2010年11月12日金曜日

聖書入門(新約聖書)-6「聖書の女性1」


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『聖書の中の女性1-マグダラのマリア・マルタとマリア』目次
●聖書における当時の社会―男性中心・家父長制度(第1コリント112節・1434節)
●教会で働きを与えられた女性たち(プリスカ・フェべ・預言をする四人の未婚の姉妹
●教会は早い時期から女性の働きを重んじてきた。男性中心・家父長制の社会情勢であったにも関わらず
●イエスは性別・差別・常識・価値観・制約を越えて出会って下さる―イエスとサマリアの女(ヨハネ47節)

●マグダラのマリア―女性の弟子集団・七つの悪霊を追い出していただいた人(ルカ81節)
●マグダラのマリア―十字架の証人(マルコ1533節)
マグダラのマリアのポイント3点①イエスに悪霊を追い出してもらった。②十字架の証人③復活の証人
●マグダラのマリア―復活の証人(マルコ16章・ヨハネ20章・ルカ24章)
●福音書ではペトロを立てて、婦人たちを貶める。しかしマグダラのマリアは重要な人物として記憶される
●マグダラのマリア伝説―罪深い女(ルカ7章)・ナルドの香油(マルコ14/ヨハネ12章)→悔悛した娼婦
●マグダラのマリア余話(マドレーヌ・キャッツのグリザベラ)

●マルタとマリア―奉仕と御言葉・御言葉を聞く女性(ルカ1038節)
●信仰は聞くことに始まる。自分に対して語られる言葉がある。

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先週は愛祭でお休みでしたね。本日は第6回。では出席を取りましょう。

さて、前回まで2回使ってイエスの弟子たちについて、ペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネと。
今日は第6回目ですが

●聖書における当時の社会―男性中心・家父長精度(第1コリント112節・1434節)

『聖書の中の女性』ということを取上げてみてみたいと思います。
聖書ばかりじゃないんですが、女性と言うのは大体大事です。大事な働き。
例えば、キリスト教と一般的に、僕は生まれも育ちもルーテルですが、
一般に教会とイメージした場合、女性の、マリア様の姿と言うのが印象深くありませんか?
このマリア様とは一体誰か、イエスの母ですが、
信仰の模範として大事にされながら更に、カトリックではある意味では信仰の対象のようにさえなっている。
本来信仰の対象とは大げさだが、まぁ実践的にそういう側面も無いわけじゃない。
イエスの当時のことを思うと既に話したように、男性中心の世の中なんですね。
それはイエスに限らず日本でも世界中でもそうですが。
男性中心」と。そして、「家父長制度」これが社会のあり方を規定していた。イエスの時代ですよ。

だから例えば、5000人の給食、5つのパンと2匹の魚。
あの5000人も男性だけを勘定した数なんです。(4福音書ともそう)
女、子どもは数に入れない。そんな乱暴なと思われるかもしれませんが。
それだけに実は女性には色んな制限があった時代です。
制限ばかりか差別もあったといえる。
そうした時代であったということをまず私たちは考えておかないと。
聖書というのは神の言葉として私たちは大事にしています、歴史的な書物でもあります。
当時のそうした社会のあり方を反映してしまっていると。
5000人の勘定もその1つですが。
もっと具体的に女性の制約を私たちは考えさせられる箇所がある。

1コリント112
・礼拝でのかぶり物
○あなたがたが、なにかにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるという事です。男は誰でも祈ったり、預言したりする際に、あたまに物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたと同じだからです。女が頭にものをかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって神の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に者をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出てきたのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使達のために、頭に力のしるしをかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はく、女なしに男はありません。それは女が男からでたように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。

これ、まだつづきますが、明らかに男性中心的だと。女の上に男が居ると。
社会構造をそのまま引き写すように書かれている。
これに類するところはいくつもあります。
例えば

1コリント1434
・集会の秩序
○婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法もいっているように、婦人達は従うものでありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会のなかで発言するのは、恥ずべきことです。

大体教会で婦人が黙ったら、実際は、恐らく何も動かないと、僕は思いますが。
なんと静かな教会に、生きた教会にならないと僕は思いますが。
しかし、ちょっとうるさすぎたのかもしれない…(余計なことを言いましたね)

こういう言葉が残っているという事は、当時の社会の構造、
男性中心、家父長制という社会のあり方を反映している。
パウロによってもこのような言葉が。

●教会で働きを与えられた女性たち(プリスカ・フェべ・預言をする四人の未婚の姉妹

しかし実際には、女性が黙っているという事は、ない、ですね。
そうでなければならなかったという事ばかりでもなかった。
実際にこの同じコリントの先
16章手紙の終わりの挨拶です。

