2011年11月2日水曜日

英専7-Depression and the Body 救世主願望/喪失の再体験


1限 151 857 でもまだはじまってなかった。

Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality 
Alexander Lowen, M.D.
First published in the United States of America by Coward, McCann & Geoghegan, Inc., 1972
Published in Pelican Books 1973, Published in Compass 1993 

(邦訳)うつと身体 〈からだ〉の声を聴け  春秋社 (2009)
 アレクサンダー・ローエン=著 中川吉晴/国永史子=訳
 




●「セクシャリティ・救世主願望・喪失の再体験

chapter3. The Energy Dynamics of Depression
○P85(邦訳P91)から
・近親姦は実際おどろくほど起こっている。
・親がそれに無自覚な場合は、子どもの方が非難され屈辱を与えられる。
1章のAnnのケース-親が性的罪悪感を子どもに転嫁する
・また、感情レベルで親と性的に結びついている子は「いや」と言えない。
・子どもの独立性、アイデンティティの喪失-セクシュアリティを抑制する以外になくなる。

・セクシャリティのテーマ、どんな風にセクシャリティが押さえ込まれていくか

「いやだ」とうまくいえないという事の分析における一つの仮説として
近親姦の問題をあげている。男性女性どちらでもありえる話です。

男性であれば母親もしくは、きょうだいのあいだでも。
女性であれば父親という存在が、願望と誘惑の葛藤がおきやすい対象でもある。
そこで自分自身の感覚、アイデンティティが育ちにくくなるか、ということの例ですね。
身体性とセクシャリティは関係していますよ、と。

○次もいきましょうか。
・感情の抑制が抑うつを導くのは、感情に基づいて行動を決められなくなるから。
・そうなると内部志向型(inner-directed)であるために必要な自分自身への信仰(faith)が失われる。
・両親によって、外部に行動の基準を求めることを余儀なくされる。
・大人になってからも外部から愛と承認(love and approval)を得るために努力を重ねる。
・個人は全エネルギーをかけて愛と承認に値することを証明しようとする。

(学生)内的-外的志向性の濃淡は誰にでもありますよね?抑うつの人にも内的志向性はあるとおもうが、それはゼロってことではないですよね?

そうですね、0100ってことではないですね。
ただ、無力な子どもの内に外からの影響性が強く入ってくると、
子供は自分の事として考えようとするところが壊れてしまうと。

子供は親大好きですから、そういうものだと思って親の体を触っていたりとか
あるいは、親が淋しくて癒してほしくて子どもを使っているというような時でも
子供は親が好きですから、奉仕するような形でパーソナリティが形成される。
親を喜ばせることが良いことで、そしてそれが自分にも「快」なんだという
パーソナリティが作られる、という事で外的志向性が強くなると。

そこで親の方にセクシャリティの充足や独立性の問題があると、
子どもを離せない、ということが起きて、子どもの自立性を阻害してしまう。

(学生)こうした事を聞くと、親の喜びが自分の喜び、また自分が親になって、子どもの喜びが自分の喜びという感覚が自分の中にあることも問題なのか?と思えるが。

それは質の問題ですよね。
「子どもの喜びが自分の喜び」という時に
親が「自分を外していないかどうか」という。

(学生)外す?

自分の喜びをもっていて、「子どもの喜びが自分の喜び」と言っているのかどうか。
自分が無いから彼らに、となっているのと。
そこは繊細な力動がある。

ローウェンが言っているAnnの例だと、
お父さん自身のセクシャリティの問題がAnnに置き換えられていないか、という。
そうなると、Annは自分自身なのか、お母さんの代わりなのかわからなくなってきちゃう。
そうすると女の子にとって自分を確立するときに、お母さんをみて混乱してしまうと。
自分なのかお母さんなのかよく分からない。
それはセクシャリティの問題なので思春期から青年期にかけておきやすい問題。

(学生)代替物としてあつかってしまう、ということですか。

そういうのは子どもの治療の中でしょっちゅうありますね。多かれ少なかれ。
子どもが大変だって言って連れて来るお母さん。
実は「子どもが-」って言いながら自分の話をしたい、と。
でも子どもを借りてしかいえない、とか

