2010年10月29日金曜日

聖書入門(新約聖書)-5「弟子たち」


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『イエスの弟子たち~ペトロ・アンデレ・ヨハネ・ヤコブ』目次
●(復習)参考図書紹介「遠藤周作で読むイエスと12人の弟子
*ペトロ
●(復習)ペトロを一変せしめる神の力
●ペトロの励ましの手紙(ペトロの手紙1 16節)
●ペトロの最期「十字架に架かりにローマへ
●ペトロの兄弟、アンデレ ●(ルーテル話)全学修養会
*アンデレ
●ヨハネ福音書におけるアンデレⅠ「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ63節)
●ヨハネ福音書におけるアンデレⅡ「ギリシア人、イエスに会いにくる」(ヨハネ1220)
●アンデレ―個人伝道の聖人・異邦人伝道のはじまり・海外伝道・教会教育
●アンデレの最期―アンデレクロス
*ヤコブとヨハネ
●ヤコブとヨハネ―野心家、支える決意「右と左に座らせてください」(マルコ1035節)
●ヤコブとヨハネ―激情家「火を降らせて焼き滅ぼしましょうか」(ルカ951節)
●ヨハネ「イエスに愛された者」(ヨハネ1323節・1925節・202節・2120節)
●福音書や手紙を残した使徒、ヨハネ。
●神の愛を伝える使徒ヨハネ(ヨハネの手紙1-48-ヨハネ316
●弟子に起こされた奇跡―弟子の欠点を覆って余りある人生の歩みに変えられるイエス
●ヤコブの最期―最初の殉教使徒

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●(復習)参考図書紹介「遠藤周作で読むイエスと12人の弟子」

前回はペトロのことをお話しました。
ペトロの話を聞くと、特別な人物ではなくて身近な感じがすると。

(参考図書)
この「遠藤周作で読むイエスと12人の弟子」(新潮社)(図版が豊富に載っている)
「絵伝 イエスキリスト」(小学館)
これはサンピエトロ寺院のペトロさんですが、ちょっとかっこいいんですよ
また、これは三回裏切るだろうと、鶏の声で気づいたところなんですが、
また、湖の上をあるくシーン、歩き出して溺れちゃうという(笑)
図書館にあるものですから、是非。

●(復習)ペトロを一変せしめる神の力

で、ペトロは弟子の中で一番、そして柱、
おっちょこちょいなところもあるが、いかにも等身大の。
しかしその彼がイエスに用いられていくという。
特に十字架後のペトロが一変してイエスのことを立派に説教していく。大説教家になっている。
これは多分にペトロの力というよりも、そのように正しめた聖霊の力と。
弟子の力、やっぱり神様の力と。そうした神の力が特別に働いて用いられていくと。

ペトロは、ルカ福音書22
(裏切る前のシーンですが)
31
・ペトロの離反を予告する
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないというだろう。」

立ち直ったら、兄弟達を勇気付けろ。ペトロはこれにも力を得て教会の柱として立てられていったと。

●ペトロの励ましの手紙

実際にペトロが書いたといわれているペトロの手紙。
本当によく励ましをする手紙
新約428P

つまり一番弟子として、使徒として、それぞれの教会をはげます。
こうありなさい、こういう風にしなさいと励ましていく。
34の命令形がある、と勘定されている。大胆に励ましの言葉を伝える。
それは自分自身の深い挫折の経験(イエスへの裏切り)神様を見失うような自分、
しかしその自分がイエスに励まされ立たされていく(という経験から)。

例えば
(ペトロの手紙1 16節)
○それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

試練、迫害の中でも信仰は鍛えられるからがんばれ、といった様子。
励ましを聞きたい時はこれを読むとよいかもしれません。

●ペトロの最期「十字架に架かりにローマへ」

ペトロは紀元67年(諸説あり)ごろローマで殉教したといわれている。
この年は、ローマで大きな火災。
当時の皇帝ネロ、残忍、キリスト者に対してだけでなくローマ市民、身内に対しても。
このネロが、おかしくなったはずみでか、ローマ市内に火を放ったといわれている。
これはローマ皇帝の仕業と、噂になってこまったネロは、
クリスチャンのせいにしようと噂を流した。そうしてキリスト者が次々に捕らえられた。
そうした迫害のなかでペトロは人々を逃がし、自分も逃れようと。
その時にすれ違った人がいた。見覚えがある。
ハッと気づいて振り向くとそれがイエスだった。
「主よ、どこへおいでになるのですか」
十字架にかかりにローマへ」と。