1コリント1619
○アジア州の諸教会があなた方によろしくといっています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくと言っています。

プリスカ―これは女性の名です。この女性の名をわざわざ記している。
プリスカという女性が非常に教会で大事な働きをしたことがコリントの人にも知られているという事です。

ローマ信徒への手紙161
・個人的な挨拶
○ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェべを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれているものらしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。―

フェベー教会の奉仕者として大事な働きをした

プリスカもフェべも、黙っているということは無かったでしょうね。
「黙っている」の意味も大事です。これは奉仕をするなかで指示したり用件を伝えることはあったでしょうが、「ものをいう」ことの意味は御言葉を伝えると。特別なそうした役職に女性はつかなかったのだと。「だまっているべき」はそういう意味。じゃあ女性は御言葉を一切告げなかったか?

使徒言行録219節 カイサリアのことについて書いている。
○この人には預言をする四人の未婚の娘が居た。

つまり女性であっても預言をした人として語られる人が居た。
男性中心のイスラエルの社会、時代背景が色濃く影響して聖書の女性に対するある意味での差別的な書き方、制約。そうであっても女性が大変重要な働きをしたことが記されていますし、しかもこの重要な働きの中には預言者と呼ばれる人達も居た。

教会のなかで当時はまだいろんな教会の働き人ありました。預言者、説教者、宣教者、教師、使徒、弟子
色んな人が居ます。その中に女性が全く入らなかったという事ではない、と。
奉仕にはたくさんの種類、その中でも御言葉を取り次ぐ預言者も女性にはいた、と。

●教会は早い時期から女性の働きを重んじてきた。男性中心・家父長制の社会情勢であったにも関わらず

社会の強い規制にもかかわらず、教会は早い時期から女性の働きを重んじてきたということです。
これはなかなかだいじなことです。

つまり、そうした社会の枠組み、規制、制約をある意味では超えていく。これはイエスにおいてもそうですが。
イエスご自身が超えて女性を重んじる、ということが。それを引き継ぐ形で教会でも。
制約は強かったが、それを超えて女性の働きを重んじていた、ということ。

●イエスは差別・常識・価値観・制約を越えて出会ってくださる―イエスとサマリアの女(ヨハネ47節)

たとえば
ヨハネ4章には当時の常識では考えられないことが起こっています。
サマリアの女と会って会話をかわすということが起こっていることがわかります。
まず第一にですね。当時は男性が外出先に女性に話すことは原則的には無かった。
外出先のどこでも、男性が勝手に女性に話しかけてはいけないんです。
しかも最初にも申し上げましたが、サマリアということですよね。
サマリアとユダヤは非常に地理的に近いし歴史的にも近い。
しかしサマリアは早くから律法を越えて戒めをこえて、ユダヤ人たちがもともとのそこにいた人との混血がおこっていったということにおいて、ユダヤはサマリアを蔑視していました。サマリア人とユダヤ人は仲がよくない。そんな中で、イエスがサマリア人に語ることも起こりえないこと。しかも女性。こういうところで語りかけるという事はまずありえない。そういう差別がある社会。にもかかわらずイエスはそうした制約を越えて語りかけられている。

ヨハネ47
・イエスとサマリアの女
○サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいとたのむのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたのほうからその人に頼み、その人はあなたに生きた水をあたえたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」女は言った。「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」
 イエスが「言って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」―

こういう出会いがおこることがイエスの宣教の様を表している。
今で言うところの差別的なもの、この見方は今の私たちの常識、価値観ですが、
僕もこれは差別的と思いますが、そうではないという見方も まぁAnywa
そうした制約を越えて、イエスと女性の出会いが怒っている。大きな意味を持つ。
イエスはこうした社会に生きているがその中にいてもその差別、価値観、制約を破って人と出会ってくださるお方だと言うことが大事なことだと思います。そうした様子は色んなところに見ることが出来ます。

例えば
マルガとマリア。長血をわずらう女性など
女性であってイエスと出会うということの幾つかの場面がある。重要な人物が居る。
そうしたことを辿ってみていきましょう。
さて、今日はそうしたことで幾つかの女性をとりあげますが、まず、
「マグダラのマリア」を。

●マグダラのマリア―女性の弟子集団(ルカ81節)

彼女は非常に伝説の多い人でもあって、教会のなかで彼女に対する、ある種の思いというか、が実は中世の歴史では表されてきた。そうした本も今でも。
ま、そのことを少しみましょう。

ルカ81
・婦人たち、奉仕する
○すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊をを追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザのヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

