2011年11月9日水曜日

英専‐8 Depression and the Body 自殺-「身体の拒絶」と「他者の非難」

Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality 
Alexander Lowen, M.D.
First published in the United States of America by Coward, McCann & Geoghegan, Inc., 1972
Published in Pelican Books 1973, Published in Compass 1993 

(邦訳)うつと身体 〈からだ〉の声を聴け  春秋社 (2009)
 アレクサンダー・ローエン=著 中川吉晴/国永史子=訳
 



chapter3. The Energy Dynamics of Depression
Suicide and Negativity(つづき)P87(邦訳P94
・自殺行為には無意識の動機が幾つもある。
・自己破壊(self-destruction)は助けを求める声(a call for help)、命がけの関心を引く策である。
・自殺未遂の数は101の割合で自殺を大きく上回る
・大半は成功を計画したものではない(Most are not designed to succeed.)
・発見されるような状況で手首を切ったりODをしたり。
・これらの人は後になって死にたくなかったことを認めることが多い。
・彼らは助けを求め、苦境(plight)を真剣に受け取ってほしかった。
・その後必要としていた注目を得て、有意義な人生を送る未遂者も多い。

(学生)死にたくないのに自殺を試みるという矛盾は抑うつの症状と見るべきでしょうか?

これはあくまで一群ですね。本当に死んでしまう人もいるので。
しかし臨床ですから、救える人をおいているわけなので、
こちらがその力動を分かっていたら彼らの助けの求めとしてキャッチできる人がどれだけいるか、と。
自己破壊という一群、大きくとれば症候群とも言えるし
行動化、とも考えられる。つまり思いを上手に表現できないからある行為でそれを表そうとする。

その一群の力動として、破壊の行為そのものにもある適応的な意味がある、と。
つまり助けの求めを表現できないんだけど
こういう形でどっか見つかるような、あるいはセラピストに見せ付けるようにしている。

これをただ破壊を無くそうと言う事だけじゃなくて
動機の分析によって、彼らが本当に死にたいのか、生きたい上での助けの求めなのか
うつの人がどんな形であれ「求められる」のは良いサインでもあるわけじゃないですか。
やり方はすごく嫌なやり方、ではありますが。
それをこっちがキャッチすることで、抑うつに関わる力動は展開するかもしれない
つまり、破壊的な行為はそういう「転回点」でもある。
それに立ち会えますか?ということをローウェンは言っている。

よく私たちは「防衛的」な意味に走りやすいので、適応的なものよりも。
やり方がすごくひどいので。怒りたくなるし、止めなさいと言いたくなる。
まぁそれは言わなくてはいけないことでもあるのですが
表に出てくるものでなくて、その奥の欲求や要求に目を向けましょう、ということですね。

(学生)ここで言われている自殺は、うつの人の自殺なんですよね?

そうですね。

(学生)今のお話を聞いていても、すごくヒステリー的に思えます。うつ患者の自殺の9割がこのような、助けを求める表現としての自殺行為である、と理解していいんでしょうか?

んー、まぁ混ざっていると思いますね、ヒステリーが。

(学生)これまでのこの本に出てくる重いうつ患者の病者像と、ここで言われていることは、なにか一致しないように思えるのですが。

そうですよね。
私が思ったのは、抑うつの人でもパーソナリティが堅くない人であれば、
自殺するその瞬間、ヒステリーが出てくるということはある訳じゃないですか。

(学生)瞬間?

人格が堅かったら、うつで固まっちゃってそれ以外には動かないんだけれど、
どうしようもないどん底に来た時には、あらゆる自分の人格を使おうとするじゃないですか。
そこまで行くから自殺を考えるわけだけど。
その瞬間はもしかしたらヒステリーが出てきていて、
受動的だけど、その瞬間にはある力動があるんじゃないか、とローウェン的には見えるんじゃないかと。
もう少しこの後も読んでみないとわかりませんが。

つまりヒステリー的なものが出てくるというのは彼らの治療にすごく役に立つ。
うつの人にヒステリーが出てくる、というのは関係を持とうとしている訳だから。
そこをキャッチをすれば治療の展開になる、ということだし、
助けを求める声として受け取られるだけで、安心するということもでてくる。

なのでその瞬間を、絶望で取るんじゃなくて、
逆にパーソナリティの変化の瞬間として捉えると治療になる、と。
うつにもヒステリーがあったり、
本当にうつで死にたい言って死んでいくこともありますが、
でも(治療者が)症状を怖がっちゃうんだよね。リスカとかODとかあと首吊りとか。

本当に、多分首吊りで死んだだろうなという状況があったんですが。
たまたま紐を括っていた棚が壊れちゃって未遂に終わったと。
その人は喪失体験が重なって、お金もないという状態で、
ヒステリーというよりも本当に抑うつの人だと思うのですが。

それでずーっと助けを求めるところまでいかなかったんだけど
その時はしょうがないから、ということで来ていたんですよね。
でも、それこそ死ぬということになると、求めざるを得ないというか。
だから未遂に終わった時は(介入の)チャンスでもあるということだよね。
そういうところに一緒にいられるかどうか、という。

*症状を怖がらずに、それを助けの求めと理解して(そう否定されてもそうキャッチして)
 そこにともにあり続けようとすること、が治療者に求められること、か。

(学生)その人の自殺も、救いを求める声として受け取れるようなものだったんでしょうか?

ええ、そうですね。
人格が堅いと、明らかに救いの求めなのですが、自分で認めないんですね
瞬間こういう行為で出してくるんだけど、
「いえいえいいです(と助けを拒む)」と。

そこをキャッチできれば
「生きていきましょう」というベースの同盟が組めるんだけど。
すこし人格障害的というか、
あまりに現実不安が高すぎてどうしようもなかったということもあったと思うんだけど
PTSDみたいな所として見ても良いとは思うんだけど。

助けを求められなかった人たち、なわけだから。
それで一人で頑張って生きてきたのに、今更求めるなんてと。
「求めたってどうせ失うでしょう?」という、それがうつの力動だけれども。
だから簡単には認めないけれどね。
でも、だからと言ってこっちがキャッチしないということではなくて
出てきたら助けの求めとして受け取って、
それを積み重ねていって、かれらの学習経験にしていかないといけない。
そういう瞬間に立ち会えるようにしましょう、と。

(学生)そこでも「否定的感情」をキャッチしましょうということなんですよね?

