2011年11月9日水曜日

英専‐8ex WBさんとの議論、そしてその後の内省

11/8の英専第8回クラス後の空き時間にWBさんと「治療空間/カウンセリングルームでの自殺の扱い方」について思わず頭に血が上って議論。発端は9月にバーンアウトでシャルケの監督を辞めたラングニックの話をしていたところから、つい頭がクラスに戻って疑問と甘えと防衛が炸裂。

論点はだいたい以下のようなこと


A. うつ病のクライエントの自殺における臨床心理士の責任とは何か。

B. そのような自殺は絶対に許さないという姿勢で治療契約を結ぶ
(≒治療は生きるために行われるものという大前提)というのはどういう意味か。

C. 他の仕事と臨床心理士の職業上の責任に質的な違いはあるか。

WBさんが言うことはおおよそ-


A.(臨床心理士の責任):個人で負える責任には限界がある。だからこそ組織/チームでの対応に意義がある。また、自分だったらそのような可能性が起こるところからはなるべく距離をとる。

B. (治療契約):それが許されないのは言うまでもないが、ここで言われている「契約」という語と、世間で通常意味するところの契約(口約束とは異なる意味での契約)は別のもの。しかし、そのような約束事の上での介入であるにせよ、カウンセリングの役割はクライエントの「気づき」に対しての手助けということだ。

C. (他の仕事との違い):死というものをどうとらえるか、個人の死ばかりでなく法人の死ということもある。その法人の死の先に個人の死が生じる可能性もある。
医師などと同様に、職業上の責任が個人の生死に直接的に関わるという意味で、他の職業とは異なるかもしれない。
しかし個人の倫理という点においては、どのような仕事においても誰かの命に関わりがある訳で、その生死に責任を負っていると言える。命がけで仕事をする、という言葉にはそのような意味もある。
また、最も差し迫った状況で、職業上の責任と個人の倫理のどちらを優先するかは、その立場に置かれた人の価値観による。

このことをWBさんが真摯且つ常識的な姿勢で話してくれているのは分かっていた。
しかし自分には何か割り切れない思いからおおよそ次のようなことを言った。

A.(臨床心理士の責任):カウンセリングという11の場でそのようなことが起きたならば、第一義的な責任をカウンセラーは感じざるを得ない。その事の重さを怖いことと感じてしまう。

B. (治療契約):自我が機能不全を起こしているうつ病の症状の一つとして希死念慮があることは理解できるが、自分で死を選ぶということも患者の選択の権利なのではないかという思いがある。たとえば、ある究極的な状況では尊厳死というものが認められるのと同様に、たとえば「尊厳自死」ということは全くあり得ないだろうか、という荒唐無稽な考えがあった。

C. (他の仕事との違い):臨床心理士の仕事における「失敗」には自分のクライエントが自殺するという可能性がある。そして相手を自殺させない事を大前提に仕事が始まっているということは、臨床心理士は個人の自殺に対して責任を負っているということで、それは臨床心理士だけのことではないにせよ、他の業種とは違った責任なのではないか。直接的な責任と間接的な責任の違い。自分の命のみならず、クライエントの命もという意味での「命がけ」で仕事に取り組むということの責任の重さ。その責任をとる、とはどういうことなのかは分かっていないが…。

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合間にWBさんが豊富な社会人経験に基づく話をしてくれながら、という形で議論があったのだが、自分の中の何か割り切れない感じは依然として残っていた。
しかし、今振り返って考えてみると議論の渦中に自分が何を訴えたかったのか多少は見えてくる。

端的に言うならば、クライエントの自殺に加担してしまいそうな恐れが自分の中にあったのだと思う。
それは、自分自身が自殺を考えたとして、それを絶対的に禁じられることは「自由を侵された」と感じることに基づいている。自分の最後は自分が決められる権利を確保しておきたい、という感覚。そんな権利を確保した状態ではカウンセリングは成立しない、と言われたとするとそれは理不尽に思える。いや「自傷他害のおそれ」がある場合にはカウンセリングよりも優先されるものがある、というのが臨床心理士として常識的な考え方なのだろう。

ここで自分が言いたい「自由」は2つに分けて考える事が出来る。
ひとつは「死にたいと言う自由」と
もうひとつは「本当に自殺する自由」だ。

●「死にたいと言う自由」について

やや唐突にキリスト教になぞらえて考えてみると、神から背く事は罪であり、それは罰なり地獄なりに値するものだ、悔い改めた方が良いよ、と言われたとする。そこで「放っておいてくれ」と言うことが許されない不自由さ。「死にたい」と言える自由がない事はそんな風に思える。