ペトロはあの時(自分がイエスを裏切った時)を思い出す。
そしてペトロは引き返した。そして捕らえられて処刑をされたと。
ペトロはこの時に、イエスと同様に十字架にかかるのはもったいないと
「逆さ十字架」を望み、そうやって殺されたといわれている。

このペトロの殉教の跡地に
聖ペトロ寺院=サンピエトロ寺院が。まぁ伝説のような形ですが。

ドミネ・クオバディス「主よどこへおいでになるのですか」
これがペトロの殉教の話です。

こうした弟子達の殉教物語は各地に伝えられている。
確証はないですが、伝説として後の時代に書き残されていく。
例えばペトロ行伝、ヨハネ行伝、などといったように。
こうしたものはたくさん書かれたようだが、聖書としては選ばれなかった。
こうしたものは福音書となのついたものもあるが。
当時の色々なヘレニズムのオリエントの諸宗教の影響を受けて
伝説そのものは語り継がれたろうが、残るというのはどこかで紙にかかれないと残らない。
こうして残された資料がたとえあったとしても、
最終的にこれは聖書に値しないという形のものはたくさんある。
そうしたものは時々発見される。騒がれるが、まぁ驚くことはありません。たくさんあったんです。ここに真理があるのか、(死海文書の話)保証の限りではない。
キリスト教の信仰でこれは大事な物と伝えたという聖書の価値は大事なものだと。

さて、今日はペトロ以外の弟子達「アンデレ・ヨハネ・ヤコブ」ですね。
その他の弟子達について

●ペトロの兄弟、アンデレ

ペトロを一番最初にお話しましたので、ペトロの兄弟アンデレからいきましょう。
アンデレは教会の名前で聖アンデレ教会はいくつもあります、聖公会に多い。
それこそ伝説的ですが、アンデレが、イギリスに宣教したということから。
スコットランドのほうに伝道したという伝承がある。

あのー、もうひとつ、
アンデレクロスというのがあるんですね。
これは―(板書)エックス字のクロス
ペトロの逆さ十字のように、アンデレの磔のクロスがこうした形だったのでその名に

●(ルーテル話)全学修養会
清泉寮(清里)にはアンデレクロスがついている。
あそこはもともと聖公会の施設として作られた場所ですので。
修養会をするような場所。

昔はうちの学校は毎年全学修養会をやっていた。全学で宿泊で。
全学で120人くらいだった頃のこと。多分90年代中ごろまで。
だんだん人数が増え300人に近くなると難しい。
それで新入生のためのフォーラムと希望者のサマーキャンプに分かれていったと。
これらは全学修養会の名残。これを清泉寮でやっていたんです。
余談でしたが。

で、アンドレ、漁師。ペトロと同じ。もともとは。
で、前回読んだようにヨハネ福音書によれば、ペトロにイエスを紹介するのはアンデレ。
最初には洗礼者ヨハネについていた一人でした。
あのー。イエスのことをヨハネによって紹介されてそのイエスに従うものになっていった。
そして最初にペトロを連れてくる、ということであったと。

でこのアンデレについては聖書にどれほど出ているか。
名前は最初に出てくるが、他に登場する箇所は多くない。ほとんどないと言ってよい。
でも、ヨハネ福音書には最初に記されているのと同じように、アンデレの名がしばしば出てくる。

●ヨハネ福音書におけるアンデレⅠ「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ63節)

そこを確認しましょう
ヨハネ福音書6章最初には「・五千人に食べ物を与える」物がたらい。
五つのパンと魚二匹。男だけで5000人ですがね。
ま、そういう人たちに食べさせて満腹になったと。これは4福音書に共通して出てくる。
しかしヨハネにおいては特徴がある。

ヨハネ63
○イエスは山に上り、弟子達と一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越し祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分のほうへ来るのを見て、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」といわれたが、こういったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリ分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」といわれた。そこには草がたくさん生えていた。
(皆満腹になる。パンくずで十二の籠がいっぱいになった)

ヨハネが独自なのは、パンと魚を持っていたのが少年で彼を紹介したのがアンデレという点。
人を生かすまことのパンとしてのイエス」が記されている。
わずかなもの、足りないもの、役に立ちそうに無いものをイエスが用いられた
それが「五つのパンと二匹の魚」なんです。
これがイエスの祝福によって「有り余るものとなる
12の籠がいっぱいに→完全数、十二部族、世界中に。
少年→年端の行かぬもの、役に立たないと思われる。
しかしそれをアンデレがイエスの元に照会をするという大事な役割を担う。
もう一箇所でてくる。同じヨハネ福音書