そういうことにもつながっていきますね。
だって目の前ですごく破壊的なことをしてくるわけだから
すごくこっちに嫌な思いをさせるわけですよね。

でもそういうネガティブなコンタクトによって助けを求めようとする人な訳ですよね。
うまく助けを求められないのだから。

でも治療者がその破壊を「嫌だ」とか「他のやり方で表してくれ」と表すと
彼らはせっかくエネルギーを向けてきてくれているのに
それを無視することになってしまう。
そしたら「ほらみたことか」になってしまう。これは後で出てきますが。

そして「また、わたしを裏切ったでしょ?」を再現しようとするんです。
だけどセラピーは新しい体験をしなきゃいけないし。
本人の欲求が通っているということをキャッチするのが治療なので
そういう自殺未遂とかはある意味チャンスなんだよ、と。

(学生)ここは「見捨てられ不安」という風に考えられますか?

そうですね、近いですね。
発達的には「見捨てられ不安」に近い力動を持っているので。
それを発達段階的に持っている人と、具体的な喪失体験から持っている人といる。
そこに発達の違いは出てきます。その人の心の強さがどこまで育っているか

その見捨てられ不安が非常に強い人たちというのは人格障害ですね。
「分離個体化」のテーマを持っている人たちが人格障害なので。
非常にしがみついたり、助けの求めが下手だったり。
その人たちが抑うつになる、ということももちろんあります。

そういう人格障害と、具体的な喪失体験からおこる心因性のもの
喪失時の反応の処理が出来ていないがために、今までいろんな人にそれが置き換えられてきた
という人の場合では、心の強さの持ち方が違うので

そこを見ていきながら、どこから治療していくのか。
見捨てられ不安からするのか。あるいは、そっちはもう越えていて
具体的な対象の喪失体験をワークスルーしていかなきゃいけないのか、
そこの見定めはセラピストの腕であり、専門性ですね。

まだあまり自我が育っていない状態、人格障害であれば
(分離個体化にかかわることを)学習させていかないといけないので
今のような「瞬間」ででてきているものを、
「これは助けを求める声なんだ」とキャッチしてあげないと
いくら否定されてもそれをキャッチしていってあげないと積み重なっていかない

自我が育っていて、その時だけ崩壊しているという人ならば
もともと持っているものを浮上させればよいので、「学習」までいかなくてもいい。
持っているものだからそこに火をくべる(kindling)だけで治療効果がある。
つまり治療の手順が違ってくる。

神経症的な人であれば、救いを求めている、ということを
そんなには否定しないでしょう?
もう少しすんなり入ってくるし、アグレッション(aggression)も早く出るんじゃないか。
また、破壊性の程度も違う。

そんなに人格障害圏よりも低次なものがガッと出てくるようなことはない。
(あれは)いやーなかんじがすごくあるんです。

(学生)なんであんないやな感じがあるんでしょうか?

見捨てられ不安があるからでしょうね。
「それでも私を大事にしてくれるでしょ?」というのが強烈なんです。
繰り返しますからね。長い目で見ていかないと。

Suicide and Negativity(つづき)P88(邦訳P94
・未遂で終わらない場合は、死にたいという願望が動機の一部になっている。
 (the desire to die is part of the motivation of this act)
・そのような願望は次のような言葉にまとめられる。
 「人生は生きるに値しない」 (Life is not worth living.)
 「生きている意味は無い」  (There is no poin to living)
  「こんなやり方を続けることはできない」  (I can't go on this way.)
・これらにに答えることはできない。
しかしこのことだけは指摘できる。
 死にたいのは身体ではない(it is not the body that wants to die
・もしそうならば野生動物のように安らかに死ぬだろう。
自殺は、自我(エゴ)が身体に対して刃向かうこと
 なぜなら身体が自我のイメージにかなうことに失敗したから。
 (the ego turns against the body 
 because the body has failed to measure up to the ego's image.)
・自我のイメージは常に男性においては「力強さ」と「男らしさ」(power and masculinity)
 女性においては「性的魅力」「女らしさ」(sex appeal and femininity)
・このレベルにおける挫折が圧倒的(overwhelming)は自己破壊を導く。

(学生)ここで引っかかったのはbodyという言葉の使われ方で、
では、身体が生きたいというだけで人は生きられるのか?
と思ってしまうのですが。

"body"という言葉で意味しているのは生物学的なことでしょうね。

(学生)それを人間に言って何か意味があるんですか?

そうですね。自我が身体に刃向かうことがある、ということを言っているんですね。

(学生)でも、だから「自我をなくそう」という風にはできないですよね?

うん、そうではないですね。
フロイトが言った自我の「破壊のエネルギー」があるんだ、と。
しかし、ローウェンの立場は身体そのもの。
つまり、人間が生きていくエネルギーそのものに破壊衝動がある、
という立場には立っていない
彼の立場は、アグレッションはあくまで防衛的なもの
身体そのものには生命体としてのエネルギーがあるという立場だからこうなる。

(学生)フロイトのエロスとタナトスという欲動の理論から見ると、
破壊は本来的な本能にあるということになるんじゃないでしょうか?

うん、そうですね。フロイトはそう置いている。
しかし、これは今でも超議論されているところです。今でも。
それにどういう立場をとるについては、どれが臨床に有用か、と。

これは(フロイトの)"dual"ということで言われていますが
フロイトもエロスから始まったわけじゃないですか。
そこから、どうしてアグレッションを言わなくてはいけなくなったのか、
という力動もあるわけじゃないですか。
二つ流れているとはいったけれども、
フロイトが言っている性衝動とはもともと「生きる力」のことですよね
生命のエネルギーそのもののことを言っていたわけで。

しかしそのエネルギーだけでは説明できないということで
タナトスと置いたわけですが
彼のそのままを読むと、タナトスというのはそんなに急激に出るものじゃない。
自然と老化し、退化する中での自然死に向かうようなもの。
それが、二つが喧嘩するような流れのエネルギーとしては置いていない。

自殺という事を考えたときに(ローウェンは)
彼らは自然な身体のエネルギーの流れにのっているのか?
ということを問うているわけです。
死にたいという時に、身体が老化し、退化してなくなる、ということで動いている
自然なエネルギーに(自殺という行為は)刃向かっていないか、と。

(学生)まだよく分からないのは、
「身体」というのはどこで見るべきなんでしょうか?
それは結局自我を通してしか見られないものじゃないんでしょうか?

自我はいろんな機能があるんだよね。
防衛の機能も適応の機能も両方ある

(学生)その機能は両方とも「自然な」こと、として置いて良いんでしょうか?

自我は意識から無意識レベルまで持っている訳です
ですから、自然といったときに、ローウェンは無意識レベルまでおいているわけですよ。
だから、自然という時に、あなたが言っている自然がどこで自我を使っていることかによる。

ローウェンが言っているのは、
人間の生命の動物的なところを言っていて
それを私達は自我として覚知するわけじゃない?
でもそうやって自我が覚知できるのは超一部なので、
でも、本当に本当に無意識的なものも含めて言えば
本来は、実際には「生きたい思い」があって、
だけど意識しているある一部分の自我がそれを攻撃する、みたいなこと。
自我同士の攻撃が起きるんですよ、ということも言っている。

(学生)わかりました。
では、どうしてローウェンはそれをこの部分で言いだしているんですか?

