2011年11月16日水曜日

英専‐9 Depression and the Body 否定的感情のrelease/喪失に関わる怒り

Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality 
Alexander Lowen, M.D.
First published in the United States of America by Coward, McCann & Geoghegan, Inc., 1972
Published in Pelican Books 1973, Published in Compass 1993 

(邦訳)うつと身体 〈からだ〉の声を聴け  春秋社 (2009)
 アレクサンダー・ローエン=著 中川吉晴/国永史子=訳
 



chapter3. The Energy Dynamics of Depression



(学生)「死にたい」という願望に対する介入はどうすればよいのでしょうか?
自分の中にはその時にクライエントの自殺に加担してしまいそうな恐れがあります。

「死にたい」ということをどう扱いたいのか、という目的によるよね。
何を扱いたくて「死にたい」というところにアクセスするんだろう?という。

(学生)僕が思うのは、「死にたい」という気持ちを正面から扱うことで、
クライエントがなぜ自分が「死にたい」と思うのか、
洞察が得られるんじゃないかと思うからです。

なるほど。そうであれば、「死にたい」を扱うことが
死に加担することではないよね。
そういう「意図」の方が大事。

そしてクライエントの死に加担しないためには、
パーソナリティによる介入方法の違いということも大事。

たとえば、ヒステリーの人が本当に死にたくはないけれど、
「死にたい」と言うことを、こっちがどう置くかという目的が必要で
なぜそう思うのか、とういう奥の動機をクリアにするために言うのよね。

だから、「死にたい」って言ったあとにクライエントがどう反応するかで
そこの介入方法を考えなきゃいけないというにもなってくるし

その「死にたい」に対して「そうなんですね、死にたいんですね」
とこちらが言うとエスカレーションしちゃうのがヒステリーの人でしょ?
そういう人の場合に、勝手に彼らがパラノイアとして使っちゃって
つまり、先生も言ってくれたから私そうしても良いんだ、
という風になっちゃうこともある。

確認していくっていう意味でちゃんと直面していくという介入は
問題ないと思います。その後見極められるか、が大事で。

目的は一緒。
つまり「死にたい」と言葉で言っていることは、
意識のほんの一部でしかない可能性がある訳だから
言葉尻のままとることはしない、ということだけ。
言ったからって、それだけの本人にしない、と。
一部だよねということは確かに認めなければいけない場な訳だから。
そこを置くときのこっちのスタンスを大事にしていないと。
加担するというのは、「死にたい」という思いだけをキャッチしている時に起こるわけで。

それってどういうこと?という関心を持つことに意味がある、と。

(学生)ローウェンを読んでいると、
結論として身体が「生きたい」になるのはもう決まっている、
という感じに読めてしまいます。
つまり、「生きたい」が無い人、というのはいないという考え方なんだな、と…

そういう人に出会ったらどうするか、と考えてみると良いよ。
あなたがどう介入しても「死にたい」しか出てこない人がいる
という仮説を持っているわけでしょう?
そういう人に出会ったらどうするかというところに臨床家の態度があるので。

自分だったらそこに何ができるのか、と。
ローウェンはローウェンとしてそう思っている訳だから。
そこで自分のアプローチ、したいこと、関心が明らかになると、
ローウェンがどうしてこういうのか、
あなたはどうしてその対象に関心があるのか、もうちょっと見えてくると思うので。

(学生)自分が思ったのは「死にたい」という気持ちを
受容的に共感して聞くことかなと思ったのですが、
そこで引っかかったのは以前のクラスで話してもらった
「自殺は許されない」「やるなら私の部屋でやりなさい」と
予め伝える、という点で。それを伝えることで、逆に
自殺という陰性反応を引き起こしてしまうということはないのかな、と。

だから、それもアセスメントをしてからなじゃないと言えない。
それでエスカレートして、反動形成という力動を強く使う子は
「駄目」って言ったらもっとひどいことをやるので、できないですよ。
それくらいアセスメントってすごく大事で
それで何を言うかが決定されるんですよね。

