」と、こういうんですね。

ボンヘッファーのことは興味を持っていただけたら、本を読んでいただければとおもいますが
(江藤先生はボンヘッファーの専門です)
神無しという、深い現実をみながら、自分は神の前で、神はいないけど、神とともにいきるんだ、と。

これはニヒリズムを行きぬく一つの信仰の姿として着目をしたいところと思います。
その根拠にあるのもキリストですね。
十字架上で「エリエリレマサバクタニ」と叫ぶという事は、神はいないということです
しかしそこは神の前であり、神がいたもう、という出来事であったという事と思いますが
(まぁこれ以上行くと神学のクラスになりますからここでは踏み込みませんが―)

そうした私たちの寄る辺の無さ、
そこで必要とされるものとしての宗教と言う事をぼくは考えますが
(宗教はなくならない、なぜなら必要とされているから)
そこでキリストというものがあらためて大事になるということが僕の答えですが。

*必要である、ということと、キリストの掛け替えのなさ、ということがどうも腑に落ちないな。
必要とされているのは必ずしも宗教、という事ではないのだろう。
意味を与えてくれるものなら、まぁ
仕事でも家族でも自助グループでも趣味のサークルでも良いんだと思う。
或いはカウンセリング、とか精神分析でも。
意味を与えてくれる、という意味でもそうだろうし、まぁ意味を見出す手助けをする、とか。
じゃあ何故「宗教」が求められているといえるのだろうか?
一番奥の、一番行き詰った先の悩みの光として機能するのは宗教だけだ、
という意味なんだろうか?

2011年10月30日日曜日

【本】アルカナシカ

アルカナシカ 人はなぜ見えないものを見るのか
田口ランディ=著 角川学芸出版(2011)





●Ⅱ-1 カントの亡霊と出会う

P32/2008712日 東京都千代田区永田町の星陵会館において
「トランスパーソナル学会 第八回学会大会 『信頼』への祈り」

この会の特徴といえば、学問領域に限定された学会ではなく、様々な学問の教会を超えた学際的な学会ということだろう。役員の顔ぶれを見ても、心理カウンセラー、僧侶、翻訳家、占星術研究家、と多種多様な人材で構成されている。

 私たちはトランスパーソナル(個を超える)という考えにそれを(*新たな時代の希望)を求めます。それは現代のさまざまな問題には、近現代の合理主義・科学主義、そして個人主義の限界が映し出されていると考えるからです。人種・性別・思想信条の違いなどを超えた人と人とのつながり、過去の世代や将来の世代とのつながり、人間と大自然とのつながり、そして、人間と人間を超えたものとのつながり。こうしたつながりを見失い、この利益と快楽を追い求めた結果、現代のさまざまな問題が生まれているのではないでしょうか。だとすれば<個を超えたつながり>の回復によってでしか、現代社会の矛盾は根本的に解決できないのではないか、と思えるのです。私たちはまた、個人の内面(心)と社会や環境とのつながりにも着目します。世界的な規模で広がる社会・環境の荒廃は、同時に、個人の内面で進行しているプロセスと一致していると考えるからです。

P34/トランスパーソナルの代表的な学者としては、フロイトの弟子だったロベルト・アサジオリ、日本では「至高体験」に焦点をあてたことで知られるアブラハム・マズロー、過呼吸によるホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフらがあげられる。現在インテグラル思想の提唱者として活躍するケン・ウィルバーは、かつてトランスパーソナル心理学界きっての論客であったが、彼はすでにトランスパーソナル運動との決別を宣言している。

(この心理学、運動の抱える問題は「科学的ではない」と判断されがちなこと)
なぜかと言うと、トランスパーソナルな体験の多くは、ふだんの状態とは違う意識状態、つまり変性意識状態のときに体験されることが多く、そのような特殊な意識状態における体験が、果たして現実なのか、それとも厳格なのか本人には区別がつかないからである。