それは、この後に書かれている
身体と男性性、女性性のイメージに関係してくることだから。

(学生)頭ではわかるんですが、肌感覚としてはよく分からないですね。

うつの人、破壊をする人たちのある一群の特徴的な力動に関わっているんだけど

さっき「見捨てられ不安」が奥にあるって言ったじゃないですか。
あれは人格障害レベルの人の話ね。
もう少し重くなくて、つまり未遂レベルの人たちに
共通した引っかかりのポイントがありますよ、という指摘なんです。

いきなり身体と自我と理想イメージというのが出てきますが、
ここの関係は-…、確かにあんまり説明はしていないよね。

うつのもう一つの動機となる力動を説明しているんだけど。
どこで私達は「喪失」を体験するのか、ということと
そこに自我がどんな風に刃向かったり、難しくなる瞬間があるのかということなのですが

それって、誰しも起きる可能性がありますよ、ということだし
発達の早期で考えなくても、もう少し、思春期のレベルで捉えられることがある
ということも暗に言っているんですよね。

ちょっと難しいかもしれないですね。

(学生)理想のイメージと実際の自分の身体とのギャップも
「喪失体験」になり得る、ということなんですね。

そうなんですよね。

(学生)ここではfailureという風に表現されているところですよね。

そうですね。

あの、
身体に自我が刃向かうということが起きる。
本当に不思議なことだよね。人間だけにしか起こらないような。

ローウェンは「自我優位」になっている所から、
もうすこし違う方に行かないといけない、と言っている訳だから。
だからまぁ-、じゃあ自我を捨てれば良いの?みたいにもなりかねないんだけど

あのー、
自己」という発想がローウェンには無いから。
だから「身体」という語をつかう。

別に、自我を捨てるというのは、全部自分を捨てるという事ではなくて、
防衛的な自我を取る」ということだけなんだけど。本来は。
意識的に「こうだ!」と(決め込んで)動いている自我がすごく邪魔になるんだ、と。

それを自由にするという事が、
なんというか自我を無くして馬鹿になるみたいに思われがちだけど
実際は「自己に委ねる」ということなので、
自然に自我が動いていくということをそのまま見られれば良いんだけど。
ローウェンの説明だと、ちょっと誤解されやすいのかもしれませんね。
本当に身体に委ねるというのはどういうことなのか。

*ちょっと福永法源(法の華三法行)の「頭をとる」ってのを思い出してしまった。

(学生)それって何かすごく怖い気がします。
というのも「必要な防衛」というのはありますよね?

そうですね、ありますよね。

(学生)本人からしたら、
持っていていい防衛と取ったほうが良い防衛の差は分からない。
どれも「不安」という形で来るものに対する防衛じゃないですか?

そうですね。それが(一番強く出るのが)思春期ですよね。
思春期ってあらゆる防衛を使わないと生きていけない感じになるんだよね。
それが身体の喪失なんですが

要は「これまでの身体」が失われるわけでしょ?
これから、男らしくとか女らしく、とかなっていくわけじゃないですか。
そしたら今までの身体は「無くなる」ということになるので。
「どうしよう!??」となって、あらゆる防衛を使い始めるんですよね。
だからある意味では確かに自我はすごく必要なんです。

で、ローウェンはそれを「刃向かっている」という風に言うわけですよね。
ある意味、確かに不安で怖くなることを言っている。

しかし、ローウェンが言っているのは多分
いっぱい防衛して、防衛した後のことを言っている。
つまり「いっぱい防衛したまま生きている人たち
それが、自分の身体を受け入れるプロセスの中で
徐々に不必要な防衛は取っていっていいわけじゃないですか。
それが「成熟」という事で。
そこの受容を失敗した人たち、というのいるんです。

ずーっとコンプレックスを抱えて生きている人ということでしょう?
思春期の「性器性の劣等感」とかあるいは 
「孤立の不安」という風に言われていることなんだけど。
セクシュアリティ、身体に関わる劣等感ね。
女の子は超起きやすいよね。男性にもそれはおこるけど。
そうするとあらゆる防衛を使って-

そういう時に、例えば、いきなりナルシスティックに話し始めるコがいたりとか
知的に話し始めるコがいたり、というのは
最大限に防衛を使い始めるということでしょ?
自分の劣等性を自分で見なくてもいいように、
あるいは補うように防衛し始めるわけだよね
防衛が育つ良い時期とも言えるわけですが。

そうやって最大限防衛を使いながら、
自分の中の安全を保とうとする。

そういうときの不安、「性の不安」って
簡単に横には並べないでしょう?
女同士はライバル心が強くて難しかったり-
男同士は徒党を組みにくくなったり-

「性の不安」そのものを十分に抱えることって難しい。
そういう時に「孤立の不安」も同時に起きてくるので
身体を受け入れていくプロセスは結構大変なんですよね。
自分の性を受け入れていく、ということは。

そこにたいていは「自分がこうありたい」と同一視する人がいたり、
横と縦があって、男らしさ、女らしさを作る作業に入っているわけだけど
そこに失敗している人というのは結構多いのかもしれないですね。

それは一つの喪失体験でもあって、
その喪失がうつにつながって身体を壊す、という
自殺未遂に関わる力動に関係していることもある。
その時が一番自我の力が問われる時期でもある。

そこで失敗することにはいくつかのラインがあって
もともと自我が育っていないから防衛しようが無い、という人たちがいるでしょ
それが「精神病の発症」
すごく生物学的にもエネルギーが上がってくるから、
それに対峙しようと思ったらちょっと足りない、と
エネルギーに圧倒されて分裂するという人たちが統合失調症の人たちね。
だから思春期に発症すると言われるわけです。
そういうひとたちが「大うつ病」と言われる、
重い精神病のうつになる、と言われている。

その一方で最大限に自我を使える人は
神経症としてみていいでしょう、ということ。

そこで破壊性が強く出てしまう人、
また「見捨てられ不安」が強く出てしまう人は
自我はまぁあるんだけど、ちょっと足りない、と。「道具」が足りない。
一つのことにガーッと固執しちゃうから、
ナルシスティックになることは防衛の一つでもあるが
そればっかりになっちゃって、
他の機能が動かなくて破綻をきたしそうになる人が人格障害

このような形で、この思春期の時期は病態がはっきりしやすい。
だから、うつにもいろんな病態がある、と。
大うつ病から、思春期性のうつとしてでることもあれば
そこに発達がからむということにもなってくる。

(学生)その思春期の時期においても、
自我がある人に関しては治療として「感情を動かそう」とするわけですよね。
防衛のさなかに感情を動かそうとすると…

そうなんですよ。
だから、超技術が必要でしょ?