「死ぬな」って言うのは、
誰も止めてくれる人がいなくって
淋しいからアクティングアウトしている人たちに対して
違う態度を取る、ということをするんですよね。
常に彼らにとって何が足りないのか、
何によって今、叫ばなければならないのか
という仮説をもってやっているので。

だからそこで、その場で、アセスメントしながらやるという
常に何かが決まって、わかってやる訳じゃないということを
もう少し念頭に置くとそこは面接が面白くなるし、ダイナミックになる

で、一つ注意しなければいけないのは、
よく「共感」って使うじゃない?
例えば「死にたいという気持ちに共感する」と。
それは共感とは言わないのね。
共感ていうのは、いろんな気持ちがあって、
一つじゃないんですよ、気持ちの流れというのは
だから一つのことだけを分かったということを共感とは言わない。

ロジャーズはそうなんだけど、「共感的理解」って言うでしょ
「共感」と「共感的理解」は明らかに分けているんだけど
そこにはプロセスがある。
共感はすぐできるものではなくて、
はじめに「死にたい」と言ったら「何でそんなことを言うんだろう?」と
他にどんな気持ちがあって、結果としての「死にたい」が出てきているのか
ということがわかるためにはもうちょっと時間がかかるでしょ

私たちは、
本当に死ななきゃいけないという絶望の背景だとか
今起きている事実を一緒にわかろうとしない限り共感は絶対起きないんだよね。
だから、簡単に「共感する」ということを置かない方がいい

これはロジャーズもすごく強調しているところですが、
簡単に書いてはいるけれど、
私たちはプロセスがあっての「共感的理解」ということがすごく大事。

「死にたい」とか、ヒステリーがからんでいるとパニックになって
ワーッと「もうどうしようもない私だめー」とかって言っている時。
そういう時は、気持ちに流されて、
こっちも「ああ大変だ大変だ」となりがちじゃないですか。

そういう際の「共感的理解」をちゃんとしましょう、と言う時に
「いつ、何がありましたか?」という
事実、出来事をクリアにしていくということ。

これ、私の臨床心理士のテストの時にでたことなんだけど、
危機対応をどうするか、と。
そういう時にも大事なことで、気持ちの方に反応しがちだけれど、
気持ちが大きい時は、情報・事実をまず明らかにすることによって
そのエネルギーがどこに収束するかがはっきり分かってくるじゃない?
それは技法的な介入だとそうだし

情報だけに加担している人には、エネルギー・気持ちの部分にアクセスしていくし、
というかたちで、
・共感するにはプロセスがある、ということと
・出てくる出かたに応じて、どう介入することが理解につながるのか
ということが技法になってくる。

そこのところを置いておけると良いですよね。

そして、
ローウェン的にはプロセスを経ていくと、
彼のデータからすると、ほとんどの人が本当に「死にたい」訳ではないらしい
ということが見えてきている、と。
実証までは行かないけれど、傍証的な研究として置いている。

そういうことを踏まえた上で、でも、
それで全部な訳じゃないのだから
(本当に死にたい人もいるのだから)
その人たちをどう扱っていくのか
その対象群は一体ローウェンが言っている人とどう違うのか、という形で
研究的な視点を持つと、そこは面白くなってくる
ローウェンはどうして、そのように「身体」と言わなければいけないのか
そこを探求する視点を持つと、ローウェンの歴史的な位置づけも見えてくるんじゃないか。

(学生)今のお話の中で思ったのですが、
自分の個としての価値観の中に自死に対して明確な価値意識を持っていないと、
クライエントに引きずられちゃう場合は多々ありますよね?