●ヨハネ福音書におけるアンデレⅡ「ギリシア人、イエスに会いにくる」(ヨハネ1220)

ヨハネ1220節以下
・ギリシア人、イエスに会いにくる
○さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへきて、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話した、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、私に仕えるものもいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

私に仕えるものは「ユダヤ人に限ったことではない」ということがギリシア人を例に表されている。彼らはそもそも当時の社会では異邦人とされていて、
当時にユダヤ社会のなかでは「ギリシア」「異邦人」「神を知らない」
これらは、みな役に立たないこと、と思われていた。
彼らを紹介するというところでアンデレの名が挙がってくる。

●アンデレ―個人伝道の聖人・異邦人伝道のはじまり・海外伝道・教会教育

つまりアンデレは自分が信仰告白をしたとか、おっちょこちょいであってもイエスの傍に行くとか、そういう登場の仕方はしないんです。
ひそやかにそっと出てくる。誰かをイエスに紹介するという事の中にそっと自分の役割を持っている。
それでアンデレは「個人」ひとりひとりを、「個人伝道」の聖人として覚えられたり。
ギリシア人を紹介していることもあって「異邦人伝道」のはじまり
それが、教会の中ではさらに言うと「海外伝道」外に向かっていくという聖人としても覚えられていく。あるいは少年が連れて行かれたという事で「教会教育」の取り組みの人としても覚えられることになった。

●アンデレの最期―アンデレクロス

海外伝道で言えばスコットランドのことを先に言いましたがそのような伝説も残っている。
これは伝説なんですね。
もうひとつの伝説、アンデレその人はアンデレクロスにかけられ殉教する。
これはギリシアのパトラエ?という場所。
(いきさつ)アンデレが宣教していくわけですが、殉教したギリシアのパトラエで知事をしていたアイゲアデス、彼の妻マクシミランが病気と聞いて癒しをする。
そうした経験から、マクシミランはキリスト教信仰を持つようになった。
またアイゲアデスの奴隷達もキリスト教信仰に

アイゲアデスはこのことに立腹するそして処刑をするという事だったようです。
これも伝説なので確証があるかというと…
その時の処刑の仕方がアンデレクロスと。ここに縄で縛り付けられての処刑だったと言われている。

アンデレのことはヨハネが伝えているだけなので、
ヨハネのところにはアンデレの伝承が資料として多分あったんでしょうね。
そのところを大事に考えて福音書に伝えているということだと思います。

まぁペトロを紹介しましたからその兄弟アンデレの話をしました。

●ヤコブとヨハネ―野心家、支える決意「右と左に座らせてください」(マルコ1035節)

ペトロとアンデレ、その二人ともう二人「人間をとる漁師にしよう」といわれた兄弟がいましたね。
ゼベダイの子、ヤコブとヨハネ
この兄弟は、最初のペトロの時も言いいましたが、彼らはしばしばイエスのそばに置かれている。
という人でした。アンデレの名が出なくとも、ヤコブヨハネはペトロと共にいたことが記されている。
特別な人たちですね。この人たちは。

えー、マルコ福音書をちょっと見てみましょうか。(マタイにもありますが、マルコが元ですので)
マルコ1035節から
・ヤコブとヨハネの願い
○ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが「なにをして欲しいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」彼らが「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなた方はわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

これは面白い逸話ですね。
あなたが栄光をお受けになるとき→この兄弟にとっては、メシアですから「イスラエルの新しい王国の王」となるということ。要するに右大臣左大臣にしてくれと。
なかなかの野心家です。取り立ててくれという気持ちがあふれている。
野心家と同時に、自分達こそがそれにふさわしい働きをしますという決意の表れでもある。
あなたの右と左であなたをお支えしますと。
しかし他の弟子は「なに抜け駆けを」とこういうことでしょう。

イエスはこの後、そうした「偉くなりたい」をご覧になられて、
偉くなりたいと思うものは皆に仕えるものになれと諭すのだが。

イエスは「栄光を受ける」これは十字架だと分かった上で話している。
そして「あなたがたは何を願っているのか?」と問う。
ちぐはぐな会話ですね。

しかし彼らの気持ちとしてはイエスの傍で自分達がつかえて生きたいという意気込み、野心。
並行記事はマタイにある。マタイの20章はしかし、
彼ら兄弟が願い出たことになっていない。
マタイではお母さんが願い出たことになっている。