或いは逆に、子供は問題を起こすが、
よくなりそうに鳴ると引き取ろうとする=治療を止めようとするお母さんとか。
それはわかるでしょう?
子どもが元気になると自分が頼れなくなっちゃうので。
引き戻すんです。その時の「もうやめさせます」の勢いはすごいですよ。

これって面白いですよね
子どもが元気になると「いや」って言い始めるんです、それまで言えなかった子が。
そしたら親は「子どもが悪くなった」と言ってさーっと引きあげていく
そこで治療者とお母さんの同盟関係があれば話が出来るんだけど、
子どもと親と両方と同盟関係を結ぶことが必要になってくる。
そこはいま難しいですね。
子どもだけポンッと渡していくお母さんだと。

(学生)今のお話の母親は、自分の状態に疑問はない、ということですよね。

そうですね。
子どもの問題に向き合うより、自分の問題に向き合うほうが全然難しいですよ。
歴史も長いですし。これまでそうやって生きてきたという自分の守り方があるので。
変化することも非常に怖いことなので。
でもそれは、子どもがカギになって(親が)変わることができるという
臨床家としてのチャンスでもあるんですよね。

また、嫉妬や罪悪感の問題。
子どもが治療にいって帰ってきたら「いや」と言うようになるわけじゃないですか。
そこで治療者と親との協力関係がないと治療が難しくなる。
中断がおきやすくなってしまう。これは結構あるんじゃないかな。

個人と個人を取り囲む集団の力動も抑えておかないと
子どもをみる時に、どう親と協力できるかという観点がないと。

(学生)家族療法のような関係性ということですか?

いま必要なんですよね、家族療法ってほんとは。
家族療法ってどうやってやるかご存知ですか?

もともとの家族療法は家族全員集まってやることが原則でした。
(問題を示しているとされる)IPという考え方も家族療法から出てきましたが
その子に問題を転嫁している、と。
つまり、子どもを症状化して、「子どもが悪い」と言って皆が自分の責任を外すから
皆がいるところでそこを扱えれば、
それぞれのメンバー間のエネルギーのやりとりなどが表にあがってきて
それに直面することができる。(直面化

でも、いま、現実的にそれはすごく難しいですよね。
家族で集まる時間が取れないがために問題が起こっているということもあるし
治療だからっていってくるご両親てほとんどいない。

だから、治療者の視点として、
一人をみる時に、必ず一人だけじゃなくて
その人を取り囲む人(親、学校など)をちゃんと視点に入れておかないといけない。
子どもを治療することが集団にも良い影響を与える、ということにもなる。

そういう意味では「家族療法」といわなくても
それを意識した介入していれば、
例えば子どもが「いやだ」と言い出すことは親に驚きを与えるだろうという事を分かっていれば
ご両親に連絡したりとかも出来るし。
子と集団を意識した視点を持つこと、家族療法的な視点には意味がある。

(学生)親の方が治療に決定権があるということは、子どもじゃなくて自分(お母さん)が問題だということを感じたら、治療を打ち切ってしまうということもあり得ますよね。

そうですね。そこは上手にやらないといけない。

だけど、半分は「子どもをつれてきている」訳じゃないですか
つまり、ちょっとは触れたい訳ですよ。
絶対いやだったら来ないですよ。
だから、人間誰だってそうだけど、
ぱっときていきなりここがおかしい、とか言われたら嫌になるのは当たり前じゃないですか。
でも子どものことを話しながら、自分のことを少しずつ見ていくという意味においては
安全じゃないですか。

だから、よくやるのは、「親と子の並行面接」ですよね。
子どもを見ている間、親と「子どもを元気にするための話をしましょう」ということで
子どもをつかった同盟をお母さんと作るんですよ。
子どもを症状として持ってきているのだから、そのことなら話が出来る。

そういう意味で前にも言っていた三項ですけれど、
自分と、子どもと、治療者と、という関係の中で子どもを理解していくという事の中で
お母さんが自分自身について関心を持つようになれば
つまり「私にもう少し出来ることがあるんじゃないかしら」という視点によって
そのお母さんのセラピーの可能性がゆっくり見えてくる。
そこはあんまり急がない