まぁあるでしょうね。いっぱい死にたい人はいますからねぇ。

(学生)そう考えると、いま彼が言っていたようなことを突き詰めると
セラピストの考え方によって自死への対応は変わってきますよね。

変わってくると思いますね。

(学生)まず、そうするとセラピスト自身の個人的に人生観や人間観や世界観を
ある程度整合性を持っていないと、引きずられちゃう場面が多々あるんだろうなぁ、と。

個人の価値観ということと、もうひとつは倫理ということ。
専門性としての倫理観を持っていることがすごく大事です。

個人としてどういう立場をとるにせよ、クライエントの治療に対して
最大限自分がしているか、と。
極端に言うと「死んでも良いよ」と思っていても良いんですよ。
けれど、その価値観を持ちながらクライエントに会ったときに
自分がその人を治すためのあらゆる手段を使おうとしているか
ということの方が大事で

パーソナルな問題は私たちはまぁ色々持っているわけじゃないですか。
価値観も色々あるだろうし。
それはそれで良いんですよ。
というよりも、職業倫理として責任を持って引き受けれられるかということの方が大事
個人の価値観を全部統制しようと思うと、
それこそどっかの国みたいになっちゃうわけだけど
そっちよりも、患者さんにどう手を尽くしているか、その責任を取っているかということ。

(学生)それは分かるんですけど、
最終的には個の問題に帰結するんじゃないか、と思うんですよね。

そうしてしまうと、臨床心理士の専門性って無くなっちゃうんですよね。
全部個の問題でしょ、となっちゃって。
そこが多分、今の臨床心理の人の弱いところですよね
価値観が、ということになると、個が成長しないと出来ないということになるでしょ
それって技術の意味が無くなるということなんですよ。

(学生)それは分かるんですけれど、彼と話もしたんですけれど、
死にたいと言うときというのは、先生が以前言われていた「ピニーの図式」で言うと
4の段階だろうという想定がつく。4の手前くらいかな。
そのような場合、技術とかを越えた人間力のようなものが必要になるのかな、と。
最終的にはセラピストの個の価値観の充実が、
臨床心理士としての自分を支えるベースになるんじゃないかなと思うのですが。


■【110928_英専2】■■■■■■■■■■■■■■

○ピニーの図式(ストレス症候発達図式)
ピニー=アメリカ精神医学会の会長だった人
発達と問題処理の、心の機能と行動が一つになったもの。
発達段階としては1から4にくる。
問題解決は、4から1へさかのぼっていく

1.問題→(問題解決技術)→解決 ―Skill
2.葛藤→(ego 適応)→解消
3.葛藤→(ego 不適応)不安→症候
4.葛藤→(egoが機能しない)→危機

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

そうですね。
だから、セラピストがセラピーを受けなきゃいけないんですよね。
そうしないとセラピストの個の価値観を押し付けてしまう、ということでしょ
これはしょっちゅう起こる、と思っておいたほうが良いです。
無くなるという風に思わないほうが良いです。

価値観があったって、
私たちはすぐに「死んでもいい」って思ったりもするということを
ちょっと置いておいた方がいい
だから常に私たちのセラピーが必要。

「いいんじゃないか死んでしまったり」と思ってしまったりとか
「この人はもう無理なんじゃないか」と無力感にとらわれてしまったりとか
そういうことがあるんですよ。

だからこそ、自分自身の整えをしていないと、すぐかぶせちゃう。
「それでいいかぁ」と同調することがおきかねない。
そこはだからいつも注意しておかないといけない。

価値観もそうだけれど、自分の状態
価値観あったって、やっぱり逆転と言うのがおきるので
そこを自分でどう調整していくか、という
セラピストの状態が大事です。

そもそも臨床心理学者として生きようと思ったときに
そこに倫理観も価値観も無いとやれないんですよ。
で、「死んでもいい」と思っている人が臨床心理士をやっているんだったら、
私は試験に通したやつに腹が立ちますけれども(笑)

たしかに
倫理観と自分の価値観は重なっているところがある、と。
(そうじゃないと)
「臨床」という言葉の意味が分かっていないということになるので。
「死の床に侍る者」として何が出来るかを考えない人、ということなので。
その時点で臨床心理学者として専門性が薄いということなので
そこはまぁつながるところじゃないかと思いますけれど。