感情を動かす一方で、防衛をさせてあげないといけないですよね。
まずは、そこに私達が嫌な感情を持たない事ですよね。

でも防衛をいっぱいしていると
フロイトのいうところの「スリップ」は起きやすいんですよ。
いっぱい防衛していれば中は安全になるからね。
すると瞬間フッとでてくるんですよ。
そこだけを捉えてあげる、と。(そういう練習が必要)

でもそこは捉えて上げても逃げちゃうことを覚悟して。
そんなん認めたくないわけだから、不安なんて。
「だーいじょぶです」とか言うわけですよね。
「ぜんぜん問題ないっすよ~」みたいな。
でも明らかに問題行動を起こしていたりするんだけど。

そういう子たちに瞬間で-
さなかにいる子たちにはだから短い時間で。
長い時間やっているといっぱい防衛して疲れちゃうでしょ。
だからその場合は防衛させる時間を少なくして
でも、いっぱい喋らせながら
「あーなんか元気だねぇ」というような
エネルギーの出ているほうにアクセスする

でも「いっぱい喋っているけどちょっとしんどそうだね」とか
ローウェン的にいうと身体の反応性ね、
正直になっているところだけをキャッチしていくというのがコツになっていく

だから身体に刃向かっているというのは実はそんなに難しいことではなくって
まぁ見ていればわかるという。

みんなベースにうつ的なものを持っていたりするので
身体に関わる「挫折感」を持っている子に自己破壊がでやすいのは分かるでしょ?

(学生)(破壊が)中に向かわないで外に向くということは無いんですか?

それが(外に向くことが)必要なんです。
治療機序として。

(学生)それが治療になるんですか?

そう!
この人たちって破壊を中に向けるから
外に向けたらとりあえず自分には向けなくなるでしょ?
その外に向けることの相手になるのがセラピストです

出せるようになること、を治療の中に持ってくるんです。
そしてそれに気づけるようになることが治療です。
(治療空間の)外でやっているときには気がつかないので。

自分も相手も自分だ、みたいなことには気づかないので。
破壊したい対象は自分だ、ということもある訳ですよ。
他者破壊になるときには。

それは見たくないから、という投影
投影性同一視と言われるところのことで。
自分の問題を相手に移して相手を攻撃するということ。
だから、その相手にセラピストがなれば良いんですよね。



*これってまさにDenis Cooperの『My Loose Thread』だ。

自分がゲイかもしれないという恐怖が、
ゲイだっていう誰かを殺すことにつながってしまう。
冷静な時には否定しつつも「自分がゲイかもしれない」という
葛藤を持てているだけに、暴力のさ中での混乱が哀しい。

“I killed the boy because I can't kill myself.
That's why I hit him so hard.”

あるいは、ホームレスのテントを襲撃するようなヤンキーとかの事件もそうか。
自分のくだらなさとか役立たず感を見たくなくって

ていうか、そういう仕組みは頭にも上りはしないだろうけれど
その葛藤は抜きにして、手っ取り早い対象に投影同一視して襲い掛かる。
それは、直視すれば自分をぶっ殺したくなるような類のもの
というのが「破壊したい対象は自分」ということなんだろうな。



日常ではそういうふうな防衛を使って
自分のことを見ないようにするわけだから。
セラピストが相手になれば自分自身を見ざるを得ないでしょう?
だからその相手にセラピストがなる、ということがまず治療の始まり。

*?なんで、セラピストが相手になれば自分を見ざるを得なくなるのか?
というのはまだいまいち腑に落ちていないところだな

(学生)それも転移と言えることですか?

そうですね。転移です。
転移が起きるようにしていく。転移が起きないと治療にならないので。

ここでもう一つ言っているのは
自分が「死にたい」と言っているのでは無い、と言っていて
「自我が身体を攻撃している」と。
だから治療のしようがあるでしょう?
自分の「中の機能」がそうさせているんだ、と。
/彼女の全体がそうさせているわけではない、というのも大事な見方。
そのために"body"という言葉を使って要素を分けている
全体にしちゃうと、この人はもう死ぬしかない、と思うじゃないですか。
でも、この人の要素を分けて、そこでの力学を見ていくと
いや、ここは「生きたい」んだよねと、
でもこの機能のところは「死にたい」と言っているんだよね、と。
じゃあどういう喧嘩なの?ということで
治療の視点が得られる。

だいたい私達が、治療ができないという感じになるときは、
その人の一部分を全体として見ちゃう、ということ。
この人の全部が死にたいと言っている、と思っちゃうから治療ができない
いやいや待てよ、と。で、身体のところを見てみる、と、
ゆっくり話していけばほとんどの人において
「生きたい」というのが出てくるんですよね。
一部を全体にしちゃっているだけだから。

アラレちゃんじゃないけれども(笑)
分解してみてみたらもうちょっと違う視点を教えてくれる、というのが
この段落のもう一つの意味です。

(学生)(クライエントの中に)自己矛盾があるということですか?

そうです。それが見られるようになるかどうか、と。
だいたい葛藤というのは、
欲求が合ってそれがかなわないから葛藤するので
「死ぬ」というときはその欲求が見えなくなっているから
そんなに死にたいって言っているんだから「生きたい」が無かった訳じゃないでしょ?と。

そっちの欲求のベクトルを見ていくのに身体がすごく役に立つ、ということです
それをローウェンはずっと見てきた、と。

(学生)ここで言われていることって、
自分のイメージと身体のギャップを患者が素直に認められるようになる、
ということなんですか?

そうです。
ちょっと時間はかかりますけどね。

(学生)そうならないと治療にはならないということですか?

そうです。
だから、はじめは認めるまでの時間が必要、ということになるでしょう?
そこまでが目標になってくる。うつの治療において。

(学生)思春期って一番そういう事を認めたくない時期ですよね。

(笑)そうですね。
だから、それも覚悟してやるんです。
「なかなか認められないだろうな」ということも予測として置いておいて。
ただだからといって「認められないわけではない」と。
1年くらいあれば認められるかな?というような

*やっぱ、そんな時間がかかることなんだな。

(学生)んー、話を少し広げて考えてみると、この問題に対して
整形手術やステロイドを飲むとかも、もう一方の解決の手段になる事ですよね?