なにより、お母さんがぱんぱんになると子どもが一層大変になるので
子どもの治療を考えた場合は、お母さんの安全性を最大限に生かして
子どもが元気になれるようにすると。それと同時に
お母さんがどれくらいスペースを持てるようになっているかのアセスメントをしていく。
そうしないと、お母さんが問題に直面化することで、
子どもはまたお母さんを守ろうとするので、逆に治療が進まなくなってしまう。
そこはだから慎重に、ゆっくり。
そこまでお母さんが治療にと組まなくてもいけるかもしれないのでね。

ですから、子どもの治療をしっかりやって、
こういうセラピーがあるんですよということがわかって、
子どもも大きくなって、お母さんが自由になってきたときに来ても良いくらいの
大きな感じで構えていないと。

絶対治療の中でこちらがお母さんに文句を言いたくなるということは起こるので。
そうするとでも子どもは辛いんですよね。(親をかばおうとする)
そういうことを考えると、今何がベストかという治療方針もたてやすい。

なので、あくまで親の「協力できる能力」の方をみて、
問題を洗い出すと言う事には慎重になります。
お母さん自身の空間を確保した上で治療者と関係を築く。
そのうえで、ゆっくりお母さんについて見ていく。
そこで変化や治療が必要だという事になれば
時期を見てやりましょうという形。

(学生)長期的ですねぇ…

はい、そこまでこっちが「禁欲」しなければいけない。
お母さん自身の問題というのは見えてはくるので。
でもそこに入っちゃうと、
お母さんが自分の問題の方にアクトインして
子どもを棄てるみたいなこともおきかねない。
自分の問題に入っていっちゃって子どもを見れないという。
そこはゆっくり、本当に慎重に。
実は、そのために子どもをつかって連れて来たということもある訳ですよ。
本当は自分の話をしたくて。

(学生)セラピスト自身がなんというか、心の問題におかされそうな…

そんなに重い?
まぁでもだから自分でも分析をうけなさい、という
教育分析の必要性はそういうところから。
フロイトが夢の分析をするように
自分の器を常にチェックしていないといけない仕事ですから。

(学生)先生は毎日なにかセラピーがあるわけですよね、一日の最後に自分の何かを降ろす、というような作業があるんですか?

私はちょっとどうしようもないことがあると同僚と話をして
で、降ろしてから次のケースにいかないと、次に影響が出るので。
やった後に自分で面接を振り返れるときと振り返れない時があって。
振り返れない時は、自分の中に何か抑えていて見えていないものや、
あるいは怒りすぎていたりとか、パーソナルなものが出てきている可能性があるので
そういう時は、同僚にすぐに話します。
そこでコメントをもらったりして整理をすると。

また、やっているうちに同じようなところで自分が詰まるということがあって
同じようなところで繰り返し問題を再現させてしまうということが起きている場合に
自分自身でなにか扱えない領域があるらしいというところから
自分自身の器を広げようとか、ベストな状態を維持しようということで
教育分析を受けるんですね。
月に二回は集団の教育分析を受けています。人によっては個人で受ける人もいます。
それプラス技術の練習という意味での訓練ですね。
SV、訓練、分析、この三本をずっとやっていく、と。

そういう意味では仲間通しで喋るわけだから、自分の特徴も分かるし
隠れられないので。だからSVとかも辛らつな感じになったり。
まぁ自分のことも分かってくれているので、
パーソナルな問題だけにしないで、どう技術で補うかと。
また、SV、スーパーなビジョンということだから、そこで自分も俯瞰性を取り戻して。
分析をもうすこしクリアにしていくと。

(学生)そういうのないと、嫌になっちゃいますよね…

私的な自分と、公的な仕事をしている自分とを、両方大事にしないと、ということは
私のセラピストの先生もよく言っていましたが。
だから、自分の空間というのはすごく大事ですよね。
いつでも侵害されそうになるし。
この仕事は基本的には「与える仕事」ですので。
貰う仕事」ではないので。