●Ⅱ-2 ファンタジーと変性意識

P43/2009330日の「ファンタジーと変性意識」という鼎談
「神話やファンタジー・エイリアンアブダクション・臨死体験・シャーマニズム・宗教・犯罪・社会的な事件。上記のような切り口から、神話的元型を取り出し、それはなぜ、変性意識状態で顕現するのか、どんな意味が隠されているのか。なぜ私たちにはファンタジーが必要なのか、について考えて生きたいと思います。」(田口ランディ)
○プレゼンター&鼎談者
田口ランディ(作家、本学会理事)
鏡リュウジ(心理占星術研究家、本学会理事)
蛭川立(明治大学准教授、人類学)

蛭川立-『彼岸の時間』(春秋社)の著者であり、自ら世界各国のシャーマンを訪ね歩き、アヤワスカやマジックマッシュルームなどの幻覚植物による変性意識状態を体験、フィールドワークを積み重ねてきた気鋭の文化人類学者である。

(鼎談の内容を蛭川がトランスパーソナル学会のニュースレターに)

・鏡さんは、劇的な変性意識体験を語らなかった。異なる意識状態、異なるリアリティは、日常的と思っている意識状態のすぐ隣にあって、ちょっと意識をスライドさせるだけでそちらのリアリティにアクセスすることが可能だ、というのである。まったく正論であって、ウィリアム・ジェームズがすでに百年前に『宗教的経験の諸相』の中で語っている通りである。

P45/鏡さんと私(*蛭川)は、UFOやエイリアンが、地球外から飛来してきた知的生命体という説には懐疑的で、むしろ、それらが元型の投影であるとするユング的な、オーソドックスな解釈に近い立場であった。

P45/ランディさんが、そもそも「『便器そのもの』なんて、見ることが出来るの?」と問いかけた。この「便器そのもの」は、異なるレベルで解釈できる。
1)美醜の判断というフィルターを通した、便器の通常の知覚像
2)美醜の判断というフィルターを通す以前の、便器の純粋な知覚像
3)知覚像の向こう側にある、便器という物質自体
という階層に分けてみるとき、メキシコでランディさんが体験したのは(2)の知覚像だったといえる。単純化していえば、これは現象学で言う「事象そのもの」である。メカニズムは不詳だが、サイケデリックすには、こういう「判断停止」を引き起こす作用があるらしい。ただし、美醜の判断が停止しているはずの「純粋経験」は、無味乾燥な灰色の経験であってもいいはずなのだが、なぜか輝くばかりに美しかったりもする。

 さて、しかし、ランディさんの発言を受けて、鏡さんはいきなり「ここにお集まりの皆さんの中で、カントの霊をおろすことが出来るひとがいたら、呼んでください!」と呼びかけた。
(略)
 われわれは、便器の知覚像を経験することはできるが、その背後にある(かもしれない)「便器自体」を扱うことはできない、というのがカントの立場である。さらに、神様や霊界のように、直接経験することができないものについては、理性の対象としては扱わないことにしようという制限を設けた。(もっとも、神様がいないと道徳というもの根拠がなくなってしまうので、そういう理由で神様のことを考えるのは必要なのだという)ところが同じ時代のスウェーデンボルグという人は、霊界を見てきたと主張した。もしそうだとすると、霊界などという超自然敵領域は(空想することはできても)見たり聞いたりすることは出来ないのだから、そういう理由で扱わないことにしよう、という前提が崩れてしまう。

・カントは、人間には持って生まれた知的な能力があり、それはりんごが木から落ちるのを見て万有引力を発見するような能力であり、結果が正しいかどうかも理性で判断できるのであるからして、形而上学的な志向を始める前に、その知的な能力(理性)が扱える範囲を設定しようではないか、と考えた。それを吟味したのが「純粋理性批判」である。

 さらに、カントはそれまでと180度違った認識論を提唱する。これぞまさに近代の礎となった認識論である。カント以前は「リンゴがあるからそれを受け入れている」と考えられていたのだが、カントは「人間はリンゴ自体を認識することはできない。あなたがそう見るからそれはそのような林檎なのだ」と説いたのだ。現代においてはあたりまえのことだが、人間の認識が世界を構成していることに気づいた最初の人間がカントなのである。
人間の認識が現象を構成する=コペルニクス的転回

●Ⅱ-3 視霊者の夢

P51/カントのスウェーデンボルグ批判の書『視霊者の夢』
-学問においては扱わないのが「賢明である」

P53/私は、カントも私と同じような視霊者のリアリティに圧倒されたのだと思いました。

●Ⅲ-1 黄金のトイレは現実か非現実か?

