2011年7月26日火曜日

認知心理学-レポート「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の解釈

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺を情報処理心理学的に解釈・説明する

 認知心理学の視覚研究の特徴として、外界から眼球を通して得られた情報を脳において処理・統合する一連の仕組みを「情報処理」として扱い、コンピューターのアナロジーにおいて明らかにしてきた点があげられる。このような観点を情報処理心理学的な観点から課題の諺を解釈・説明していきたい。

説明に先立ってこの諺の意味と、情報処理心理学との関係を明らかにする。
文意は「幽霊(という気味が悪いもの)の正体を見た。それは枯れ尾花(という取るに足らないもの)だった」であり、諺としての本旨は、よく確かめないで迷信や思い込みに基づいた早合点をすると事の本質を見誤るよ、という戒めにある。したがってこの諺で言われるような状況が成立するにあたっては、

①幽霊的なものを認識する
②幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する

という2段階の認識が想定されていると言える。
つまり人間がある認識を持つに至る過程を理解することで、この諺を情報処理心理学的に理解することができる。

人間があるパターン(ここでは幽霊的なものや枯れ尾花的なもの)を認識する過程は、脳内に構成されたパターンの内部表現と、入力情報とのマッチングをとる過程として捉えることができる。このパターン認識が進行する過程の説明には2通りの考え方がある。ひとつは入力された情報の特徴を分析・抽出し、それと認識候補との一致度を評価して最終認識結果を得るボトムアップ型の処理である。もうひとつは、これとは逆方向のトップダウン型の処理であり、脳内の構造化された知識や、認識対象に関するモデル(スキーマ)に基づいて認識が進められる。この2つの処理は相補的に働くとされ、ナイサーによると両者は「知覚循環」とよばれる過程の中で交互にあらわれる。

 では、実際にこの処理がどのように行なわれるか、科学的見地から妖怪を研究した哲学者、井上円了の文章を元に考えていきたい。井上は「迷信解」と題した一文において、課題の諺を用いながら妖怪(幽霊を含む)を見るという現象を以下のように説明している。

このような怪談(筆者注:天狗の目撃談)が世間に伝わるや、ひとたびこれを耳にしたるものは、山中に入るごとに、己の心よりあらかじめ天狗に遇うであろうと待ち設けておるようになるから、一層迷いやすく、かつ妄想を起こしやすい。諺に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とあるごとく、つまらぬものを見てただちに天狗なりと思うものである。」(「妖怪学全集」1904)


ここでは人間がトップダウン型の処理を行なって「①幽霊的なものを認識する」過程が描かれている。つまり、天狗という概念がスキーマとして働くと、「つまらぬもの」例えば風に揺れる木の葉、狐や狸が動く影、駆けてゆく修験者の姿などは、そのスキーマに基づいて天狗の特徴として脳内で処理され、その結果「ただちに」天狗というパターンが認識されるのである。

続いて「②幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する」過程についてはどうだろうか。これは課題の諺が当事者の念頭にあるか否かで、異なった処理が行なわれているものと考えられる

課題の諺が当事者の念頭にある場合、人間が枯れ尾花的なものを見て幽霊的なものだと認識しやすいという「認知についての認知」つまりメタ認知的な視点を持っていることを意味する。この場合、天狗を見たと認識した瞬間にこのメタ認知が発動し、ただちに枯れ尾花なりという結論が導かれることになる。これは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」スキーマが、枯れ尾花というパターン認識を導くという点でトップダウン型処理と考えられる。井上の文章に即して考えると、天狗の目撃談が『天狗パターン認識』の要因であるのと同様に、この諺が『つまらぬものパターン認識』の要因となっているのである。

では、この諺が念頭に無い場合はどうだろうか。「ノイズが多く含まれたダルメシアン犬の図」を、一旦「犬である」と認識した後にはそれ以前の状態に戻れない、という例をふまえると、天狗というパターン認識が行なわれた状況から何らかの変化が起こらなければ、新たなパターン認識にいたることはないと考えられる。したがって、空間的な変化や時間的な変化による当初のトップダウン処理の文脈からの離脱が、枯れ尾花的なパターン認識に至る前提である。