セラピーをやっている時はすごい元気になんですよね、
でも、終わった後に涸渇する、特に病気をしていたりすると。
だから、本当に自分で充足する空間のシステムを整えておかないと。
げっそりしてきます。(笑)

そういう意味でも、充足システムの維持というのは必要で、そのための分析だし。
問題を洗い出すためじゃなくて、自分をどう涸渇から充足へどう転換させるか、と。
セクシャリティもそうだし、自己愛も。
じゃないと、簡単に貰いたくなってしまう。
自分から与えることが出来なくなってしまう。

(学生)すこし立ち入った質問になるかもしれませんが、人の話を聞いてそして助けようというセラピスト/カウンセラーの仕事自体が、愛他的な防衛かもしれない、ということはどう思われますか。

そう思います。私は死ぬほどそういう事を言われてきました、入ったときから。
もともと私は福祉をやりたかったんですよ。
で、この世界に入ってきたので
「人助けのつもりだったらやめなさい」と言われました。
それぐらい、愛他性とセラピーの違いというのを私の学校では入学試験のときから言われていました。
はじめはそれがよく分からなかったんですけど、なるほどね、と。

(学生)「人助け」ではないとしたら、今先生の中では何なんでしょう?

人助け、じゃない…
自分が助けられる、なんて思っていないです。
本人がそこをどう乗り切っていくのかという方に視点を向けると。
やっぱり救世主願望というのはすごくあるので。
それは私のパーソナルな問題だと思いますので。
それでやっていると、出来ないですよセラピーは。
自分がどうやったって、本人は自殺するし、ということをするんですよね。
そこで始めて直面しましたね。
あ、「自分が」じゃないんだ、と。
本人の自我の力とか、自分が立ち上がっていく力を信じなきゃいけないんだと思ったら
救世主願望をもっていると、本人の自我を助けられなくなるんですよ。逆に。
つまり、位置が全然違うということに直面する。
私たちがやってあげる、なんていうのはおこがましい、
本当にひどい、破壊的なことだということがよく分かる

(学生)その場合、先生は何をする、ということになる訳ですか?

本人の自我を信じる、っていう位置かな。
すごく大変な世界ですよ
じたばたしているところを、逃げずに見守らなきゃいけないので。
私みたいなパーソナリティの人だとめっちゃ大変ですよ。(笑)
すぐ手を出したくなるので、そこで手を出さずに
這い上がっていこうとする道筋を一緒に探していこうとする訳だから。
その探す時にこっちが「ああでしょ、こうでしょ」と言っても何の役にも立たない。
それは一例でしかなくて、捨てられる物であって。

それこそ海にポーンと投げて、「這い上がって来い」みたいな。
で、その責任を持たなくてはいけないので。
死ぬかもしれないっていう状況を守らなくてはいけないので、
それって救世主願望では絶対できない。
そのあたりで、死と向かい合うということの意味にも気づいたし。
自分がやっていると思っても(クライエントが)自殺未遂をしてきたりするのでね。

無力さ、自分と相手が一緒と言う事にはなれないことの限界にすごく直面して
でも、だからこそ何かできるかもしれないという探究心は、助けることにつながるのかもしれないけど。
探究心を持ち続けることに意味があるという風に変わってきていると思いますね。

(学生)先生の中にあった「助けてあげたい」というような気持ちはどうなったんでしょうか?

まだありますよ。
それは、自分自身かな。
他人をって思っていたのは、自分自身を大事にしたい、救ってあげたいという
自分自身の中への思いなんだという事はわかってきましたよね。
自分自身の淋しさ、葛藤をどう処理していくんだろうかというテーマに移ってきているので
あまりひとには求めなくなったかな。
ほとんど自分に対しての求めなんだよね。自分が救ってほしいから。
でもそれは見たくないのでね、だから人助けをする、という方向に向く
自分がしてもらえないから、自分がする、という位置についてそれをやろうとする
でもそれってちょっと淋しいでしょう
それって素直に求めを言えない、ということな訳だから。
そっちの作業をするということになれば、相手の世話をするという必要もなくなってくる。

(学生)クライエントに何かをする、ということ自体が、自分を助けるためということになることはないでしょうか?