P62/ 杉山明(AKIRA)『神の肉テオナナカトル』(幻覚キノコによる体験をもとにした著作)
(田口ランディとの共著)『オラ!メヒコ』(角川文庫)
ウアウトラのマジックマッシュルーム

P71/ 階段を降りて家の裏へと向かう。そして、あの汚いトイレの前にたって、壊れかけた扉を開けたとき、目を疑った。トイレはありのままに汚かった。汚いことに変わりはなかった。何一つ変化していなかったにもかかわらず、そのトイレは神々しさで光り輝いていたのである。トイレは汚れているにもかかわらず高貴で神聖なものとして私には感じられたのだ。その神聖さたるや、わたしが体験したすべての神聖を足しても足元にも及ばないほどの神聖さだった。というか、私は生まれて初めて神聖とはどういうことなのかわかった。こういうことなのである。このような感情、感覚を私に与える物が神聖なのである。つまり私はこれまで神聖なものを診たことが無かったのである。そして、最初に接した神聖さをもつものが、メキシコの田舎の糞まみれになったトイレだったのである。
(略)
目に見えるものは何一つ変化していない。それなのに、どうしてこんあに美しいと感じてしまうのか。

P75/説明することは可能だ。マジックマッシュルームに含まれる幻覚成分シロシビンが脳に作用して私の視覚をゆがめた。それによって、世界が光り輝いて見えた。いまわのきわにいる人間はときとして多幸感に包まれて世界が優しく光り輝いて見えるという。脳は人間を苦しみから救うために快感物質をだすのだそうだ。だとすれば、私はなぜ、いつも幸せな状態で生きることができないのか。脳が認識した世界が現実なら、私の脳はなぜいつも快楽物質を出さないのか。私はなぜ好き好んで汚い檻の中で生きられているのだろうか。常識や既成概念や刷り込みによって、どれほどの神秘と美と幸福が失われてることか。この世を覆っている人間の間違った認識から解き放たれて、美しさや神秘を選択して生きる方がよりより人生ではないのか・・・・・・。

*M この本においては追求されない点だが、何故著者が「このトイレを」あるいは「糞まみれのトイレを」美しいと思ったのか、ということの理由を追求しても良かったのではないか。すべての物が美しく見えていたということではなく、「このトイレが美しく見えた」ということの解明に向かったとしたら、心理療法的な筋道で面白い。

(略)
だが、私は自分が「感覚によって呪縛された奴隷」であることを、あの夜にはっきりと認識するに至った。私は支配されている。私は実はもっと自由なのだ。人は意識によって構造化されていないものを認識するのは困難である。だが、困難であるということに気づくべきだと思った。私たちは意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭でいきているのだ・・・・・・ということに。

*M 岸田秀の幻想論―現実そのものを見ることは出来なくとも、その幻想があるということに気づくべきだということ。フロイトの治療論、自我が無意識的に防衛機制をはたらかせているということ、あるいは、エスは自ずから浮上しようとするもので、超自我もまた無意識的に人間の行動を規制する、ということに気づくのは治療的な働きをする、ということ。
また、ルターの「奴隷意志論」あるいは決定論的なもの、の中で「自由」に生きるという事。