でも、そういうことはしょっちゅうある、ということはおぼえておいたほうがいい。
重い人に会えばしょっちゅうある。
すごい絶望的な気持ちになりますよ。

こどもが18,19才くらいの年子のきょうだいがおもらしをしたり、とか
ぼーっとして口をあけているというのを、困った、どうしよう、と
病院に連絡したらこっち(先生の研究所)に連絡しろということで電話が来た。
親が協力しないんですよね。
この時間に来ましょう、という風に言ったら
「来れない」と。「あの曜日のあの時間にしてくれ」と。
すごい操作でしょ?
そんなひどい状況なのに親は一切協力しようとしない。
ちょっと話をきくと、もう生まれたときから捨てているんですよね。
ようは、何も面倒をみていない、と。
家政婦さんのような人に面倒を見てもらっていて。
結局、子どもの変化に気づいたのも12歳ぐらいの時。
その時に言われたんだけれどずーっと放ってある。

そういうのを、聞いているだけで
もうだめなんじゃないか、みたいな…
無力な感じにしょっちゅうなるんです。
で、それを無くそうというのはちょっと多分無理で。
そう思ったときに、やっぱり自分がここで最大限何が出来るんだろうか、と
それは専門家だからやれるんで、私は日常の自分だったら絶対やらないですよ。
専門家だから、ということが「助け」としてあるんで。
しょっちゅう「これは病院しかないかな…」とか
でもいま病院に入れると薬漬けになってしまうので、とか
難しいところですよね。
発病しているか否かというのはぎりぎりのところだったかな。
「ピニーの図式」の4のラインのところを発達的にブレイクダウンしてしまって
もともと育っていないぶん難しくなっているのかな、というのもあったのですが。
12歳からですからね。半々でしょうね、取り戻せるかどうかは。

(学生)精神遅滞というようなことなんですか?

遅滞、は無いと思います。学校には行けているので。
知的にどうか、はまだわからないけれど
発達的な問題がもしかしたら起きているかもしれないので、
そんなに統合失調症、と言わなくてもいいのかもしれないけど。
それを治療するという風になると難しいんですよね。
時間がかかるでしょ、親の協力が必要でしょ、
つまりお金がかかるということもあるので。経済状況も考えないといけない。
となると、目の前にいても救えない、ということもある。
超無力ですよね。で、「もういいかぁ」というような感じになっちゃう。

でもね、これから私たちはそういう(無力を感じる)場面にいっぱい立っていく
ということをおぼえておいたほうが良くって。
その時に、専門家だから、臨床心理士だから
本当にそこしかないのか、「あらゆる手を一緒に考えてみよう」
という所にいられるかどうか。これが私たちの仕事で。
でも、それでも駄目ということもあるんですよ。
その時は仕方がない、ということにもなるし…
たしかにどんなに手を尽くしても死んでいくという人はいる訳ですよね。
出会った時期が悪かったりということもあって。
それも現実として認めなければいけないし、
ただ、その時に私たちが最大限手を尽くしたかということがいつも問われる。
それが責任性、倫理性ということ。
いま倫理規定をいろんな学会が出していますけれど
そういうところに書かれるようになってきている。

(学生)先生の今言われたことは分かるんですが、
例えば先生が担当すれば助かったかもしれないけれど
たまたま新人の僕が担当したから、ということで混乱を深めてしまって
クライエントのパニックを増幅してしまったと
その結果最悪の事態に至ったということも考えられますよね?
その場合-

スーパーヴァイザー(SV)の責任です。
そういう風にやらせるという上の責任です。
そういう責任を持っていないとやらせてはいけないんです。
それを選んだ人の問題なので。
SVってそれくらいの位置。

(学生)そんなに大きいんですね。

そうですね。

(学生)でも、それは組織の場合ですよね?