んー…。それはローウェンだったらそういう動きに関して何ていうと思いますか?

おそらく「非現実的だ」っていうかもしれないですね。
その充足って本当に充足しているのか。
あるいは本当にそれが欲しいものか、と問うかもしれないですね。

入り口は、ほとんどそうかもしれないですよね、心理学の入り口ってね。
そこをどう乗り切れるかということが、専門性をつくっていく。
それを無くそうということは無理だと思うよ。
でも、誰かを救う前に自分自身を何とかする、と。

まず自分自身の問題だと思えればいいんですけどね
そこに直面するところから始まる、と。

それをしないで誰かを助けようということの充足は
置き換えの充足なので、本当の充足には全然ならない
誰かじゃなくって具体的な求めの対象がいるはずだし
何を認めて欲しいのか、充足させたいのか、が分かっていくことが分析に必要

(学生)でも、臨床家として仕事をするということは、クライエントの手助けをすることを通して自分の満足を得るということでもあるんですよね?

そうですね、相手からもらうという事ばかりでなく、
そこに自分の研究心があるということでないとできないですよね。
でもそれって、本当に自分の充足感が別に無いとダメというか。
特に愛情にかかわるもの。
それは本当に大事だと思う。

仕事をやる中で、いろんな大変な人を見ていくわけなので
自分が充足していないと、そこに入り込みすぎるということが起こるんだよね。
そういう時に、専門性って大事だなと思うんだけど。
自分の充足感が他に無いと無理だ、と。
だから臨床家ってすごい仕事だな、と思いますよ。

自分の充足感を感じられていないと、自分の整えがないと
例えばクライエント本人が変化することの喜びなのか、
自分が元気をもらって喜んでいるのか分からなくなる。
独立性がおかされる。
そうなってしまうと、この本の親と子の関係と同じでしょう?
結局自分が望むようにクライエントを変えようとする、ということが起こる。

そういうことは容易に起こるので
SVでは常にそこの独立性をチェックされるし。
自分の充足感が足りない時には
セラピーに行って話すとか、ともかく自分の事として降ろしてくるし。
システムを整えなおすことをしなくてはいけない。
それが自分のためなのか、クライエントのためなのか、という違い。

面接では自分のシステムそのままが影響するので、
で、その変数も全部扱わないといけないので。
そういう意味では、一緒に越えていく、ということはよくあるよ。

たとえば自分が結婚して、子どもを生んでお父さんになったというところと
これから男性性を、セクシャリティを追求していくという人と面接するのはすごく大変なことで
でもそれは一緒に越えていくということとして出来るかもしれない。
でもそれが出来るのは、そういう組織があるからね。
仲間がいて、だからやれると。
一人でやれるかって言われたら出来ないよね。

一人でやろうと思ったら、やれる範囲って難しいですよね。
私だったら男性をやるっていうだけでも大変だし
一人では絶対できない。
開業するんだったら女性しかやらないと思うので。
組織があるから、自分のレベルも含めて、やれると。


○じゃあ次行きましょう
P86(邦訳P92)
・愛される価値の示し方は、親の価値観による。
 業績を示すこと(achievement)、奉仕(service)、自己犠牲(self-dinial)
 目立つこと(distinguish himself)、従順(comformity)、屈服(submission)、勤勉(hard work)
・これらに応えようとすれば抑うつへと向き、拒否すれば反抗者やアウトサイダーになるだろう。
・どちらにしろ、快楽や創造へむかうべきエネルギーは満たされない(unfulfilling)
・従順な人は努力が報われず、報酬が得られないと抑うつになる。
・反抗者もまた、大義なき挑戦であったことを悟ると抑うつになる。
子ども時代に必要だった愛や承認を得られなかった人に対する私のアドバイスは「忘れろ」だ。
・大人はもはや母乳では満足できない。(The breast can no longer fulfill an adult.)
・人は喪失を受け入れて、成長し生き続けなくてはならない。
・この原則の例外になるのは、セラピーの場だ。
・セラピストはしばしば母親や父親の代理として機能する。
・セラピストは愛や承認をあたえ、患者が退行すること(regress)を奨励する。
これは喪失を再体験し、その深い悲しみを表現することを助けるためだ。
 (help him reexperience that loss and express the grief associated with it)
セラピーの役割は、自分を愛し、自分を受け入れる道を見つけるのを助けることだ
・そして、親からは得られなかった自分への信仰(a faith in himself)を育てるのを助けることだ。

