2011年11月9日水曜日

近世史との対話-6 ルネサンスの先駆者‐ボッカッチョ

4 151教室 江川

●復習
先週はペトラルカについてやりましたね。
彼の三つの側面、古典文献学者、詩人、キリスト教者
このまえ書簡集をお見せしましたね。
一つの素晴らしい文学のスタイル。
「古代の人たちへ」-キケロに対して書いたものがありましたが、

他のペトラルカの著作
アウグスティヌスとの対話形式で書かれた『わが秘密』(岩波文庫)
興味ある方はぜひ。


ですので、
古典とキリスト教そして詩人、と
トゥルバドールにならって。女性に対する愛をうたう。

古典文献学者、キリスト教者、詩人という3つの側面からの人文学者

中世とルネサンスのあいだを生きたペトラルカ
完全に中世を否定して出てきたわけではない、という事
しかし中身においてはそれまでの中世のものとは違ったものを打ち出している。
まさに転換期の人だな、と。

ルネサンス、光の世界というイメージをもたれていますが、
その背景、は非常に深い闇の世界であったと。
西欧にとっては暗い、辛い時代があったからこその光の時代があったんだということ。
そういうところもペトラルカの生き様から読み取れます。

●さて、
今日はペトラルカとも関係の深かったもうひとりのルネサンスの先駆者
32)ジョバンニ・ボッカッチョ(131375
ペトラルカの生没年と比べてみると(130474

ボッカッチョのほうが年下ですがなくなった時期はほぼ同じ。
14世紀半ばをともに生きた人。ちょうどペストとも重なる頃ですが。

ペトラルカが詩人として出てきたのに対して
この人は散文での表現。この2人とダンテ、みな俗語で書いた。

ペトラルカは詩で人間の豊かさを表現しましたが
ボッカッチョは人間の愚かさ、生々しさも含めて描き出した=近代の先駆けといわれる由縁
新しい文学を生み出した人という評価。

ここで確認したいのは
彼も人文主義者=古典の研究をしたひと。
古典文献学に携わったというのは大きなポイントです。

彼はどういう生涯を辿ったか。
まず、彼の父親は商人だった。母は誰だか分かりません。
よく、ものの本にはどうもパリで生まれたんじゃないか、とか。
父が仕事でパリに行っているときに、とか。
あるいはイタリア国内で生まれたのか、とか。
そういう生い立ちです。

ペトラルカも父の法律の仕事を学ばさせられたが(ボローニャ大学)
彼も商人になるべく育てられ、ナポリに見習いに出される。
港町で交易が盛んな土地だからという事で。
しかしここに行かせてしまったことが…
地中海貿易でものもひとも行き交うところですので
商業中心地のみならず、当時の人文学者に出会うことになる。→交流
こういうふうな出会いがある。

・ボッカッチョ、ペトラルカと出会う

ボッカッチョは見習いに出たナポリで文人達と交流する。
ここから彼は文学の道に入ったといわれています。
勿論ペトラルカは詩人、人文学者としての名声がとどろいていましたから、
その世界では大先輩ですよね。
ボッカッチョは彼を師として尊敬していましたし
これは幸せな出会いだったと思います。ある意味では弟子のような感じですね。

で、今日持ってきた本は、
ボッカッチョとペトラルカの往復書簡です。
これを読むと、ちょっと交流にひびの入りそうなときもありますが
基本的には信頼関係。
ペトラルカもボッカッチョの天才を評価しているし、ボッカッチョは師として慕う。
彼の金銭的な危機の際にもペトラルカが支援しようとしていたり。
文学を愛する友としての関係
では、この本をお回ししますね。


こうしてボッカッチョは古典探求を築いていく。
彼はナポリで活動の糸口をつかむが、後の活動はフィレンツェ
デカメロンに登場する場所もそうですね。

・ボッカッチョの人文学者としての特徴

(ペトラルカが古代ローマ中心だったのに対し)
ボッカッチョも同様にそれまでは為されなかった古典の発掘をしています。
それは「ホメロス(古代ギリシアの大詩人)の発掘」です。
イーリアス、オデュッセイア
ホメロスは紀元前8世紀頃の人ですよね。大詩人です。
ホメロス自体については生没年等不明なところも多いです。