組織じゃなくても、個人でSVを雇ってやっている場合は
(私がSVだとしたら)少なくともその責任は感じます。
だって、SVというのは指示をしたり責任を持たせているので。
そういう意味では「やめなさい」というのもSVの責任なんですよ。
「今はみられないから、あなたはみなくていい」と言う責任。
その判断を出来なかったということだから。

だからSVを雇うというのは自分の安全性を確保することでもあるし
そこを自分では見られないからこそ雇うんであって。
そこは一人で責任を負えるかどうかという-
でもね、なかなか雇わないよね。
スクールカウンセラーなんかだと。
まぁいないというのもあるんだけど。そういう機関がない。
みんなここにあつまれば、というような機関。
そうすると、困っていても「まぁいいか」としてしまう場合が結構多い。

だからスクールカウンセラーの人とか実際大変だと思うんだけど。
陸前高田でスクールカウンセラー養成、ってわーっと出ているんだけど
誰が行くのかっていう感じですよね。
何の支えも保証されずに、いきなり給料は良いよと募集が来るわけですよ。
そういういま現実の状況なので
ちゃんとSVを雇って、
自分の責任を持てる範囲をクリアにしようとするというのは大事ですよね。

ですので、組織でやるというのは良いわけですよ。
自分にはちょっと難しいかもしれない
でもぎりぎりやれるかもしれないという人をやれる、ということがあるので。
それはトップの責任においてやれるので、
訓練においてもそうやって学ばせてもらうんですよね。
やってみるということで成功体験をして積み重ねることが出来るので。
そういう意味でも訓練の機関と言うのはすごく大事。
いろんな人に会いながらSVと一緒に自分の出来るところを探していくのが必要

だから、子どもを初めにやったりするんですよね。
それは出来る人から、出来ることから。と。
子供はこれまで培ってきた変数が少ないから
だからね、まぁ元気に遊べば元気になるんですよ。
そこからはじめるというのは責任を負えるところから、ということだし
そこからじゃあどういう人をやってみるか、というのは自分じゃ決められないでしょ?

(学生)今の話を聞くと誰をSVに選ぶのか、或いはまぁ選べるのか、
セラピストにとってSVは大きな存在ですよね。

海外ではSV1人じゃなくて2人つける場合も。
で、どう自分に合うかということや、違う視点からのSV
精神分析、認知行動、対象関係、立場がちがうでしょう?
少し違った角度で、と。
そういう時は自分のオリエンテーションがはっきりしていないと
使うのは難しいと思いますけど
どれが合うかということでのスーパーヴァイザーショッピングは多いですよ。
それで、決めていく、というような。

そうじゃないと、大学に戻ってSVを受けるのが難しいということになれば
外で探すしかないという。はじめはオリエンテーションくらいしか分からないので
ちゃんと会って、何回かやってみて、ということは結構自由にはやれますよ。

(学生)そうなんですか。
なんか師弟関係みたいになっちゃうのかな、と思ってましたが。

そうでもないですよ。そこは結構フリーです。
オリエンテーションが近いから見方が近くて
責任を持ってもらいやすいということがほとんどですけど。

私たちの研究所のところにも普通の看護師の人が来たりとかもありますしね。
お医者さんだって来たりするわけだから。
もともと認知行動療法をやっていたひとが、
これは分析じゃないとどうしようもないからということで来たり。
だからそういうのは結構自由。

探すのは大変みたいですけどね。
自分が困っている時に、それを打開してくれるようなSVをどう見つけるか。
でも大事なことですね。
一人じゃやれないと思っておいたほうがいいかもしれない
組織から、開業するって結構大変ですよ。
いま「開業しましょう」と言っているけど。

そうだとするならちゃんと拠点を作って、
いまそれが専門職大学院という形で-
何校?4,5校くらいかな、今度帝京がなりますけど。
それで、みんながもうすこし自由に
その研究所に行けばいまの最新が分かる、みたいな訓練拠点になれば、
開業を、というのもありえる話だとは思うんですが。
今は難しいですよね
組織にベースがあって出て行くというような形じゃないと。

それは現状、です。
そういう現状もありながら自分はどういう道を辿るのか、と見極める必要がある。
そういうのは学会がもうちょっと中心になるべきところはあるんじゃないかなと。
それもちょっと難しくなっているので
日本心理臨床学会とかになると会員の単位が万ですからね。
一万の人たちがなにか一つのことを学ぼうと集結するというのは
そうとうトップがリーダーシップをとっていたり
テーマがはっきりしていてかなうものだとおもうのですが。
一万人て-、カオスですよね。