ローウェンの技法ともかかわる本質的なことを言っていますね。
さっきの「助ける」ということの質問との関連もよく分かるんじゃないでしょうか。
ローウェンが厳しくいうのがよく分かる感じがしますね。

やっぱり異性をやるとすごく感じるようになったと思います。
セクシャリティのテーマを扱うと、必ず対抗的なものも出てくる。
女性として、母になったり女になったりっていう感情を
男性のクライエントからは感じさせられるんですよ。
退行していると「お母ちゃん…」みたいなものが出てくるじゃないですか。
だからローウェンが「喪失を再体験させるための退行」と言っているのは身にしみますね
喪失を感じ(させ)なきゃいけないのに、助けたくなっちゃうという。
「かわいそうにね…」みたいになっちゃうともう逆転しちゃう。
充足しちゃうじゃないですかそこで。
そこをSVでは「また!」みたいな感じで言われるわけですけど。

これはうつを扱う上ですごい大事なテーマですね。
クライエントが喪失を受け入れるプロセスを見守る、というのがいかに大変か
本人はそこは、自立や成熟の助けになるということは分からないで喋るので。
甘えさせてくれなかった母親への怒りをずっと言っていれば、何とかしてくれるだろうとか
充足が得られるだろうと思っちゃっているので。それは「過去へ行っている」のでね。
で、それを「今の自分」で、それじゃ意味無いよというのが分からないんです。
だから、彼らが「過去のところ」にいようが、こちらは「今のところ」にいないと
簡単に、一緒に過去のところに行って充足しようとしてしまう。
ほんとに、無意識的にすぐそうなってしまうんですよ。

そこをローウェンは戒めてもいるし、技法もそこから出ているわけですが。
そして、「過去に行く」ということが「過去を充足させる」ということの意味ではない、と。
そこでの喪失に直面していくことに治療の意味がある。

(学生)男性の治療者の場合はどうでしょうか?(女性のクライエントに対して)

それはもちろん起こりえます。
それが転移というものなので。
それをどう扱うか、と。転移が起きること自体は良いことな訳ですよね。
フロイトの言うように、転移が起きて治療が出来る、と。

転移だという事が分かるためには、
治療者にはどっちの(男性のも女性のも)センサーも必要になるということですよね。
自分が父親であるような感覚、また男性として魅力を感じている女性、という意識や。
そういう意味で男性の治療者が女性のセクシャリティをどう感じるかという難しさはある。

ようは、あの、
やっぱり「惚れられる」んですよね。
そこを覆い隠してしまうことで扱えなくしてしまう、ということが多いので。
それも「隠れた充足」になっちゃうでしょう?
もっと本人の、これまで開花していなかったリビドーが開花しているということだから
積極的に表に上げてそのエネルギー運用の新鮮さを体験しなきゃいけないわけですけど
こっちがそれを「自分に惚れているからどうしよう」なんてなっていると扱えないじゃないですか。

私の先生もしばらくは女性は見なかった、と言っていましたね。
それくらいやっぱり大変なんです。いろんな人たちがいますんでね。
それこそ、恋愛をそのまま自分がセックスしてあげるという形で治療にしちゃう人もいた訳ですから。
それくらいエネルギーとしては-、まぁ二人きりな訳ですから。
ほとんどデートみたいな形で来る人もいるわけですよね。

それを「潜在させている」ということは、「こっちが隠している」ということでしょう?
だからこっちも充足させているという事じゃないですか。
なのでそこを表に上げられる、こっちの身軽さというか、こっちが扱えるかどうかという。
男性にとっても女性にとっても同じように難しいことです。

(学生)こっちが隠している、というのはどういうことですか?