前にも言ったとおり、
ペトラルカ、ボッカッチョ以前の西欧において注目されている古代人は
アリストテレス、ソクラテスら。
ホメロスなどは注目されていなかった。

ですからここでのホメロスの発掘は
当時の古典文献学においても評価されるところだった。

ペトラルカに影響を随分受けてはいるが、
彼なりの独自性があらわれている。
しかし古典文献学者の部分はあまり、ボッカッチョの話においては取上げられない。
文学者の側面の方が目立ちますよね。
彼の創作においてもこの側面は大きな意味がある。

・文学者としてのボッカッチョ‐『デカメロン』

で、彼がすごいのは研究者としての活動のほかに
文学者としても活動をしたこと。
これもペトラルカと同様ですね。
彼が生み出したのは「デカメロン」です。

このデカメロン、は何語でしょうか?
ギリシア語ですね。
どういう意味か分かりますか?
これを日本語にするとすると
十日物語」ですね。
でっかいメロンではないですよ(笑)
これが彼の最も有名な作品です。
で、母国語であるイタリア語で書かれています。
ペトラルカと違うのは、こちらは散文です。
当時の散文文学の傑作との評価を得ています。

書かれた時期は13481353年ころに書かれた。
ということはまさにペストの第一波のころ
物語としては、
最初の舞台はフィレンツェで始まります。
彼がナポリから拠点を移していました。
フィレンツェはペトラルカのお父さんがいたところでもあります。
当時の大都市です。今でも重要な都市ですが。

フィレンツェでペストが大流行します。
そして、それがためにフィレンツェを逃れてトスカーナ地方へ、つまり田舎へ避難する。
そうしてやってきた10人の男女が、毎日1話ずつなにか話をしなければいけないと。
それを10日間話し合う。
ということですので、全部で100話の物語集ということになりますね。
この本はですからすごく長い本ですが、読みやすいですよね。
言わば世間話を皆がしている、と。

何故ボッカッチョのデカメロンが非常に新しい文学表現と評価されたか。
結局、この物語集、何と言うのか、
ありのままの人間を描いている」と。
みっともない所とか、情けない所とかも含んだありのまま、と。
いろんな階層の人がおこすいろんな出来事。
恋愛沙汰、不倫のような話、騙し騙されの話。皮肉っぽい話。風刺ですね。
笑いあり、涙あり、風刺ありの人間模様を描く
と(私のノートには書いてあるのですが)
結局悲惨なところから逃げてきて面白い話をしようということですからね。
決して高尚なお話ではない。
ですから当時の人の暮らしぶりが伝わってくる。

特に恋愛沙汰、不貞ということがあるので
人間の欲望の部分も織り込まれている物語集なので
私は小さいころから関心を持っていました(ちょっとませていましたのでね)
興味のある方はぜひ読んでみられるといいんじゃないかな、と。

・ルネサンスの先駆的作品としてのデカメロン

生身の人間の生き様、現実のあり様を描いている。
登場人物が生き生きと描かれていますね。人物が個性的
何でデカメロンがルネサンスの先駆的作品なのか。
生身の人間の面白さを捉えている。世俗的と言えば世俗的といえますね
こうした面でデカメロンは評価をされています。

確かにボッカッチョは人間を突き放してみているようなところがありますね。
しかしながら、ここでボッカッチョがすごいのは、
こうして捉えながらも-
いわゆる下世話な物語自体はボッカッチョの独創ではないですよね。
そういうおもしろい話というもの自体はあったでしょう。
その表現力が素晴らしいとともに、やはりある仕掛けがある訳です。
この人の冷徹な世の中に対する目。
ペストによって突きつけられた強い死の認識が背後にある
それがあるからこそ文学的にも素晴らしいものになっている、と。
ただの風刺ではない、と。