この場合の情報処理はどのようなものか。これはボトムアップ処理の一例である特徴分析モデルに則って考えることが出来る。特徴分析モデルとは、パターンを下位要素(特徴)に分け、その特徴の有無・類似度によってパターンが決定されるとする考え方である。天狗であれば、木の葉の団扇、高下駄、長い鼻、などの特徴という脳内情報と、実際の山中の光景とがマッチングされながら、当初天狗であるとされた対象が何なのか決定されることになる。また、この処理が行われている際に、天狗なのか単なるつまらないものなのか、迷いが生じるとすると、それは知覚循環の過程であると考えることが出来る。しかし、当初の文脈から離れた対象について「枯れ尾花」と認識されたとして、それが諺で言うところの「幽霊の正体」とまで言えるかどうかには疑問の余地が残る

以上が、人間のパターン認識の処理過程を中心にみた、諺「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の解釈・説明である。





2011年7月22日金曜日

質的研究法/分析ワークシート

 
【概念】
「過去と連続する自己」の発見体験


【定義】
以前の生活と連続している自分を発見することによる安心体験。


【具体例】
Tさん-1)私は働くことが好き、ずっと働いてきたんです。だから、そういうふうに暮らせば良いんだってピンと来たんです。
Tさん-2)この間出たひじきの煮物には驚いた、味付けが私のと一緒、中身もニンジンや揚げなんか中身も一緒、全部一緒だったんですよ。
Tさん-3)色々な仕事、老人クラブの役員、毎月の葬式、奉仕。第2の人生が始まったような気がした。
Wさん-6)今までは団地に居て、周りの人と笑って話をしていたのに、ぼっとした顔ばかり見ているから、自分がぼっとしたような感じがするんですよ。
Wさん-7)(陶芸を)考えて作っていると、自分が普通の人間になってやれるでしょう。
Wさん-9)陶芸をやったり、お習字をやったりして、自分の心をしっかりと戻さないといけないと思っています。
Mさん-3)呆けた人と一緒にいるとまずい、自分も引きこまれては大変だ、自分を取り戻さないといけないと思った。
Sさん-3)ここの庭におだまきがあって、それは岩手の花だから、懐かしいね。
Hさん-4)法話を聞いたら、宗旨が同じなので嬉しかった。なにか不思議な感じがする。

【理論メモ】
・異なる環境の中で、これまでと同じことをする/これまでと同じような感覚を得ることは難しい。何をすればそう感じられるか分かるだけでも希望が生まれる。
・周囲の環境に、これまでの生活と同じもの(おだまき・宗派)を見つけることは入居者に安らぎをもたらす。
・周囲に病気(認知症)を持った人が多いことや、葬式が多いことは、これまでの生活と大きく異なる点であり、不安感の原因となりうる。
・特養自体にネガティブな意味での「普通ではない場所」という認識があり、そこに入所している自分自身もまた「普通ではない人」なのではないか、という不安感が生じる。それ故にできるだけ自分の健康や心理状態を「元に戻そう」という意識が生まれる。
・これまでの生活の中で好意的な感情を持っていたことを特養でも出来ることは励みになる。
・(Tさん-3)における「第2の人生」は、異なった環境においても、これまでのように「働く」ことが出来ている、という自尊心から出た言葉ではないか。
Tさんの働いている中身や、Wさんの陶芸は、これまでの生活で行われていたことと全く同じではない。しかしそのことで以前の生活との連続性を感じられているのではないか。以前と同じように働ける自分、以前と同じように普通である自分、の発見。そのことが安心感につながっている。
・(Wさん-9)の「自分の心をしっかりと戻さないと」、(Mさん-3)の「自分を取り戻さないと」という言葉には、環境に左右されず自己の連続性(=自己同一性と言えるか?)を保持したいという希望と、一歩間違うとそれが危うくなりそうだという危機感があらわれている。