軽く扱えるかどうか、ということです。
相手が自分に惚れている、とか、愛情に関して自由に扱える位置にあるかどうかということ。
それでこっちが隠していないかどうかが分かる。

たとえば、すごく自分のリビドーにかかわるエネルギーを抑制していて
そのためにバイオリンの演奏が出来ないという人がいるとして
その女性を男性がみるとします。
すると、ここ(治療の場)に来るだけでも、ホッホホッホしている訳ですよ。
それってすごく新しいことじゃないですか。
つまり、止めなくていい、ということが起きているわけだよね。
そういう時に男性の治療者が
「ここに来るのを楽しみにしていたんだね」というようなことを楽にいえるかどうか。

それを表に上げることの治療的な意味を知っていて、
治療者も、それを自分が受けているだけではなくて、
治療の展開だ、と思えれば楽に上げられる訳だけど。
普通のパーソナルな自分だとそうはいかないでしょう?
「どうしよう?」とか、恥ずかしくなったり照れたり、とか。
そこで治療者なのかパーソナルな自分なのかというのは大きな違いです。

その私の先生はポンと上げるんですよね。
(クライエントが)「一週間が長くっ
て…」と言う
さぁどう介入するか??
その先生の場合は
「私に会うのを楽しみにしていたんだね」と
あるいは「私に会って嬉しいんですね」とダイレクトに介入するのですが。

そこでクライエントも自分のエネルギーとそのベクトルに気がつくわけですよね。
そこで彼女がどう機能を動かして自分のものにするのか、或いは防衛するのか、
というところからまた分析が始まっていく、と。

それがローウェンの言うところの
かつてのままではないところ、を現在の彼女に見出しているわけですよね。
それが、自分で抑えてきた、否定してきたところだということで(過去のこと)
そこの説明に入ると延々抜け出せない訳だけど
ここで今、面接者とのあいだで起きていることだ(今のこと)
ということを先に扱えればかつての葛藤と距離がとれる

そこ(過去)で充足しなきゃということにならずに、「もうここで起きているじゃない」と
本人が「自分で自分のリビドーに触れられている」と扱うことで変化が体験できる。
かつての喪失がもう少し見えるようになってくる。
そこで「充足しよう」じゃなくて、「もういい」というか「得られなかったのね」という風に
俯瞰して見られるようになることが治療の中で起こる

たとえば近親姦のことでも、
子どものうちは無自覚ですので、そこに葛藤を持てない。そういうものだとやっている。
でもゆっくりそこを今の自分でみていくと、そこにまつわる怒りだとか段々分かるんですけど。
なにをそこで自分が失ったのかという事も出てくる。
聞いているとまぁ、ひどいな…、とか思ったりもするわけですよ。

(学生)そこでは先生は自分の感情が動くわけですよね?それは出さないようにするんですよね?

そうですね。でも自分の中では自由に思っていますけどね。
それが治療的かどうか、ということを考えて介入しないと。
でも、中で思っていることはそんなに止めはしないですね。

(学生)涙が出そうだということもありますよね?

もちろん出てきますよ。
かつての体験を辿っていくうちにレゾナンス(resonance=反響、感情を喚起する力、共鳴)が起きて
おぉっていう感じが起きたり。
でもそれが自分の体験なのか、
クライエントの位置に立って思っていることなのかが見ていけると
そこで泣くという事の意味も分かるし。
それは場面に応じて、考えながらという事ではないんだけど、瞬間そこで判断しながら。

(学生)判断して泣くのを止めるって出来る事ですか?