マタイ2020
母が息子と一緒にイエスの元に来て、お母さんが言う。

これを見ると母とはいつでも息子の立派な姿を見たいという事かもしれませんが。

けれど、まぁ、それは、恐らくヤコブとヨハネのそうした野心家としての姿を少しでもやわらげたいという気持ちが働いてマタイがそう書いたんではないかと思われます。ルカにいたってはこれを記していない。後にヤコブとヨハネは後に教会の大事な人として覚えられた人ですから、好ましくない描写を避けたということかもしれません。

●ヤコブとヨハネ―激情家「火を降らせて焼き滅ぼしましょうか」(ルカ951節)

でこの、ヤコブとヨハネこうした願いをしたことがルカには記されていないといいましたが、
ルカは別の箇所でこの2人について記している。

ルカ951節 P124
・サマリア人から歓迎されない
○イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いのものを出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指してすすんでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よお望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

もともとサマリア人とユダヤ人は仲が悪かった。エルサレムに向かっている。それを聞いて歓迎しない。自分達のことじゃないと。それを見て、怒りをあらわにするヤコブとヨハネ。
「焼き滅ぼしましょうか」→激情タイプ。
この二人の性格を良く表しているのかと思わせられる。
なぜか。
この二人には特別なことがかかれている

マルコ317
・十二人を選ぶ
○ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち「雷の子ら」という名をつけられた。

そういう名が特別に与えられている。ということは、まぁこの激情タイプという事がさもありなんと。
ヤコブとヨハネ、非常に激しい性格を持っていたのではないか。怒りっぽい。短気。

(身の上話)
私の次男はですね、今中3ですが、小さかった頃はすぐ怒っていましたねぇ。癇癪もちで、でも考えてみれば自分もそうだったなと。あの人は私に似ているんです。私はものすごく短気。いまはそんな風には思われないかもしれませんが。短気は損気だとあるときに僕は思って、短気を止めようと思ったことがあった。それはある時に何かで怒って八つ当たり、手を振り回して、手をしたたかソファにぶつけたんです。痛かった。これは短気は損気だと、もう辞めようと小学校の45年生くらいの頃かと思いますが。そのぶつけた痛みは覚えています。

こういうヤコブとヨハネ、激情タイプと。
マルコを見ましたから、マルコの所でもう一箇所

マルコ938
・逆らわない者は味方
ヨハネについてこう書いてある。
○ヨハネがイエスに言った「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私達に従わないので、やめさせようとしました。」

ヨハネは本当に厳格、不寛容。怒りをあらわにしている様子。ここでも短気。そんなことでいいのか、と許せない気持ち。イエスにすぐ言うわけですね。
ですから、ヤコブとヨハネ特にヨハネは短気だったのではないかと。

●ヨハネ「イエスに愛された者」(ヨハネ1323節・1925節・202節・2120節)

ところが、このヨハネ、短気、まぁヤコブもそうですが、イエスに非常に重んじられていて、
ペトロ同様に、イエスの傍に置かれている。ヤイロの娘、ゲッセマネの祈り、の時もそうです。
そして、ちょっと前に少し申し上げたが
ヨハネについては特に、ヨハネ福音書において特別な描かれ方をしている。
というのは、

ヨハネ福音書は他の福音書とは全然違います。この13章は最後の晩餐の箇所です。
過越祭の前のところとしてその食事の席を。だから晩餐の時期も違いますが、
他の福音書では食卓のことが書かれているが、食卓の上
イエスの足を洗った。(?)

ヨハネ福音書1321節以下のところには「裏切りの予告」そこの席上で弟子がみな、一体誰が?と思うところ。23節見ましょう。

ヨハネ1323
○イエスのすぐ隣には弟子達の一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた。
シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと―

有名なダヴィンチの絵においては、両隣には少しきれいな人が。これはヨハネと、
このときに「愛されていたもの」と言われているのはヨハネだったろうと理解されている。
古い神学者はこれを当然としているがヨハネ福音書にそうは記されていない。ただ「イエスの愛したもの」と。この人物は繰り返し出てくる。
このヨハネ福音書においては19章にも。イエスが十字架にかかったときのこと

ヨハネ1925節。
○イエスの十字架のそばにはその母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」といわれた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

イエスは母をヨハネに託した。と。

その次に出てくるのはペトロの時に前回読んだが。
復活の朝駆けつけたのが、ペトロと、名が記されていないがイエスが愛しておられたもうひとりのでしと。20章の2節に。
だからこのヨハネはペトロと共に最初の復活のしるしつまり「空虚な墓」の証人になっている。

最後は21
ヨハネ2120
・イエスとその愛する弟子
○ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食の時、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。わたしに従いなさい」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