 
【概念】
「終の棲家」認識


【定義】
自分が安心して死を迎えられる場所であることを受け止める体験


【具体例】
Wさん-6)ここで死んでいくんだからね。一生懸命に慣れてね、ここに居ようと思いましたね。
Wさん-13)一生終わるまでそうしていかないと。中にはいろいろいう人がいますからね。そうやっていきます
Wさんー11)私は先行き安心になりました。今までは、ここで一生、死んでいくのかなあとなんとなく思ったですが、そういうことは考えなくなりました。
Mさん-3)ここに来て驚いたのは、死ぬ人が多いこと。寺に毎月、黒服を着ていったもの、今月は3回目だとか、また死んだよとか。
Tさん-1)入ってみたら、建物の大きさ、140人いりで、広いのに驚いた。ここが安住の地だと思って嬉しかった。そのときすぐに思った。安住の地。ここだとピンときた。


【理論メモ】
・以前の生活と比べて、特養では自分の周囲の人が亡くなる体験が増える。
・入居者自身がこのホームで死を迎えることになるかもしれない、という見通しを持っている。
・(Tさん-1)の「安住の地」は、終の棲家、人生の最後をここで過ごせそうでよかった、という安心感をあらわしているのではないか。
・(Wさんー11)ホームでの生活に適応できるようになったことが、死の不安感を和らげているのではないか。そのことで自分はここで死んでいくということを考えすぎずに済む。
・死は誰にとっても避けがたいものであるが、高齢者にとってはより身に迫った問題である。特養という環境においては自分の知り合いが死を迎える体験も増える。しかしホームの生活に馴染むことで、過度な不安に陥ることは避けられる。逆に考えると、生活上の不適応は、死への不安感を必要以上に引き寄せてしまうことにつながりかねない。




 
【概念】
子供と暮らせなくたって幸せ体験


【定義】
子供と離れて暮らすことをポジティブに受け入れる体験


【具体例】
・(Sさん-5)(床に溢れさせてしまった汚物を)全然怒らないで、さっと拭いてきれいにしてくれた。すごい臭いがするのよ。それなのに嫌な顔をしないでしてくれて、(中略)娘にだって、とても出来ないことなのよ。
・(Hさん-1)病院を転々として…。子供に言ってやる、親を捨てたと。
・(Hさん-4)ここの創立者は貧しい人や少年を助けたひとらしい、そういう起源なら安心だ。
・(Wさん-8)息子が「お母さんの作ったカップで飲むとビールが美味しい」と言ってくれます。あと6個作ってやろうと思います。
・(Wさん-10)諦めも肝心だし、現実を見てね。子供は子供、親は親で別になっていくんですから、つまんない事を思っていちゃいけないと思います。


【理論メモ】
・家族と離れてホームで暮らすことをさみしいく感じる人がいる。ともすると、そのことを恨みがましく考えてしまうこともある。
・(Sさん-5)「娘にも出来ないこと」をやってくれるスタッフのいるホームにいることを幸せなことと捉えているのではないか。つまり、ある部分では家族以上のことをしてくれる人と一緒に生活できることの幸せ。
・(Wさん-10)の「つまんない事」とは、子供と同居をして介護される事を指しているのだろうか。
・(Hさん-4)の安心感は、創立者を「家族以外の人に対しても親身になって世話をする人」と捉えた上での安心感と考えられないだろうか。そのようなホームで暮らせることは「親を捨てた」子供と暮らすことよりも良い事という納得につながるのかもしれない。
・(Wさん-8)離れて暮らしている家族との交流が生活の張りになっている。
・介護保険制度導入の際の議論を考えてみても、家族で老親の面倒を見るという考え方を美徳とする人も一定人数いる。そのような考え方の人にとって、特養に入ることは自尊心を傷つける体験となってしまう可能性がある。しかし、子供と離れている環境の中だからこそ受けられるサービスがあると認識することは、現在の生活に対する満足度を高めることにつながる。また、状況によっては離れた家族と交流することも新たな生活への適応につながる。