(笑)ならないんですよね。
置き換えですからね。

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 Mom Gives Botox to 8-Year-Old Daughter: How Young Is Too Young?
 (Good Morning America, May 12, 2011) 
 整形とはまたちょっと違うかもしれないが、8歳の女の子にお母さんがボトックス注射ってニュース (3分20秒)

それで、性同一性障害と言われて、身体の方をいじっちゃって
あとですごく葛藤する人が多いんですよね。

これってローウェン的に言うと「現実を見なくする」という事なんですよね。
外からいじると言う事は。
つまり現実を見ないで、変えちゃうからね。
そこに本当はカウンセリングなどがあるはずなんですが。
身体を変える前にね。
だけど経済原理とからんじゃって、
そこはほとんど引っかからないようになっちゃっている。
自分が本当に変えることについて葛藤がないのか?、と。
そこに葛藤を持てた上でやるならまだしもね

そうすると、自分が女性でしたけど全部胸を切っちゃって男性的な身体になる、と
その人にとっては自分の女性性に関わる挫折感があったんですよね。
父親との関係でそこを全然認められなかったり。すごくひどい仕打ちを受けていて。
自分の女性性を認めると「やられる」という事がずーっと頭に残っている
その学習が消えないから、
つまり防衛のために自分を男にする、ということ。
でも実は女性性を捨てたいわけじゃなかったんですよね
そのとき、思春期の時には分からないでしょう?

で、その人の人格そのものも柔らかくはなかったので
色々考える自我が無いので、
(手術を)やっちゃう、みたいなことがある訳です。

で、手術をした後が大変と。
それが自分の防衛だった、って気づくのは大変でしょう?
やっちゃった後に。それはだから壮絶でしたよ。

自分が葛藤していたなんて認めてしまったら
手術をしたことの罪悪感が出てきてしまうので非常に大変な作業。

その人の場合は、手術そのものはもとに戻さないで
中の、心の女性性に関わる自分を持っていても良いんだ、
ということに安全になる、ということで治療は終わりましたけども。
だから、大変です。
すごく時間もかかる。
ある意味一生かもしれませんね。

それぐらいその、私達は自分の身体を否定したくなったり、
男性もそうですよね。
女性にあんまりやられっぱなしになると、
女みたいな感じになるということがおこって-
こういうのを「攻撃者への同一視」と言いますが。
それで自分を男でなくする、とか。
女性と仲良くすることで
自分自身の男らしさを出すと「やられる」というのがあるから出さないようにしようと。

でも、その前は出していたんですよね。
出していてやられた訳なので、無いわけじゃないのに
それを無くするということで、すごく破壊的なこと。内的な破壊。
でも、それに気づくのはすごく大変。

気づくためには先に怒りが必要、というのもそうで
あいつらが俺を台無しにしたんだ、というんが先に出ないと。

(学生)例えば化粧で済むくらいだとすると、そんなに葛藤もないのかもしれないが、整形手術も技術が進むことで「現実的になる」と考えることはできますか?

んー。現実というのは、鏡を見た自分の体と話をするっていうそれだけ
自分の裸の身体を見て。

(学生)イメージがある訳ですよね?身体に関する。

それは観念ね。
そのままの身体を見られるか、っていうのがリアリティ。

(学生)現実の身体を見て、理想のイメージがあって、その間にギャップがあるから挫折が生じる訳ですよね。ということは、そのギャップを埋めるためのお化粧なり筋トレなりは現実的な手段じゃないんですか?

その時に「ギャップを見られているか?」ということですよね。
自分はここが劣等感があるのよね、ということを認めてやっている人と、
それを見ないようにしている人がいるわけですよ。つまり葛藤しないでやっている

(学生)ということは-、認めて手術をすることはアリっていうことですか?

ではないです。それはおきないはず。
認めていれば、そこはおきないんですよ。
手術をしようっていうのはアクティングアウト(行動化)ですよ実際

(学生)でも、バーベルを上げることはアクティングアウトではないですよね?

うん。それは感覚があるから。
手術するというのは、
自分でそこをどうこうしようという身体に関する自我が働いていないから。

(学生)身体に関する自我…

それが内的志向性か外的志向性か、ということ。
うつの人が外に頼るというのはそう。
手術もそうです、外に頼るんです。
で、鍛えるとかなんとかは自分でやるでしょ?

(学生)けれど、鍛えるという行為も
そういう身体になると男らしいと思われるからですよね。

そこにも内的か外的かはありますよね。
「見られたい」ということか「自分がそうありたい」ということか。
そこも外的志向だよ、とローウェン的には言う。
で、ほとんどは「見られたい」と思うんだけど、
「見られたい」の奥に「自分が見せたい」という思いは無いのか?と。

(学生)んー…、例えば男性だけれども、
自分が女性の身体であるのを見せたい、というのは-

それはだからもう倒錯しているでしょう?
自分の身体があることを認めていない、というか。
それは両性具有とかの病気ではないということの上でね。
自分の生物学的な持って生まれてきたものをそのまま認められるかどうか、という。
欠陥もあるし、完璧な人なんていない、そういう自分をちゃんと見られるかという。
それがローウェンの言うグラウンディングですよ、と。

固いなら固い、気に入らないなら気に入らない、
というのをそのまままず見られるかどうか。
それから、なんですよ。
そこの現実が無いままに、未来に飛んだり過去に飛んだりしている、
というのがローウェンの見方でしょ?

そのまま見るってすごく大変な作業なんだよね
そこにいるだけであっちにいこう、とかどうしようとか、
それは見られないから飛ぶんですよ。
そこにいるというのはしんどいけれど、実感としては持てるという
「私ってさぁ、こういうやつなんだよね」というのを持てるので
実はすごく自己愛が高まるはずなんです。

すぐにこうなりたい、ああなりたい、というのがあっても
実はそんなにすぐにはならないんですよ。
だけど私達は嫌だから、自分の劣等性を認めるというのは。
ロジャーズは「あるがまま」ということを言いますが
あれは全然簡単ではないですよ実際。

でもそれを防衛しながらでもそこにいられるようになっていく、というのが
ローウェンの言うグラウンディングだし、身体という風に言っている事。

(自分)今のグラウンディングという事で考えると、
整形手術というのはそのグラウンド=地面を変えてしまう
というように考えられたりしますか?

うん、そうだよね。変えちゃうんですよね。

(自分)自分がグラウンディングしやすい地面にする
というのはおかしいですかね?

(笑)自分が…、
それってすごい幻想でしょ?
いろんなところに置き換えてみたらいいと思うけど、
世の中なんでも自分優位に変わる、という幻想があるんだよね。
それが、そもそも非現実的なんです。
すぐに変わるもんじゃないから自分が変わっていくしかないというのが本来の原理なので。
でもそういう幻想を持つという現実がある、と。

(自分)なんだかすごく夢のない話に聞こえてしまう、という…

(笑)

WB)そこに夢を持ち出す必要は全然ないんじゃない?