ヨハネは死なないというううわさが弟子達にひろまった。

この弟子は誰かと。ヨハネ福音書では名は明かされていないので色々な説があります。
その説の1つは、有力なのはヨハネと。
説を紹介すると。
この人は一番最初にイエスに出会った、ナタナエルではないか?
あるいは、ヨハネ11章に出てくるイエスが復活させられたラザロのことではないか?
あるいは、富める若者説「永遠の命を得るにはどうしたら?」と問うた若者。財産を売り払って従えと、悲しんで去っていった話。彼が全部売り払って施して従ったんじゃないか。
或いは、意外かもしれないが、イスカリオテのユダではないかと。
まぁ分からないと。有力なのはヨハネなんですね。
実際にですね、ヨハネがどういう人物としてこのあと記憶されているか。

●福音書や手紙を残した使徒、ヨハネ。

使徒言行録3章1節
・ペトロ、足の不自由な男をいやす
○ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に昇っていった。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。神殿の境内に入る人に施しを乞うため

奇跡の物語ですが、弟子達のすることはイエスの名によって、(名を伝えるということ)
大事なことはこの人が施しを乞うて金銀をもらおうとした人だったが、イエスの名を伝えられ、神を讃美するようになり、神殿の中に入っていった。(体が不自由なままでは神殿には入れませんでした。)その者が喜びを持って礼拝をするようになったということが大きな奇跡。
ここに登場するのがヨハネ。

4章のところでも。ペトロとヨハネが共に在る。
ペトロの説教。ヨハネがじっと聞く。
ペトロはもちろん一番弟子として。ヨハネは大変重要な弟子として、後々の働きがある事が分かります
さらに、このヨハネという人は、手紙を残していた。
ヨハネ福音書もそうですが、ヨハネによる手紙が残された形。
もちろんこのヨハネ福音書、ヨハネが書いたと言われているだけですが、
こうした福音書や手紙を残した使徒として覚えられていく

●神の愛を伝える使徒ヨハネ(ヨハネの手紙1-48-ヨハネ316

ヨハネの手紙147節以下
特に重要な言葉として
「愛せるものたち互いに愛し合いましょう」ここで何が重要か。

ヨハネの手紙1-48節から
・神は愛
16節にも
○わたしたちは、わたしたちに対する、神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。こうして、愛がわたし達の内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことが出来ます。

これはキリスト教の中でもキリスト教の神を伝えるときによく用いられる言葉ですね。
この決め台詞、聖書の中にはっきり出てくるのはこの箇所だけです。
要するにこのヨハネという人は、この「愛」を伝える人物と。
そのことはまた戻って申し訳ないが

ヨハネ316節(ひっじょーーーに有名な箇所ですからきっとどこかで聞いたことがあるでしょう)

神は、その独り子をおあたえになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠に命を得るためである
17節以下)神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じないものは既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれて成されたという事が明らかになるために。

ルターによってこの箇所は「小福音書だ」と。一番の要はここにあると
この世を愛されたこと。神はイエスによって。

このヨハネ福音書の3章の16節は神は愛であることを伝えている
ヨハネは愛を伝える使徒として覚えられている。

●弟子に起こされた奇跡―弟子の欠点を覆って余りある人生の歩みに変えられるイエス

そうすると、ここでもまぁこの最初に描かれた野心家だったり、短気だったりするヨハネ。
愛を伝える伝道師に。偉い変わりようだと。これがイエスに出会っていく弟子の姿だと。
ペトロもそうですけどね。ヨハネもそう。
欠点があるんです。でもそれを覆って余りある人生の歩みに変えられていった
それが弟子に起こされた奇跡だ。
イエスに従うことで変えられていく。
それを私達は辿ることができると。

●ヤコブの最期―最初の殉教使徒

まぁ、これがヨハネ。ヤコブもおなじようなことですが、
まぁあのー、同様に重要と覚えられるヤコブ

使徒言行録1212
○そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
こう書いてある。

イエスの直接の弟子、十二使徒として知られたひととして 一番最初の殉教者。
最初の殉教使徒ヤコブ
殉教者はもちろんたくさんこの前にもいましたが、ステファノ。
それほどヤコブも重要な人物として教会で働き、宣教の柱になっていった。

もう時間が来てしまいましたね。
4人のペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブをお話しました。
もう少し取上げたい人物がいましたが、
ここまでにしておいて、機会があれば、その時に少しご紹介したいと思います。
特にうまく話せればよいと思っているのはイスカリオテのユダについてです。
彼については気になることもあるので、
十字架の話をしたあたりでうまく話を出来ればと思っています。

来週はお休みです。(学祭のため)
次回は12日、その日と19日で「聖書の中の女性」と。