そこで、彼がどういう仕掛けをしているのかを、
前回お配りしたプリント(デカメロンの冒頭)
ここを読まずして、面白おかしいところだけ読んじゃうとよく分かりません。

で、この描写がやはり。
どうでしょう、ここを読むと当時のペストの様子が分かるんじゃないでしょうか。
「第1日 序」のところですね。

『こういう書き出しからはあえていうがそれは予測できないことかもしれない。
そして本当にもしも本当にこのように細くて険しい道を通らずに、またこれを辿ることなく
もっと楽にあなたがたを望むところに連れて行ける手立てがあったならば
私とて喜んでそうしただろう。
けれども後に読むような事態が生じた原因は何であったのか。
それを示すためにはこの思い出を抜きにするわけにはいかなかったので
半ば必要に迫られてやはり書きとめておくことにする。』

ですから、彼が書こうとしているのはトスカーナに逃げた男女の物語ですね
ここはある意味楽しい世界。
でも、それをお話しするためには、前提となることについて語らないといけない、と。
そしてそこで、フィレンツェで猛威を振るったペストの話に入るわけです。
ではここを少しずつ皆で読んでみましょうか。

『言っておくが、まず神の子が肉体に結実してから1348の歳月を数えた時のこと。
イタリアの美しい町町の中に会っても、ひときは秀でた花の都、フィオレンツァに
死の疫病ペストが襲い掛かってきた。天の球体の運行のなせる業か、
あるいは私たちの罪業に怒りをおぼえて神が死すべき人間に正義の裁きを下されたためか
その数年前に、東欧の各地に発生して、彼の地において無数の人びとの命を奪い
留まるところを知らぬ勢いで、次々にその行き先を変え
やがては恐ろしいことに、西欧にむかってそれは広がってきた。
これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐がなく
もとより都市は特別の係官を任命して、彼らの手ですべての汚物を清めたり
城壁の内部へ一切の患者の立ち入りを禁止したり
衛生を保つためのありとあらゆる措置を講じたり
くわえてまた敬虔な願いも一切ならずかけられ
行列も整然と組まれて、信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが
それにも関わらず、○○した今年の春早くには身の毛もよだつばかりの○の効果があらわれ始め
目を覆うばかりの惨状を呈しだした。

ただし-(以下略)
林檎大に腫上がる
こうしてまずペストの瘤が生じ
全身にたちまち広がって
やがて黒や鉛色の斑点
死そのものを意味した。」

こういう風に書いていますね。
1348年にフィオレンツァ(フィレンツェですね)にペストが襲い掛かってきた、と
ちゃんと情報を伝えています。
どうしてなのか?
天の球体の運行のなせる業なのか、神の裁きなのかは分からないけれども
とにかく東方に発生して猛威を振るったペストが西欧にも来た、と。

ですから、これは資料にもなるんですよね。
彼も当時フィレンツェにいたはずです。
自分の経験と見聞で書いている。
で、人間はどうしようもなかった、と。
感染病の恐ろしさ、ですね。
後半はペストの症状について。そういったこともはっきり書いている。
黒や鉛色の斑点=黒死病のゆえんですよね。
この斑点が出ちゃうともう死が近い、と。

そうしたらその次
(略)
「このような事柄から
想像
誰もが自分だけで健康でいようと
節制が
他の人々から離れて生活し
寄り集まっては隠遁の計画
外界や死や病気の情報を-

今読んでいただいたところは
ペストの猛威において、人間がどう反応するかのパターンを描いているんですよね。
1のパターン、まずは、節度を保つ。過度を慎む。万一の際に役立つ、と。
そういう人たちはとにかく他の人から離れて生活して隠遁生活をして贅沢を避ける、と。
情報も聞こうとしないと。
じゃあ次はどんなパターンでしょうか

「他方は
歌をうたい、面白半分に出歩いて
したいほうだいの生活。
これはだれにでも簡単に出来ることだった。
先の命がもはや無いかのように。
所有物を投げ出し、一切を省みない。」

今でもこれは言えますよね。
とにかく節度を保って乗り切ろうとする人がいる一方
とにかくもうこういう状況だからやりたい放題やっちゃえ、と。
欲求のままに過ごしてなんでも茶化すと。
しまいには他人の家に押しかけて、と。
ですから秩序が失われていった、と。
やっちゃいけないことをも関係なく、獣じみたまね、と。
しかし病人のことだけは怖がって逃げ回った、と。