(自分)いや、非現実的というのは、
今の自分とは違う自分をイメージするという意味で、
すごく夢に近いじゃないですか?

WB)何故今の自分に立脚した夢を持たないで、
非現実的な自分を思い描かなければいけないの?

(自分)今の自分を好きであることと、
なりたい自分がある、ということは両立するような気がするんですが。

WB )両立するよ!
(先生)両立しますよ!

(自分)……。


*あー、こんな同時に返されるとは!
なんかすげー負けた感。
対話としては面白いんだけど。

しかし自分の話の進め方としては完全に失敗だ。言い方を間違えた。
つーか、改めてこうして読んでみると-
このタイミングでこんなこと言ったらそりゃ同時に突っ込まれるわ…。

ここは
「非現実的な自分を思い描いてしまうのは、
そしてそれを「夢」だと思うのは、
それだけ現実的な自分を見ることが難しいことだからだ」
って方向性で話すべきだったんだ。
話すべきっていうか、実際、夢を現実の自分の延長線上に着実に描けるばかりじゃないよな

だから、それを(現実を)無視しているか、先だけ見ているのか、という違いですよ。
で、未来を描く時に現実が基点にないと夢ってもてないんですよね。
持っちゃいけないんじゃなくて、
防衛として非現実的な夢を持つことはOKなんです。
全然OKなんだけど、うつの人に限っては、
それで失われるものがありますよ、っていうことを覚えておきなさい、と。

本当に、だって、すぐ簡単に手に入るって思っちゃう人が多いからね
アクティングアウト傾向の強い人だと
反社会性が強い人とかだと
たとえば「金でなんとでもなるでしょ」みたいな。
でも実際は会社はおかしくなっているんだよ。
全然うまくいっていない。

で、面接に来て自分の問題を見られなくて、
買収しようとするわけだよね、セラピストを。
「まぁうまくやろうよ」みたいな。
でもそれをさ、彼のグラウンドだね、と置いちゃうと危ないでしょ。
それってもしかしてさみしさや孤独感を隠していやしないか、
というのが伝わるわけじゃないですか。

そっちのグラウンドをもてないから、
すぐ人と金で何とかなるとして、つながろうとするんですよね。
でもそれはどうしようもないことなんだ、という原理を知らないと
うまくいかないですよね、生きていけない。
そこに一緒にいなければならない、セラピストの辛さもあるでしょう?
彼らはそれで適応してきたわけだから

だからすごく彼らの怒りを買うわけですよ。
「お前は俺の言う事を聞かないのか!」ということになるでしょ?
でも、そこにいなきゃいけないんですよね私達は。
どうこうしてあげることも買収に乗ることもできない。
そこにいる辛さはありますよね。
現実にいるって結構辛いことですよ

「そのやり方ではセラピストというこの現実は動かないんですよ」
というところにいなければいけないから。
本人はそこを認めざるを得ない状況になると
怒り倒して「もうやめる!!」ということになったりする。
でもそれでもそこにいなければいけない。
本人がそれに「なにをしているんだろうか」というのを演じているわけだから。
自分の手が通用しないと、暴れて、また人を失う、でまた淋しくなる、と。

でも淋しくならないと分からないから。
「わかりました」と置かないといけない
そこをつないじゃうと、また「じゃあお金で」となるから
現実にいられないでしょ?
本人がいま自分が何を体験しているか、実感を持たないといけないので。
実感に関わるところにいる、と。
その人の奥にはうつがあるんですよね。
そこに身体性を持てないと、男性性に限らずね、
そんなセクシャリティに関わるテーマなんてすぐには入らないから。

その人のテーマも、他にいろいろある訳で。
もうすこし大きく肉体として、また実存性をそのまま見ていける
たとえばその
「買収しようとしている、そのようにしてしか関係がもてない」
「そのままいるということに安全感がもてない」とかそういう感覚。
それって感じることだから。
それ自身を認めていく作業は大変。
これって自分の身体をそのまま鏡で見ていくような作業でしょ?
そのままを見るようなものなので非常にしんどい
それを見ないために生きてきたわけだから
で、他者破壊によって自分を守ろうということもしてきた訳なので
確かに見ていくのはしんどい、と。
でもそこの葛藤にいないと治療はできませんよ、と。

あっさりいえるけれども非常に大変な事です。

もう少し読みながらね、
そこのところの疑問に関しては持ち続けて良いと思うので。

その疑問に関してローウェンによってどこまで分かるのか
また、分からないのか、と。
そしてその分からないところに関しては、別の人はどう言っているのか、と。
身体、身体性にかかること、というすこし大きなテーマなので。



Suicide and Negativity(つづき)P88(邦訳P95
・自己破壊の根底にある「あなたは私を見捨てた」(You have failed me.)は、
 自己と他者の両方に向けられている。(aimed both at the self and at others)
・自殺は肉体的な自己(bodily self)に対する拒絶であるのと同様に
 自分に関心を向けた人への非難(rebuke)である。
・自殺者の家族が必ず罪悪感をもつ。
 自殺はその家族に対する敵意と否定の行為でもある。
・「必要ならいつでも電話をかけて」(Call me anytime you need me.)と
 援助の約束をしていた精神科医のところで自殺が多数発生。
・私の結論は、患者は「あなたは私を見捨てた」(You failed me.)と
 言いたかったのであり、その精神科医にはこれ(this need)が分からなかった。
・患者のこの感情を見落とすことは彼らを自殺にまで追い詰める。
・フロイトは「喪とメランコリー」(Mourning and Melancholia)において
 自殺はサディスティックで敵対的な感情に動機付けられていると書いている。
・「このサディズムこそが自殺のなぞを解く鍵である」とフロイトは言う。
・つまり
「うつの患者はふつう自己処罰という回り道をつかって本来の対象に復讐を果たし
愛するものに敵意を表す必要を避けるために、病気という手段で彼らを苦しめる。」
(The sufferers [from melancholia] usually succeed in the end in taking 
revenge, by the circuitous path of self-punishment, on the original objects,
and in tormenting them by means of the illness, having developed 
the latter so as to avoid the necessity of openly expressing the hostility
against the loved ones.)

・フロイトは愛するものを傷つけるために抑うつ反応が起こると言ったわけではない
・フロイトは、抑うつと自殺傾向を理解するに当たって見逃すべきではない関係性が
 抑うつ/自殺/敵意の抑圧、の間にあると言ったのだ。

(学生)ここで言われているのは、
自殺は他者に敵意を向けないために自分に向けているということですよね?