それは出来ますよ。
自分ことと相手のことがはっきり距離が取れていればそれはできます。
それって自分の充足なのかなということをやっぱり思うので。
自分ことで泣いているんだったらほとんど意味は無い。
クライエントからも「先生大丈夫ですか」ということが出てきちゃったりするので。(笑)
というのは、本人が自分で再体験せずに、こっちに再体験させていることになるから
意味が無いでしょ?
どうやって本人の体験に戻せるか、ということが
演出家」の位置なので。

よく「演出家になれ」と言われるんですよ。位置としてはね。
クライエントがいろんな人をもってきて舞台に立たせて
生きたい自分の人生の流れを生きていけるように、
あるいは自分の実感を最大限表現できるように
私たちは監督であり演出家なので、舞台を整えることが仕事。
だからこっちが演じてしまうと駄目。そしたら(クライエントは)観客になっちゃうでしょう。

主役は彼ら/彼女たちなので
彼らがどう自分の舞台を作って演じられるのかと。
そこの舞台装置を整えていくところから、出てきてない出演者を登場させることとか
「それが本来のあなたの実感したいことなのか?」とか。
そういうのはやってみると分かるかもしれませんが。

でも(治療者である)自分が主役になりたくなっちゃう時というのもあるので
そういう時に「自分の淋しさでてきちゃった」と戻れるようでないと
「私が舞台に上がろうとしちゃった」というところから修正していく。
そういうのは無くそうというよりも、しょっちゅう起きると思って
どう修正するかということに持っていかないと、無理です。

ホワイトスクリーン、中立性というのは
自分を真っ白に出来るという事ではないので、思ってしまうという事は起こる。
思ってしまうところをどうmanageしていくか、に中立性はある。

(学生)それはやっぱり経験が必要な事ですよね?

そうですね。
だから、サイコセラピーはポスドクから、と言われています。
それはまぁ世界共通です。
カウンセリングはまたそこまで行かなくても出来ることですが。

○では次の小見出しに
Suicide and Negativity
・抑うつは情動的、心理学的な意味で、死の一種である。
・抑うつ患者は情熱を失うばかりでなく、一時的に生きる意志を失う。
・抑うつによって自殺への思考、行動が起こる。
・意図的な行為が伴わなければ、抑うつが原因で死ぬことはない。
・自殺の動機の分析によって、抑うつ状態の洞察ももたらされるだろう。

Negativityの訳は―否定的感情で。
これは「無気力」ということとはまたちょっと違いますね。

怒りの内向ということでの自殺未遂

自殺する気はないけれど訴えてくるヒステリーというのもありますが。
うつの場合はどこかに希死念慮があります。

自殺ということをおくことで、
パーソナリティの幅、うつかどうかが見えてくるということはありますよね。

うつなのかヒステリーなのかという見極めは大事ですね。
ヒステリーの場合は求めとして、ひき付けたいためということなので。
アクションとアクションがもたらす力動が結構違うので。

私の先輩は自己破壊症候群(リスカ、ODなど)専門ですね。
いま男性でも増えていますけど、女性が多いですね。
そういう人をあつめてグループをすると。
自己破壊性が強い人にはグループ(集団精神療法)はすごく役に立つ。
グループだと横の関係が出来るということの意味も大きいです。

(学生)死ぬのはよくないというのは確かにそうですが、自分の生死に関する権利という考え方も出来ますよね。自殺ということは心理療法ではどのように扱われるんですか?

それは絶対許しません。
臨床家は生きるためにやっている。

「やるならあたしの前でやりなさい」と言いますね。
それは「死ぬな」「勝手にやるな」というメッセージとしてね。
治療者として手を結んだら、ですよ。
子どもの場合だったら、命の危険ということに関しては親にも伝えます。倫理上、ですね。

臨床家は、死の床に臨む者、ということですが
死ぬためにやる訳じゃないんですよ。
生きるためにやっているというのは大前提なので、そこは絶対にゆるがせないです。

それはヒステリーの人に「死ぬな」と言うことではないですよ。
それってすごくばかばかしいでしょ。
そういう場合はまぁ無視するというか「そうかそうかそれで、じゃあ連想しようか」とかなりますけど

でも生きるということが大前提ですし、
治療に来ているということは、生きようとしているということだから
そっちに火をくべるという事の意味でそう言っている。
あるいはいヒステリーの人の場合だと
私を怒らせようとしているというような、破壊性に直面化をしたりもする。

いずれにせよ
そこで何が起きているか、ということを確かめる介入がすごく大事。
生きたいというエネルギーはないのか、と。

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