さぁこれに対して国はどうしたんでしょうか。

「また私たちのこのような苦しみの惨状の中で、
尊ばれるべき法の一員は
宗教界においても俗界においてもほとんどみな地に落ちて省みられなくなっていた。
というのも、市国の法の守護者も執行者も他の人間とどうように
皆死んでしまったり、病の床に就いたり、あるいは下役人がいなくなったりして
何の制度も行えなくなってしまっていた。
それゆえだれもがしたい放題なことをしてよかった。
また、他の多くのものたちは先に掲げた二つの中間の道をとり
前者の如く食事を制限するのでもなく、
また後者の如く飲酒やその他の逸楽にふけるのでもなく
よくするだけ存分に物事を行い、
ことさら家の中に閉じこもらずにあたりを歩き回った。

だたし己の手に、
あるものは花を、あるものは匂いの良い草を、あるものは香料を握って
それらをしばしば鼻先におしつけ、
その空気で脳を休めるのが最良の策であると考えた。
この一時をもってしても、あたり一面に死臭と病人の悪臭とが漂い
薬剤の臭気のみなぎっていた様が察せられるであろう。」

結局ね、こういった事態に対して無秩序が蔓延って、
市国(=都市国家)も世俗も宗教も権威が失われ
それまで幅を利かせていたものの意味がなくなって、と。
そして、第1と第2のパターンの中間の第3のパターンがあった、と。

ただ、みんな匂いの良い草、ハーブでしょうかね、香料で
脳を休める、と。死臭が充満していたんですね。
とても大変な状態だった、と。
では最後の箇所、お願いします。

「中には更に残酷な心の持ち主達もいて
確かにそれはより一層安全には違いなかったろうが
この疫病に唯一有効な薬は、ここから逃げ出す以外にはないのだといった。
この理屈に動かされて、自分の身の上だけを考えるあまり
多くの男女がおのれの町を、家屋敷を、果ては身寄りや財産までも捨てて
他人の別荘へ、あるいは自分たちの田舎へと落ち延びていった。

それはまるであの疫病で人間の知性を罰しようとしていた神の怒りが
彼らの逃げていく先には及ばずに、
市国の城壁の中に留まるものたちにだけ猛り狂って襲い掛かってくる、
誰もこの町にとどまってはならないだろう
いまやこの町の最後は近づいているのだから、と告げているみたいであった。」

はい、ありがとうございました。
どうでしょうか。これを読んで、訳者もみごとに訳していますね。
これ、ボッカッチョの文学的才能はすごいですね。
これを読んだだけで、小説ですからね。ノンフィクションではないですが
ここの部分に関してはかなり客観的にありさまを的確に伝えている。

何が「仕掛け」なのか。
とにかく人間界の悲惨なありさまですよね。それがフィレンツェに凝縮されている。
それを描くことで、対照的に、そこから城壁から抜け出て-
城壁とは当時の都市国家はすべてこれに囲まれていて、はっきりと隔離された空間。
しかしその内側の方に神の罰が下されたかのような悲惨な状態。
そこから出るということに関して「更に残酷な心の持ち主達」と書かれていますが
それがこれから語る10人の男女なんですよ、と。

「この町の最後が近づいているんだ」と。
ですから、ここの部分を描くことで、本題が生き生きと感じられてくる、と。
これはボッカッチョの文学的技術であるとともに
やっぱりね、彼も自分で経験したペストというものをどう見ていたか。
 この世の終わりというような強い意識
これは当時を生きていたペトラルカもそうですが
リアルな「死の意識」実際に目の当たりにしている死のありさま。
これが人間が現世において生きることの認識、関心につながったんじゃないかと。

ここでもペトラルカ同様、ボッカッチョにも
生きている人間への鋭い眼差し、肯定的な捉え方とともに、
闇の部分、死の認識があったんじゃないかと。

光のルネサンスの現れるための前提として暗さ、
死という現実が先駆者達にはあって
それがあったからこそルネサンスがうまれてきた、と言えるんじゃないか。

ですから、
ひとつの絶望ですよね。ペストのこのありさま。
ペトラルカにおいてはラウラも死に友人も失い、
この絶望があって、ここから、亀山先生的に言えば、
これがあったからこそ、人間の「再生力」がルネサンスを生み出す、と。
「絶望から再生へ」

