2011年11月11日金曜日

【復習】英専-9でする質問を考える①

前回のクラスの後に、学生同士で話したり考えたりしてもわからなかったことがあるので質問したい。
治療空間で起こる自殺や死にたいという言動をどう捉えるべきなのか、について。

この質問が起きている時の自分の心情としてあるのは
自分自身の生死の決定権を剥奪されたくないという意志
それは自分にとっては「生きる事を強要してくれるな」という反発かもしれない。
これは自分の問題だが、
このような姿勢が、クライエントの自殺に加担してしまうかもしれないという不安をもたらしている。

今回の質問の主旨は2
・「自殺行為」「死にたい」を願望としてキャッチすることはあり得ないのか?
 それが願望の場合、治療空間においてどのように介入するべきか?
・「死にたい」を常に「助けの求め」とキャッチするなら、クライエントの話を聞くって一体何?


■前回のクラスで気になった先生の言■■■■■

「うつの患者とは助けを求められなかった人たち
それでこれまで一人で頑張って生きてきたのに、今更求めるなんてと。
「求めたってどうせ失うでしょう?」=うつの力動
だから自殺や自己破壊を簡単には「助けの求め」であると認めない。
しかし、だからと言ってこっちがキャッチしない訳ではない。
出てきたら助けの求めとして受け取る。それを積み重ねて、彼らの学習経験にする。」

セラピーは新しい体験をしなきゃいけないし。
本人の「欲求が通っているところ」をキャッチするのが治療なので

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これを聞くと、
「自殺したい」を正面から「願望として受け止める」ことはあり得ないと感じられる。
もちろん生きるための治療、ということが前提であることは理解しているが
とはいえ、「生きたい」と同時に「死にたい」も並存している可能性はあると考える。
だとすれば「死にたい」と言うことは必ずしも治療の陰性反応とはならないと思う。

「表のあらわれ」も「その奥にあるもの」も「死にたい」だった場合、
どのように介入すべきか。これが一つ目の質問

もう一つの質問としては、クライエントの話を聞くとは何かということ。
前回、前々回と自殺の話が出てきているが、
自分にとっては
クライエントの自殺を止めるという、生きるための治療、という前提と
クライエントの話を受けとめるということの関連の理解がまだ曖昧。

先生の言われるような、クライエントの自殺行為を「助けの求め」と解釈して、
相手が認めなくともそうキャッチし続ける、ということが常に起こるなら、
ある場合には、自分の話を聞いてもらえないという無力感・徒労感になり得ないだろうか。
更に、そのことが「そんなに分かってくれないなら本当に死んでやるよ」と行動化する可能性はないか。

その上で自分が考えてみたのは、
もしかすると、精神分析的な治療からは離れたことになるのかもしれないが、
例えば「死にたい」という言わば「表のあらわれ」に共感的に寄り添うことで
クライエント自身が死や否定的感情についての洞察を深める、ということにはならないだろうか。
その場合「自殺は絶対許されない」と予めクライエントに伝えることは逆効果になるのではないか。

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