弟子の群れの一角に女性の奉仕者がいつもイエスと共に旅をしていたことが伺える。
女性の弟子集団のようなものがあったことを知ることが出来る。
そのなかにマグダラのマリアも。
「七つの悪霊を追い出していただいた人」と。
悪霊を追い出すという事はイエスの宣教にたびたび見られることですが、
具体的な様子については明らかにされていません。マリアがいやされた、という様は聖書には無い。

●マグダラのマリア―十字架の証人(マルコ1533節)

彼女はですね、この、癒された場面は無いが、この人物については非常に重要な箇所に登場していることが分かる。それはある意味ではペトロやヨハネ、ヤコブ、十二使徒たちに匹敵するくらい、或いはそれ以上に重要な場面に彼女はいたと聖書は伝えています。
どういう場面か、

マルコ15章 ここはイエスが十字架にかけられる場面です。その場面で弟子たちを少し見ましたが、ペトロだってイエスを三度知らないといって逃げ出したという事が書かれていましたね。でもその十字架のところ、です。

マルコ1533節以下
・イエスの死
○昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。あるものが走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませてある葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」といいながら、イエスに飲ませようとした。しかしイエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスのほうを向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのをみて、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従ってきて世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上ってきた婦人たちが大勢いた。

つまりマグダラのマリアは十字架の証人、なんです。
マタイにも同じように彼女の名が記されています。箇所だけ言うと マタイ275556節。
同じくヨハネにおいても、十字架の下での目撃者として彼女の名が記されています。ヨハネ1925
じゃあどうしてルカにはないのか。ここにはガリラヤからきた女達と記しているだけでその名はありません。
実はルカは非常に巧みに女たちを少し、なんというか、社会の考え方に合わせる様に薄めているんです
それはちょっと後でもう一回申し上げましょう。

マグダラのマリアのポイント3
①イエスに悪霊を追い出してもらった。
②十字架の証人である。
③復活の証人でもある。

●マグダラのマリア―復活の証人(マルコ16章・ヨハネ20章・ルカ24章)

マルコ161節から 復活の朝の出来事です
・復活する
○安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女達は、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

当時の墓は、色々ありますが、山や丘の斜面に穴を掘って、そこに遺体を安置するようなものをおいて、大きな石を持って蓋をするという状況です。

○ところが、目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。若者は言った。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、いって、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねていわれたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 婦人たちは墓を出て逃げさった。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

最初にマリアたちは墓にやってきてイエスの復活について知らされています。最初の人なんです。

マタイ281
○さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう独りのマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から

ここでもわかりますね。ヨハネも見ましょう
ヨハネ201節から
・復活する
○週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取り除けてあるのを見た。
ではルカは?
ルカ24
・復活する
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ
1節から
そして週の初めの日の明け方早く、

ここでも「婦人たち」として名前は書いていませんその前の2355節にもその「婦人たち」は出てくる。
もうちょっと読んでいくと8
ルカ248
○そこで、婦人たちはイエスの言葉を思いだした。

この「イエスの言葉」とはかねてからの受難の予告のこと。
二人の天使が女達に伝えるわけですね。「罪びとの手に渡されて殺されるが復活される」
これを思い出した。そして一部始終を伝える。ここには名前が記されている。
ルカ24910節-
○そして、墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの夫人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

●ペトロを立てて、婦人たちを貶める。しかしマグダラのマリアは重要な人物として記憶される

重要なことは
使徒たちにこれを話したが、使徒はこれをたわごととして信じなかったと。それでペトロが立ち上がって走っていって確かめた。驚きながら家に帰ったと。
婦人たちの言ったことは信じられなかったが、ペトロが言うんだから間違いないんだと。
これはですね、ちょっとね、ルカさんがどうも、当時の社会の考え方に合わせて、実際にマグダラのマリアが復活の承認であることをすこし和らげている或いは貶めている。ペトロを立てている様子が伺えます。

ヨハネには彼女が言ったと記されている。すぐにシモン・ペトロのところにイエスの愛した弟子のところに伝えると。ここでもやっぱりペトロを重んじていくという叙述になっている。このペトロともう独りの弟子(ヨハネ)このもう独りの弟子は先に墓につくがペトロを中を先に見て、復活を確認すると。ペトロを立てようとしている様子をここにもうかがうことが出来ます。
こうしたことは当時の社会の中での、男性中心の事柄と、教会の中でのペトロを立てたいという心遣いが伺える。ヨハネではペトロをたてているようですが、その後で、
イエスがマグダラのマリアの前に直接表れていることが明らかになります。
マグダラのマリアは非常に重要な人物として記憶され伝えられていったと。
社会状況による抑制にもかかわらずだいじな人物として記憶されていった。
彼女は大事な役割を担ったと。
このマグダラのマリアがでは具体的にどういう人物かは聖書はあまり明らかにしていません。
しかし伝説はたくさんあると。どういう風にその伝説が作られる?