●Ⅲ-3 認知の限界

P89/スウェーデンボルグルター派のキリスト教徒だった。ちなみに、カントの両親も敬虔なルター派の信徒であり、カントはルター派の影響を強く受けている。
 北欧諸国のキリスト教への改宗は18世紀で、ヨーロッパの中では最も遅かった。まさにスウェーデンボルグの生きた時代に、スウェーデンボルグの生きた時代に、スウェーデンの国教はルター派となり、国民のほとんどがルター派に改宗したという。ちなみに北欧諸国はすべてルター派である。では、いったいルター派とはどんな教派なのだろうか。
 ルター派の創始者はドイツ人のマルティン・ルター。元アウグスティヌス派の修道院の修道士だった。彼は徹底的に修道院の戒律を守り修行に専念した結果、修行や善行をいくらがんばってやったところで救済にいたることはない、という確信に至った人である。当時、カトリック教会の腐敗振りはひどかった。教会は聖書すら信者に読ませることなく、怪しげな秘儀を与えたり、救済を約束して(免罪符)お金をだまし取ったりしていた。その堕落ぶりに怒り、教会を糾弾し、宗教改革の口火を切ったのがマルティン・ルターだった。このルター派の考え方が日本人の私にはなかなか理解しがたい。
(略―奴隷意志論の説明があって)
つまり、人間は神に関して言えば「必然的無知」なのである、と。

●Ⅳ-1 狂っているのは誰か

(体験の強度、の話。体験が彼、を捕まえてしまう。体験において主導権は自分にはない。)
ひとたび体験が始まると、そこには自力は存在しない体験によって連れ去られてしまうのだ。だから体験は圧倒的で暴力的な力をもつ。体験の扉は危険とみなされる。体験は科学的根拠のうえに経たない。それゆえ体験にもとづくものは推論よりも低く見られるようになったのだ。推論には理論的な段階を踏んだ根拠があるが、体験は問答無用である。自我のコントロールが効かない。だから危険なのだ。
(そして、神の存在にもまた根拠はなく、宗教も体験である、という話)

●Ⅳ-2 体験と認識

P110/(鏡リュウジ)ここでぼくはやはりユングを思い出します。ユングはしばしは「経験論者」として自らを位置づけますがその意味は通常のものとは異なります。
ユングは、「強度のある」体験を重視したのです。それが事実ではないとしても、それはともかく、心のレベルでは事実なのだから、そのまま大事にしよう、としました。それが例外的な、客観的な事実とは異なる「心的現実」であるということを自分の心の中で保持したままで、ということです。
こうした禁欲者としてのユングという側面がぼくにとって自分を「奔放な天才ぶり」に落ちることを、オカルトの世界に関わる中での一種の防波堤になっているような気がします。もっともユング本人ならぼくのこのような姿勢を知的臆病さだとか怠惰だといわれそうな気もしますが。

P112/私たちは体験から何を見出すか。そして、どのように他者と共有するか。現実混同されてしまうほどの強さを持った体験。心的事実とは思えないリアルな体験。そのような体験をする人間は枚挙にいとまがない。それはなぜか。なんのために?カントの苦言を握りしめ、そのことをいま、もう一度考えてみたいのだ。

人はなぜUFOを見るのか。

*このことへのアプローチのためにも、やはり、その前に、なぜトイレを美しいと感じたのか、ということの自己分析が欲しかったところ。

●Ⅴ-2 円盤との遭遇

(五月男さんの話-過酷な戦争末期、戦後の中国を潜り抜けて引き揚げ船で日本には戻ってきたが、母を母と思い出せない)
P138/記憶の玉が弾けた。
何も言葉が出なかった。あまりにも思いが溢れて放心した。
 そのときに、また、空にアレが浮かんでいたのだ。母親に抱きしめられながら、五月男さんは青空にぽつねんと浮かぶ光るお皿を眺めていた。そして、母親に向かって、それを指差すと、母親は指の先に浮かんでいる物体を見て頷いた。
「ああ、お空のお皿さんやね」