しかし、このたとえで考えるならば、「救われたい」が前提にあっての悔い改めを勧められることになるのか。だとするとカウンセリングを受けたいってのは、生きたいという願望のあらわれとみなされることになる、と。この話たしか前回のクラスでもあったな。自分もその時は「死にたいんだったら治療になんてこないですよね」と咄嗟に言った。

どんなに小さくとも欠片としての「生きたい」あるいは「救われたい」という願望がなければ始まらないのが対人援助(心理療法にせよ宗教にせよ)ということになるのだろうか。んー、それはそうなのかもしれない。でもきっと発端には「生きたい」も「死にたい」も両方あるよそりゃ。そして臨床心理士としてはその「生きたい」に賭けるということになるのだろう。それもわかる。けれど、そこで言う「生きたい」は、クライエントが何かの言質を与えたという意味ではないはずだ。

発端に欠片でも「生きたい」があるということと、結論が「生きたい」にならなきゃいけないということの間には絶対的な違いがある。そして欠片の「生きたい」をクライエントが認めるならば、仮に「死にたい」が並存していようとカウンセリングはスタートできるのではないか。
(あるいは親なり先生なりからの紹介で、「死にたい」のみからカウンセリングなり治療なりをスターとさせなければならない、ということもあるかもしれない)

クライエントは「生きること」も「死ぬこと」も考える。臨床心理士が「死ぬことに協力するべきだ」などと言いたいわけではない。ただ臨床心理士にとっての「生きるためにやっているという大前提」があるがために、「自殺したい」「死にたい」と言うことが陰性反応、抵抗となるとしたら、それはなんか変だ。だってそれは治療に入る前からあったものだし。心理士がそこで即「いや、だって生きたいから来てるんでしょ?」なんて言わないにせよ、ゲームのルールを破っているのがクライエントという構図にしてしまいそうな。(でも時間にせよ空間にせよ治療構造を作っているのが治療者だという意味では自殺も同じようなことなのか…)で、その上でそれが「心理士を試している」とか「陰性反応だ」とか解釈されちゃったり。

でも、それが行為を伴っていない限りは(行動化していない限りは)「自殺したい」を防衛や症状としてではなく、願望として扱うことはできるんじゃないだろうか。

あー、でも自分にはまだ「願望として扱う」ということの意味が厳密には分かっていないな。きっと分析ではそれが何であれ、どこから来ているものなのかということは見ていくものなんだろうし。それがエスからという風にいえたら願望ということか?いや、違うか、リビドーを「生のエネルギー」とおく限り「死にたい」というのは何らかの置き換えがなされた後のものという風になってしまう。

自分が漠然と思っていたのは、「死にたい」ということを願望として扱うことの治療的な意味というのは、例えばクライエントは「死にたい」と思いつつもそれを一人で見つめることには恐れがあったのを安全な空間で深く見ていけるようになる、ということで、その際必ずしも「死んだら駄目だ」という硬直した結論に回収されない道があるんじゃないかというようなこと。
(しかしそうなると精神分析的な考え方からは離れていくのかもしれない)

あるいは、「死にたい」が願望である可能性さえ一顧だにされないとしたら、なんかアンフェアな気がするというのもあるな。だってそれは置き換えだもの、防衛だもの、陰性反応だもの、見捨てられ不安からのものだもの、というような一刀両断される感じがなんかむかつく、というのもある。

そしてもし仮に願望として扱ったとすると、自分自身に対する気づきを積み重ねていって「なんで自分が自殺したいと思っていたのか分かってすっきりしました」ということでカウンセリング終結となったりするだろうか。クライエントが自分の願望に触れられてこうなるというような可能性は皆無なのか?

・この項の結論
それが願望として扱われず、防衛や陰性反応として解釈されるとすると、
「死にたいと言う自由」が侵されているように感じる。

○先生への質問を考えてみる

カウンセリングはともかく、心理療法ということになればクライエントが「生きたい」と言うにせよ「死にたい」と言うにせよ、それは分析の対象になるのだろう。そうなったときに「生きたい」という願望と「死にたい」という願望の扱い方にはどんな差が出るのだろうか。

「死にたい」ということが願望である可能性は皆無なんですか?
という質問の仕方はありえるか?
いや、それはそれで本当に重いうつの人ならばあり得る、という答えになるだろうな。

だとすると
治療者側の「生きるためにやっているという大前提」があるがために、「自殺したい」「死にたい」と言うことが陰性反応になるのはなんか変じゃないですか?という問いになるか。

■前回のクラスでの先生の言■■■■■■■■■■

人格が堅いと、明らかに救いの求めなのですが自分で認めないんですね

セラピーは新しい体験をしなきゃいけないし。
本人の欲求が通っているということをキャッチするのが治療なので

助けを求められなかった人たち。それで一人で頑張って生きてきたのに、今更求めるなんてと。
「求めたってどうせ失うでしょう?」という、それがうつの力動だけれども。
だから簡単には認めないけれどね。
でも、だからと言ってこっちがキャッチしないということではなくて
出てきたら助けの求めとして受け取って、それを積み重ねて、彼らの学習経験にしていかないと。」

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

こうなってくると、自殺したい、を正面から願望として受け止める道は皆無になる。
「死にたい」が常に、「(その奥にあるものとしての)助けて欲しい」に変換されてしまうのはおかしくないか?