●マグダラのマリアの伝説―罪深い女(ルカ7章)・ナルドの香油(マルコ14/ヨハネ12章)→悔悛した娼婦

ルカ736節以下
 イエスがあるまちでパリサイ派の人と食事している。そこに罪深い女がやってきてイエスの足元に近づいて涙でぬらし髪の毛でぬぐう、足に接吻し香油を塗る。
これマグダラのマリアとは書いていないんですよ
罪深い女」なんです。しかしこの女が続く「8章・婦人たち、奉仕する」の項のマグダラのマリアと重ねて覚えられていくことになるんです。罪深い女とはつまり娼婦ではないかと思われます。
この女性、別の女性かもしれない、同じかもしれない。しかし後の時代には同じ女性として覚えられていった。

ルカ741
・罪深い女を赦す
○イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女のほうを振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入ってきてから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することもすくない。」

マルコ福音書143節 ここは場面が違います
・ベタニアで香油を注がれる
○イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家に居て、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石工のつぼを持ってきて、それを怖し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
8
○この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

これは全く違う出来事ですがるかルカ736節以下の女性と重ねて覚えられていくことになります。
これはマタイ26章にも同じ出来事が出てきます
実はこの同じ記事をヨハネでは12章に記していますが

ヨハネ121節から
・ベタニアで香油を注がれる
過越祭の六日前にイエスはベタニアに行かれた。そこにはイエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給餌をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

ここで「ナルドの香油」の物語をマルタの名で記しています。頭ではなく足に塗ったと記している。
ややこしいねぇ。
これがもう厄介なことです。中世ではどうだったか。聖書は基本的に人々は持っていないんです。教会にだけある。一般の人は見ていないんです。教会にステンドグラスが掲げられているとそういう物語を象徴する場面が描かれている。それを見ながら聖書の話を聞いている。
文章は見ていない、覚えているだけ。幾つか似たような話がかさなっているでしょう?
これがマグダラのマリアがどういう人か、聖書にはそう書いていないにもかかわらず一緒になっちゃったと。
マグダラのマリアが罪深い女で香油を持ってきてイエスにふりかけたと―連想のうちに重ねられて覚えられた。

また、7つの悪霊が7つの滞在に重ねられもした
傲慢、強欲、淫乱、暴食、激怒、嫉妬、怠惰
Seven deadly sins-pride, covetousness, lust, anger, gluttony, envy, sloth
結局のところ「悔悛した娼婦」として覚えられていく。
それで彼女は中世のなかでの、その後もそうですが、絵画にたくさん描かれます。そうしたイメージをもって。
非常に豊満である種の女性らしさを湛えた、しかしそういう自分に対する深い悔いをあらわしている女性として

だいじなことは、
この人物が色んなことが重ねられてはいるが、とにかくこの女性がイエスの生涯に深いかかわりを持ち、しかも
他の男の弟子が居るにもかかわらず、それにも増して大事な働きをした、という事です
既存の常識、制約を超えてイエスは彼女に出会い、彼女は苦しみを持っていたでしょうが、
イエスとであって重要な働きを担う者とされた。
そこに重ねて伝説は語られていくが、娼婦であったものが悔悛したという事は、多くの差別されていたもの、報われない境遇にあるものが自分の身上を重ねる相手として見られていく。
底辺に居る人にとっては大事な、望みを託す、それにあやかって救いに結ばれていく、ということを望みみていく人物として描かれたということ

●マグダラのマリア余話(マドレーヌ・キャッツのグリザベラ)

彼女は芸術に残されるのみならず、伝説としても多く残されたのでどこかで聞くかもしれません。
また名前としては、マドレーヌってお菓子がありますね。これはマグダレーナとよばれた彼女から来ています。
それから僕はおそらくこのマグダラのマリアがモデルになっていると思っていますが
キャッツというミュージカル、ここに出てくるグリザベラ、年老いた娼婦猫は彼女がモデルでしょう。
娼婦猫が登場すると嫌がって皆逃げてしまいます、誰も取り合わない、罪深い、忌み嫌われている女性なんですね。昔は娼婦で鳴らしていたかもしれないが。
でも最期に、選らばれて天上に上っていくという1つの逆転劇ですね。
キャッツはイギリスの詩人の原作(T.Sエリオットの詩集が原作1939年、ロイド=ウェバー作曲)ですよね、
キリスト教の信仰が背景に強くある作品と僕は思いますね。
だいたい、あの、オールドデュトロノミーというのが出てきますでしょう、デュトロノミーとは申命記のことですが。祭祀役として登場します、皆に慕われている。年に一度ジェリクルキャッツが選ばれる、彼はグリザベラを選ぶんですね。人から誰も省みられないものがイエスによって救われるという、マグダラのマリアの経験を映し出すようにグリザベラが描かれている。
キャッツの解説にはそこまでかいてあったかどうか、恐らく間違いないと思います。