●Ⅵ-1 体験その後
P152/もう一人、UFOに乗ったという体験を持つ人を紹介する。
いまはすっかり有名人になってしまった木村秋則さんである。

P163/宇宙人たちが教えてくれるのは「意識の枠をはずすことだ」と、秋山(*秋山眞人)さんは言う。私たちは知らず知らずのうちに「これはできる、これはできない」と、意識で自分を制約して生きていると言うのだ。
「我々の内側には、どこかに、自分自身を制限しようとする意識が存在するんですね。そして、その自分自身を制限しようとする自分自身の意識、つまり自分自身との戦いこそが、我々に唯一許されている戦いなんです。実際、宇宙人たちはその戦いに勝ち続けてきたからこそ、あれだけの進歩を遂げ得たわけですよ」
私は頭を抱えた。
「ということは、私がスプーンを曲げられないのは、スプーンは曲がるわけがないという思い込みのせいなんでしょうか?心から曲がると思えば曲がるんでしょうか?」
「そうです」

言葉の翼の代わりに、こういった“体験の翼を求めるひともたくさんいるのだろうな。(S.ISHIIクラス)/オウム

●Ⅶ-1 洗脳と脱洗脳

P180/2009年に角川書店の「野生時代」誌上で、小説「マアジナル」の連載が始まった。UFOとの遭遇体験を題材に「人間は何故見えないものを見るのか」を物語の中で探っていく試みだった。
 連載にあたって、どうしても取材してみたい人物がいた。
脳機能学者の苫米地英人さんだ。(『洗脳原論』)

P182/人間は脳内の仮想空間でも臨場感を感じてしまう。脳の進化の結果、夢や映画や小説の世界でも心臓がどきどきしたり、うっとりしたり、嘆いたり、怒ったりすることが出来るようになった。それゆえ洗脳からも逃れられなくなったのだ。どっちみち生きている以上は何かに洗脳される。他人に洗脳されるくらいなら、いっそのこと自分で自分を洗脳してしまえ、・・・・・・というのが彼の洗脳論だった。

「なるほど!」」と私は苫米地理論にあっさりと洗脳された。そして、この不思議な男に会ってみたいと思ったのだ。

・(人間はいつも変性意識状態だ、UFOも幻覚だが世界はすべて幻覚だ、人間は想像力の中で感じる臨場感に対してもホメオスタシスを持っている、宗教はどうやって強烈な変性意識状態下で、神秘体験をさせるかに必死になっている、ってな話)

P186/私にかけていたのは「情報」という概念であった。

P188/東京大学大学院情報学環の西垣通『基礎情報学―生命から社会へ』(NTT出版)にはこう書かれている。

20世紀初頭以降、対象系を自足したものとしてとらえるのではなく、これを対象系と観測者との動的な関係としてとらえるという考え方が主流になった。物質とエネルギーのみに注目する古典物理学の19世紀的な世界観は棄却され、自然界を認知し、情報を取得する「生命活動」が新たに位置づけられたのである。物質とエネルギーにつぐ第三の存在である「情報」の出現は、こういう経緯といったいのものとして理解されなくてはならない。

(略)

原子の内部に存在する、素粒子という極限のミクロの世界に至ったとき、「観測者(人間)のみるという行為が素粒子の状態に影響を与えてしまう」という難題にぶち当たる。これを「観測問題」と言う。

*心理の世界の当たり前的なことが、物理学ではミクロの世界に行くまでおこらない、みたいな。でもここでの作法は、なにか参考になるのかも。

【辞書-素粒子】(elementary particle)物質の構造を分子・原子・原子核・と分けて階層的にみたとき、原子核の次にくる粒子をいう。光子・電子・クォークなど。また、現在では内部構造を持つことが分かっている陽子・中性子・中間子なども、歴史的経緯から素粒子と呼ばれることがある。
粒子と波動の二面性をもち、また不変のものでなく相互作用により相互に転換したり生成消滅したりする。基本的な属性として質量、電荷、スピンがあるほか-

P191/(苫米地)「でも、一般的に町の治療院とかで行われている気功はもっと単純なんだ。いわゆる気功と言う現象を施術者が強く強く確信することによって、患者を変性意識状態に入れてしまう。もちろん、不特定多数の他者を変性意識状態に巻き込むにはそれなりの強い確信が必要だから、そのために修行したりもする。とにかく、他者を変性意識状態に巻き込むためには自分が強い変性意識状態にいることが大切なんだ