そうですね。

(学生)その上で「抑うつ/自殺/敵意の抑圧」について考えるべきだというのは、自殺未遂をしたうつの患者に対して、「本当は敵意を抑圧しているでしょう?」ということを明らかにすべき、ということですか?

そうですね。
人間は抑圧しているものによって症状が起きるわけですから、
抑圧しなくてよい、ということは単純に言うと治療の原理になるわけですよね。
敵意を認めていいし、あってもいいんだよ、と

でも、敵意そのものは、
相手を傷つけるということだけのためのものではない、ということも。

(学生)抑うつ自体は、周囲の人を傷つけないために自分で自分を責めている仕組みとも言えますよね。それなのにこういう風に書かれると、なんだか身も蓋もないという感じがしてしまって。
報われないな、というか。

(笑)そうなんです。報われないことをするんです。

(学生)まぁ適度な抑制はともかく、過剰な抑制はいらないよ、
という風に僕は取ったんですが。

過剰な…。

(学生)抑制が抑圧へと変化していくことにおいて、
抑圧レベルまで行かないようにする、
あるいは適度に抑制しなくても済む場面を設ける、
というような理解でいいでしょうか。

うん、間違ってない。
ただ、この箇所ではその表の原理を言っているんじゃなくて、
敵意と抑うつの力動的な関係を見ていきましょう、ということをいっている。
今の話だと防衛をどうするか、という話だけど。

つまり、
抑うつ反応がどのように敵意と関係することによって起こるのか、という原理を。

「自己懲罰という回り道をとおって本来の対象に復讐を果たし、
 また、愛するものに表立って敵意を表さなくて済むように
 病気という手段で苦しめる」
というすごいおかしなことをしている、と。

(学生)これは意識的な面当てということではなくて、
もっと無意識の中で起こる原理ですよね?

まず、うつの人が、それを言えるようになったら、それは成果ですよね。
うつの人はそういうこと、「あいつのせいで」とか言えないんですよ。
「僕は死ぬしかないんです、生きていても仕方ないんです」と言ってくるんですよ。

うつの強い人だと出来事だけ言ってね、こんなことがありました、以上
というような感じで。
ローウェンは何でも気持ちを言えたら良い、と言っている訳だから
情動にかかわる反応をとっていくうちに、
他者への敵意が出てくれば、それは一つの成果ではある。

でももっと、治療的にやるなら
いまここにいる先生(治療者)に向けるのが一番だね。

そういう意味では状況を描けることそのものでは、
抑圧が解けるというのは薄いかもしれないが、
まずは(自分の抑圧を)言えるようになるために先生に文句を言う、ということかな。
あるいは陰性反応で出てくるということもあります。
遅刻をするとか、黙る、とか。
その辺で、こっちがどういう反応をキャッチするか、
という事で分析できると思うんだけど。

わたしのうつのクライエントは
ものすごく質問してくる
今考えると、もしかしたら敵意に近いものかなと思えるんだけど。
ちょっと困らせようとしている感じをおぼえるんだよね。
それで、自分のことにいれない。

すごくいつもニコニコしていて、
でも敵意とは言わないけれども、自分の中に「黒いものがある」とは言うんですよね。
そのことはまだイメージであって、情動にはなっていないんだけど。
それがはじめにあって。

で、ホント(先生の)個人的なパーソナルなことをいっぱい聞いてくる。
その時私は、彼女の自己が自分のことを語れないので
私に託していっぱい言わせたいんだろうな、と思って
私はそこにそんなにてらいなく答えて
本人に「どう思いますか?」と返していたんだけど。

ローウェンのこれを読んでてよくよく考えてみると
それは彼女の私に対する敵意だったんじゃないか、という感じがしてきて。
扱っていたテーマは「敵意」だったんだけど
もしかすると、
それがHere and Nowで起きていたんじゃないかなぁという気がちょっとしてきて

その時の面接の始まりが絶望だったから。
自分をずっと責め続けていたんですよ
だから防衛的にいうと逆に「敵意」が起きているな、と思って
ずっとそっちの分析をしていたんですけれど。
私に(敵意を)向けていたかな、と思うとちょっと失敗したかな、と。

(学生)質問…攻めにされた時は…、全部答えていたんですか?

はじめは、
「先生はここで働いていて、こんなにいっぱい人がいるのに集中できるんですか?」
とか聞かれるわけです。
それは普通に答えたのね。彼女自身のことを言っていると思ったから。
彼女の言葉として使えるようにということで
「もう、私はいっぱい人の中にいると、逆に安心して色々やれるんです
 あなたはどうなんですか?」と。

本人の孤独感に関わる話だと私は思っていたので、
こういう私の話を彼女の一部としてどんな風に使うんだろう?と思って。
だから、自分の話というより、彼女の自己の一部として
という感じで、ゆっくり彼女が自分の話をできるようになればいいなと思っていたから。
もちろん、結婚している相手の人はどんな人ですか?とか聞かれたとしても
そういうことは答えないけどね。
本人の関心を広げるための話として、そういう風に介入する、ということはある。
その人の場合はね。

その人の場合はあらゆるものを使っているから。面接室とか。
「ここの部屋しか使わないんですか?」とか聞いてきたりするんですよ。
面白いでしょ。心のことを話している、という風に思ったら

本人は外の話をしているつもりかもしれないけど、
こっちは中のを話している、と思って進めていくと
ゆっくり彼女も「中のことかもしれない」というふうに展開していけるから
外的志向から内的志向への移行をそこで助けていける。
一気に「内」って入れないでしょう。
間の遊び道具を使ってゆっくり内に入っていく。
そしたら隠れている、なにか

「ここの部屋しか使わないんですか?」という問いに対して
「見たい部屋があるんでしょう?」とかって(笑)
「のぞきたい部屋があるんでしょう?」みたいな。
「いやいやいや、あの隣の部屋が」とかって言い始めるわけ。

それは何を象徴しているんだろう?というふうに聞いていけば面白くって。
本当は自分で見たい世界があったり
新たな世界へ関心を持っているかもしれない、と思って
どんどん内的な世界に、こっちが入ってくと
だから、そこも連想するわけだよね。
「そうだよね、ベッドルームがあってー」とか。
本人は「それは夫婦とかだといいですよねー」とか連想的にいうわけよ
セクシャリティのテーマとかあるのかな、とか思いながら
でもそこには全然本人は入らないのよね。

「家族とか、そういう人がくるといいですよねー」みたいに無視するんだよね。
「あ、なんかひっかかっているな」と思って
心の世界の動くところと動かないところが見えてくる、と。

それを本人に
 「今、何を話しているっていう感じですか?」という風に返してみて、
本人の関心領域をもっとはっきりさせる、とかね。
その人はまぁ喋れるからね。高機能なので。
道具が出しやすくて良いですよね。