さて、ちょっとグタグタと、ごちゃごちゃしましたが、
マグダラのマリア、当時の社会状況において重要な働きをした女性の代表です。
イエスの働きをも著している。
さて、そのイエスの出会い。
マグダラのマリアとも重ねられたマルタとマリアの二人。

●マルタとマリア―奉仕と御言葉・御言葉を聞く女性(ルカ1038節)

ルカ1038
○一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹が居た。マリアが主の足もとに座って、その話にに聞き入っていた。マルタは色々のもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか、手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取上げてはならない」

場面は家に迎えている場面
マルタは忙しく働いている。マリアはずっと話を聞いている。
どうして私ばっかり、イエスに「何とか言ってください」と。
多くのことに心を乱しているが、大事なことはひとつ、と。
御言葉を聞く、ということの大切さをある意味で教えているという事。ですが、

大事なことは幾つかあります
1つは、これは立ち働くことより御言葉を聞くことがだいじというと余りよくありません。
つまり「奉仕をする」と、「御言葉を聞く」ということを比べてね、一番二番をつけると思われがちですが、
「良い方を選んだ」と。ね?
この話はその直前に良きサマリア人のたとえがあって
永遠の命に入るにはどうしたらよいか、と。
ここでは奉仕の業が大事だといっていた。サマリアの女性―聖書を知らないと思われる女性を例に取り

その後に続けて言っている。
つまり「神の御心を生きるという事が大事」と言っている。
そのことをまず抑えておかねばなりません。

その上で、この話でマリアは良い方を選ぶ。
しかし「御言葉を聞く」ということそのものが、公の場所で言えば特に男性に許された行為だった。
律法学者や先生と呼ばれる人たち教えを聞く、というのは男性に許されていた事柄。
そして女性は他の仕える仕事をしなさいよ、という当時の常識があったんです。
だからマルタが忙しく立ち働いているのはあるいみでは 常識からすれば当然だと。
イエスはこの二つを取上げてマリアは良い方を選んだといっているように見えるが、
マリアが御言葉を聞くというのは本来ありえないこと。
しかしイエスは、そうではないよと、女性もまたきくものだということをこの話の中で示されたといってもよい
マルタとマリアの話はですね、マリアが御言葉、マルタが奉仕、
もちろん奉仕よりも御言葉という面もあるのですが、
「マリアも」という意味は「女性も話を聞いている」と。
ここでも当時の常識、価値基準を超えてイエス様はわたし達に出会ってくださる、ということをあらわしている
イエスは女性だから、男性だからこうしなくては、という枠組みを超えて一人の人として
男性にも勿論また女性にも出会ってくださるという事をマルタとマリアの話は表している。

●信仰は聞くことに始まる。自分に対して語られる言葉がある。

勿論信仰というのは、
「信仰は聞くことによる」
ローマ信徒1017節にもありますが
つまり「語りかえられる」こと。
○実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

私たちが何をするにせよ、自分に対してどういう言葉が語られているかを聞くことだ、ということを
こういう風に生きることがキリスト者の生き方と思いますが、
自分に対して語られる言葉がある、という事ですね。

私たちはただだまって座って聞いていればよいということをマリアにみるわけではなく、
イエスが「この私自身」に対して何を語ってくださっているか、を聞くことなんだよ、と。
そういう大事なメッセージを持った出来事、そのメッセージに女性が用いられたという事はすごく大事なことじゃないだろうかと。男性だけが聖書の言葉を聞くと考えられていた当時の社会の中でイエスは女性に対して―

何か質問ありますか?

聖書の女性たちは何人かいますが、
伝えておきますので来週までに読んでおいていただけると

マタイ1521節―28節 カナンの女
・カナンの女の信仰

マルコ521-43節 長血をわずらう女性
・ヤイロの娘とイエスの服に触れる女

それと、時間にもよりますがイエスの母マリアを取上げたいと思います。
ルカの最初のところ
1章からエリザベートとのやり取り、マリアの賛歌が
12章の前半を読んでおいていただけると。

では今日はこのあたりで。

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