「なるほど、つまり洗脳しようと思ったら、自分がまず洗脳されていなくてはダメなんですね」

「そうだよ。そして相手を同じ状態にシンクロさせていく。すると相手も変性意識に入り、患部が熱くなったり、痛みが治ったりする。それはほんとうに身体がそのように反応している。だから幻覚ではない。」

*なるほど、それはたしかに幻覚ではないし、他者を巻き込む変性意識状態、というのも分かる気がする。蛇ににらまれた蛙とかもある種そんなんかな

P194/自分が見ているものはすべて幻想なんだという事を理解すれば、人間は自由になれる
「なんとなく、苫米地さんが言っていることって、仏教と近いような・・・」
「そうだよ、ブッダが言っていたのはそういうことだ」
「ブッダ、ですか?つまりブッダはすべての洗脳から解かれた人。だから解脱なんですか?」
苫米地さんが、最も尊敬する人物はブッダだそうだ。


・内部表現の書き換え 強固な自分のこだわりや、思い込みを外す
*CBT

P200/苫米地さんのセミナーには、奇妙なダブルバインドがある。
「覚醒することで、自分の思うがままに生きよう。金も名誉も地位も思い通り・・・・」というような謳い文句で若者が集まる。しかし、そのなかで教えている内容は「世界はすべて幻想であり、君らは洗脳されている。まずは幻想から覚醒して、自分で幻想を創ろう」である。入り口は現世だが、実は出口はあの世なのである。それくらい次元が違う。彼らは、欲しいものを手に入れるために欲望を消しなさい、と言われていることに気がついているんだろうか?

P202/以前に苫米地さんと対談したときに、
「いったい、苫米地さんがほんとうに心から望んでいるものはなんなの?こんなに儲けて何するの?苫米地さんの野望ってなんなの?」
私の質問に、彼は真顔で答えた。
「人類を救済すること」
なぜか、これは冗談じゃないな、と思った。本気なんだ、と。
そのときふと思ったのだ。この人は彼の言うところの「内部表現を書き換え」ている。つまり、セミナーで彼を慕って集って来る若い男性たちに教えていることを身をもって実験しているようなところがあるのではないか。・・・断言は出来ない。私は苫米地さんではない。あくまで推測だ。

●Ⅷ-3 破壊と想像のシンボル

異端の数ゼロ-数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』(チャールズ・サイフェ=著、早川書房)
ゼロの誕生から、その概念がいかに現代物理学に脅威を与えているかをわかりやすく解説

 ゼロはバビロニアに生まれたのだ。でも、西洋はゼロを無視してきた。西洋の文化にとって無は不気味で拒絶すべきものだったのだ。アリストテレスはゼロを認めようとはしなかった。ゼロは神の存在も脅かす概念であるから、キリスト教文化圏においては危険な存在だった。

●Ⅷ‐4 さらなる無限の旅へ

もしシュレディンガーの言うように、この世のすべてのものは波動として存在し、私が見た瞬間にそこに形成され、見ていないときは存在しないのであれば、いったい生命とはなんなのか。かつて、ローエルが呟いたように、そのような世界の普遍性と私たち生命の多様性はどう統合されるというのか?
その答えが東洋思想の中にあるのなら、それを追ってみたい。
量子論から宗教へ、そして神話の世界へ
UFOと生命の神秘は、きっとどこかで絡まりあっているはずだ。


●参考文献(一部抜粋)
カント-世界の限界を経験することは可能か』熊野純彦 日本放送協会出版 2002
『こころの情報学』西垣通 ちくま新書 1999
『洗脳原論』 苫米地英人 春秋社 2000
『私は宇宙人とであった』秋山眞人 ごま書房 1997


(本作品は、角川学芸WEBマガジン(第39回~43回)連載の「不可知への冒険」を大幅に加筆・改稿し、改題したものです。)