多分、自殺が本当に願望かどうかは自分でも疑いがある。しかし、それが治療的であるという大前提のもとであるにせよ、クライエントの自殺行為を助けの求めと解釈して、相手が認めなくともそう考えることをやめずに「生きたい」であるとキャッチし続けることが常に起こるのならば、クライエントの言う事を受け止めるというのは何なのかという疑問が生まれてくる。誘導尋問的、というか、何を言っても相手に自分の言い分を聞き届けてもらえないような無力感がクライエントに生じてしまうのではないか。

今回の自分の質問の主旨としては2
・「自殺行為」「死にたい」を願望としてキャッチすることはあり得ないのか
・「死にたい」を常に「助けの求め」とキャッチするならば、クライエントの話を聞く、ということは一体何なのか。


●「本当に自殺する自由」について

このことを考えるにあたって、現在うつ病ではない自分とうつ病のクライエントにおいては、自殺に踏み切るという行為が病気の症状か否かという点で全く異なる。ただその前提に立った上で、カウンセリングが自殺する自由はどう考えられるだろうか。

カウンセリングはクライエントが自分の喪失感や欲求に触れる、それに気づくことのために行われる。「気づき」の主体はあくまでもクライエントである、という基本に立脚した場合、そこで出された答えが「自殺」だった時に臨床心理士には何が出来るのだろうか。そもそも「自殺」という答え自体が病気の症状の一つなのだ、として割り切るのだろうか。割り切れないとすると、「自殺する」ということは欲求の一部と認められるのだろうか。これは、人間が無機物であった時の状態を反復しようとする「死の欲動」というフロイトのトリッキーな理論でも当てはめなければ難しいのか?でも自殺はタナトスによる、とかそりゃあんまりだよな。

しかし、うつ病が他の病気と平行して起きていることもある。そのような状況において、病的ではない結論としての「自殺」という可能性は皆無なのか。

えーっと。倫理的には皆無なんだろうな。それはそうかもしれない。クライエントの家族、カウンセリングの社会的意義ということを考えたならば、そこを逸脱してしまったらカウンセリングでは無くなってしまうのだろう。つまり、「本当に自殺する自由」というものはカウンセリングにおいては無い、ということだ。早々に結論がでちゃったな。そもそも最悪の行動化といえるわけだし。

でも、カウンセリング外のこととしたら、個人に「自殺する自由がある」ということはそれはやっぱりそうな訳で。これは「犯罪をする自由」とは全然違う。個人の自己決定に関わる権利としてできるものだ。あるいは、自殺を犯罪化するべきだとは絶対に思わない、というのが自分の最低ラインだ。

そう考えると、治療契約を結ぶまでは自由だったことが制限されることでの不自由を感じているところも当然あったということだ。あーでもそういう意味では治療中は重大な人生の決定をするな、というのも制限と言えば制限か。でもそのことが穏やかにたしなめられている程度に感じられるのに対して、こと自殺となると、それが問答無用になる感じ(というかあれか、自分の質問に対して先生がそうだったからひっかかっているというのも多分にあるな)に違和感を持っている。

ともあれ、ここで生じる自分にとっての課題は、臨床心理士の立場にたった自分が、万が一にも「自殺したい」というクライエントの訴えに対して「それも分かるよ、そうするのも一つの方法かもしれない」と思ってしまったときにどうすれば良いか分からないということだ。先生が以前言っていたように、治療的でない事でも自分の中では止めずに勝手にそう思っている。というような対処になるのだろうか。

ただ、今の自分には「中で勝手に思っている」ということを外の表れと完全には分離できないような気がする。その不安が「クライエントの自殺に加担してしまうかもしれない」という恐れを生じさせている。

或いは、もしそれを本当に突き詰めた上での自分の信念と考えるならば、WBさんが言うような「職業上の責任と個人の倫理のどちらを優先させるか」という選択を余儀なくされるのだろう。

そこが自分にとって曖昧だからこそ迷いが出ていることに気づかされる。


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