でもどっか、たしかに「あなたは見捨てませんよね」というような力動は出てきている。
なんかいろいろ矢継ぎ早に言ってくる。半分くらいセラピストを試している感じ。
その人にはいくつか喪失体験があるので
自分の中に入っていくための準備をしている感覚なんですよね。
「これ話してもいいですか?」と
先生はその信頼に足る人ですよね?ということをずっと試している感じ。
それって、信頼感が無いからでしょ?
だから敵意みたいなものはむけられていることは実感しながらやれたらよかったかな、と。

(学生)あの…「必要なら電話をかけて」の医師の患者さん達っていうのは、
カウンセリングの内容が不満だったんですかね?「期待に背いた」というのは。
だって、業務外のことで「電話しても良いよ」と言っているのに。

心理のプロのすべきことかどうかという問題はあるが、
自殺するほどの状況下だったら
それでも関心を持ってくれる人がいたほうがマシということはないでしょうか?

また、例えば一般の人として考えた場合には、
こんなことになるくらいなら関心を持たないほうがマシだったのか、と。
この程度でも良いんじゃないか、と思うんですが。

日常はそうですよね。これでコンタクト取れるので。
でも確かに、最後に電話を受けて、亡くなってしまうということがあるとその後は大変ですよね。
「電話してくれ」と言う時に、どこまで責任取れるか、ということも考えておくといいよね。
そういう場合って引き受けすぎちゃうんですよ。日常でやっていると。

電話してくれるからと言って、どうにもできない、という現実もあるじゃない?
だから、そういうときに、
他に連れて行く場所があるとか、親に連絡する手段を知っているとか
自分で抱えすぎないというのが一番大事。
亡くなった後自分の罪悪感が出てくるので。
日常として考えるとそのへんかな。
「電話してくれ」と言った時にこっちが抱えられるものをはっきりさせておく
自分を守るためにもね。

*あー、これはほんとうにそうだ。

自己破壊性が高い人に関わりすぎることの問題ってあるので。
うつの人だったらそんなに大丈夫だけど、
破壊性が強い場合に、その人たちって敵意は持っているからさ
こっちが親切心でも、やっぱり敵意を向けてくるんですよ。
そういう場合は「転移」とは呼ばないけれど。色々置き換えてきて-

嫌なものを投げられるということがあるので、
で、そこに入り込むとどんどん投げ込んでくるんですよ、安心するから。
でもそれは大変なことで、
自分で引き受けられないことまで
全部やっちゃうということで破綻する人は多いので。

なので一人では絶対やらない。
誰かに相談するとか、横の関係で自分をチェックするとかして
自分の感覚を失わないようにするということが大事になってくる。
あまり引き受けすぎると不必要な罪悪感を持ってしまうことがある。

親しければ家族に返すことなんだけどね。
たいていはその家族とうまくいっていないから友達に行くわけなんだけど
みんなで抱えるという。ひとりだとちょっと難しい。

で、
まぁ専門家の場合はこれだと確かに甘くって、
必要な時には電話をって、
会った時が必要な時なんだけど、ということでしょう?

(患者は)今にいられない人、ということなので。
結局「必要な時にとか言って、関心持ってくれなかったでしょ」みたいなのが出てくる。
そういうときはたいてい面接もうまくいっていなくて、
面接の中での彼らの「求め」に関わるエネルギーを
キャッチできていないからそういうことになる、と。

つまり、面接の中でうまく言えないから
面接の外でひどいことをやって「ひきつけてやれ」というような
ヒステリー的な反応を強くしちゃうということがおきかねない

自己破壊が強い人はそういうことをしょっちゅうやる、と。
だからすぐ面接の失敗がわかる。「あ、キャッチしていなかった」と。
そういう意味では壮絶です。

なので、こういう人たちにはグループを使った治療が有効とも言われる。
セラピストとしてもひとりで抱えやすくなってしまう、と
グループでおなじような人たちを集めて、
そのグループで抱える、と。
治療者も11でのりにくくなるし、メンバー間で支える力も出てくる。
集団精神療法が有効だという事がいわれている。

そこで敵意が分からなくても、他のメンバーが気づいたりするでしょう?
「それ言い過ぎじゃん?」みたいな。
自分に近いから見えたりするんですよね。
人のことなら言えるでしょう?
そういう機能が使えるというのもあってグループは有効だ、と。
さっきの、自分の挫折感、孤立感を一人で抱えるのは大変だけど
仲間を持つことでそこに触れやすくなるということもおきてくるので。

死ぬ時は死ぬからね、しょうがない。

(学生)しょうがない…。

いや、そう思っていないとやれない仕事なんです。

私の先生は病院に入って「3人までは殺してもいいと言われた」と。
それぐらいシビアなことなんです。
でも3人までというのはミソですよね。
だからいかに一人でやるのが大変か、という。開業なんかでも。
組織でやることによって、たとえば主治医が面倒を見るから
もうちょっと自由にやれるというところがあったり。
そういうような自分の体制を整えておくことの大切さ。
特に重い人をやる時は。
なので病院で扱うケースがあるというのもそういうことだし
組織や研究所でやれることと個人でやれることは分ける必要があるし。

そういう意味では、自分の日常であっても
自分に何かあったときに、自分はどういう守りを周囲に持っているんだろうか、と
意識することは自分を守ることにもなるので。

震災とかあると私も考えました。
どういう人が支えになるかな、とか。
近所の、とか、大家さん。大家さんはちょっと役に立つかも、とか。
自分の自己がどのくらいまであるかということを、人の感覚で自覚する、と。
そう思うだけで一人じゃないという感覚になるし
自分だけで抱えなくても。
自分をもう少し俯瞰して見られるような空間ができるので。
そういうのを大事に持っておくと良いと思う。

(今回の)ポイントは、
敵意の抑圧と自殺と抑うつの関係ね。
その後に、もう少し実際の介入をどうするのか、ということや
自己破壊は自分に向かっているものなので、
単純な治療機序としては、それが外に向くということだけでも、
生きるというエネルギーを取り戻すということになっていくので、
どんな風にローウェンはやるんだろうか、と。

*プリント配布
この後に出てくる、
自殺やリストカットをして、という回り道をして表出している原理、
行動化という防衛機制の。

これは「ダイナミック・コーチング」からの抜粋です。
行動化の定義ってこれが最新なので、出しておきました。
ちょっと見ておくと役に立つかと思って。

…あんまり進まなかったなー

*すいません・・・
 若干きょうは調子に乗ってぺらぺら話しすぎたかもしれないな。 
 あー、5章が遠いなー

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