決してルネサンスはただ楽天的に明るいばかりではない。
(ある種の楽観主義はもちろんありますが)

ここで話を一旦区切りまして、
是非デカメロン、読んでみてください。
死への強い認識があったからこそ生きる人間への眼差しが深くあらわされたんじゃないかと。

ここまでで、中世末期の危機の時代とルネサンス、という話を終えたいと思います。
出発点の複雑な状況をイメージしていただければよろしいかと思います。

では、いよいよ、
ペトラルカ、ボッカッチョら先駆けの登場で
それまでとは違った人間、世界の捉え方が出てきた、ということですよね。

それにしましてもね、
次の問題とは、
ペトラルカとボッカッチョ、この二人の共通点は何だったでしょうか。
これはブルクハルトが注目した点ですね。
この二人ともイタリア人ですよね。
ブルクハルトのルネサンス論はその名の通り「イタリアルネサンス」ですよね。

ここで考えなくてはならないのは
「何故イタリアなのか?」と。
どうして他の地域ではなくイタリアなのか。

イタリアと言えば、からんでくるのは地中海、です。

*新しいレジュメ配布
●ルネサンスの舞台からイタリアと地中海世界の変容

ここでお話したいのは
イタリアがルネサンスを発展させるに当たって持っていた独自の前提について。
しかし、その前に、実は
そもそもルネサンス開花にあたっては地中海世界の大きな変化がからんでいた。

1.古典文化の拠点としてのイタリアの伝統

ルネサンス、まずもって「古典文化の復興」ですよね。
これがぬけちゃったらルネサンスにならない。

その古典文化の復興というルネサンスはなぜイタリアで起こったか。
もともと古代ローマの中心地だったから文献は豊富にあった
バザーリなんかもそう考えていましたよね。
これはまず素直に受け止められるところですよね。

まず、イタリアの人自身が、
誇るべきルーツとして古代ローマ文化が理想的なものであると認識していた。
ペトラルカでもボッカッチョでもそうで、イタリア語も大事にしましたよね。
ペトラルカはフランスで暮らさざるを得なかったのでより強い思いがあった。
特に、この意識が高まったのが14世紀

この時期は教皇庁(これも誇るべき文化であったわけですが)
それをアヴィニョンに持っていかれて
古代ローマ帝国復活思想がイタリアで強まる(14世紀
これはペトラルカも一生懸命運動しました。

イタリアは都市国家で、政治的には寡頭制です。
特に古代ローマ帝国の共和制の精神の復活を願う動き、
中世のぐらついた世の中で、
古代ローマ帝国に対する復活への思いが高まっていた。

これを象徴するのがコーラ・ディ・リエンツォ事件1347年)
ローマの支配階級であった貴族に対抗して、
寡頭支配に対して古代ローマの共和制の復活を唱えて蜂起した事件。
これは古代ローマを範としてイタリア統一を目指す運動
いわば反体制運動です。

ペトラルカなんかもこれを支援する立場でした。
(彼は古代ローマが良いって思っていたわけでしょ)
この運動自体はうまくはいかなかったが、人文主義の影響を多分に受けている
ということはまずもってイタリアが古代ローマ文化の発祥の地であったというのは
たしかにイタリアでルネサンスが開花する条件であった、と思います。

ただ、2番以降に書きました、14世紀以降
特にペストの第1波が去った14世紀後半くらい(から16世紀までですよねルネサンスは)
その14世紀後半くらいからのイタリアでルネサンスを推進する力というのは
まずもって経済的、政治的な独自性に関わっています。
これは次回また詳しくお話をしますが、
経済的にも政治的にも都市が中心、もうひとつは地中海
この2つががキーワード
これが大きくかかわってルネサンスは発展しました。

では、今日はここまでで。あとは次回のお楽しみ、と。
レジュメと地図は忘れずにお持ちください。
次回はどっぷりイタリアと地中海の話をしたいと思います。
じゃあ、そろそろ終鈴がなりそうですので、今日はここで終りにしたいと思います。
おつかれさまでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