学会に行っても、学会に行ったなという感じがしない。
なんか分科会みたいになっていて。
みんなでなにかをつかみましたという拠点にはなり得ないという状況なので。
そういう意味でいま学会が技法を訓練する中心機関にはなりにくい
本当は研究所レベルのところがあれば良いのですが
そういうところが無いのでみんな困っていると。
戻る場所があれば安心してやれる、というのは発達そのものですよね。
「分離個体化」そのものですけれど。
その分自分で探すという、こっちの自立性が問われている時代ではある。
そういう意味で私は機関に所属していたのは幸せかなと思います。


(学生)ちょっと話が戻るのですが、
「死んでも良いよ」と言うことと
カウンセリングの空間で「死にたいと言っても良いよ」
と言うことは別のことだと思うんです。
そして後者は臨床心理士が支援として行えることだと。

しかし、クライエントの深刻な「死にたい」を聞いて
治療者であるこちらがうろたえるてしまうとすると、
それはこちらが死を直視できていないからだと思うんです。

勿論、臨床心理士としての倫理、責任感は絶対必要なのですが
自分が死を直視できないが故に、
倫理的にも常識的にも正しい「生きる」方へ行くならば
それは正しさへの逃げであり、怖いことだと思います。
つまり患者に対して倫理的に生きるべきだと言っても駄目で
生きるか死ぬかは自分の気持ちで決まるということが前提じゃないかと。

先生の以前のお話の中で、
「連想」においては、まず治療者側の連想への自由度が必要とされる
というお話があって感銘を受けたのですが、
「死」に関しても同様の自由度があるべきではないでしょうか。
つまり、カウンセリングの空間で表される「死にたい」を扱うためにも。

ただ、その姿勢が、先ほど出た質問にも会った「クライエントにふっと流される」
ということに繋がるのかも知れないと思うと、
じゃあ臨床心理士の態度ってなんだろうというのが疑問なんです。

今すごく大事なことが出たと思うんだけど
「死にたいということそのものに直面していく態度」
これはローウェンがやっている態度なんですよ。
それは「生きる」ということと全然矛盾しない。

この本の先にも出てくるけど
生きることの欲求が出てくる時というのは
どん底まで行かないと分かんないんですよね。
だから本当に底の底を体験することを私たちが直視出来ないと。

クライエントの「死にたい」を
「そうですね、死にたいんですね」とそのまま言える
こっちの体制ってすごいんですよ。
つまりそれってどこか、
「ぎりぎりのところまであなたが体験していいんですよ」
ということをこちらが認めるということなんです。

そこにいられるというのは
本当に死と生の狭間に臨床家がいられるということでしょ。
それってローウェンの言う、グラウンドにいられる感覚に近いんですよ。
つまり死というところにまで安全を持っているわけでしょ。究極的には。
そこにいられる人って確かになかなかいないですよね。
ローウェンはそこにいる人なんですよ。

多分死に近い人にいっぱい出会っているからなんだけど。
この人が会っているのはやっぱり神経症よりも重い人ですね。
人格障害から統合失調症の人をみている。
本当に生きているのが大変な人たちをみているので。
「死」ということに簡単に揺るがないですよね。

そして、揺るがないということは、
言わば、相手が死のうが大丈夫ですよ、
くらいの安全空間を持っているわけじゃないですか。
そこが多分倫理とかと関係していて。
(前回出た)「3人死んでもいい」という態度は非常に大事。
そこはグラウンドでしょ?
そこまでじゃあ行ってみなよ、という話じゃないですか。
で、面接の中ではそこまで行って良いんだよということ。

だから、私は「やるんなら目の前で死んでくれ」と言うんですよね。
ここ(カウンセリングルームの中)ならグラウンド、
どこまで行っても良いですよ、と。

そういう意味では本人がちゃんと「底に落ちる」ことを体験するし
底に行っても死にたいのか、それなら私はもう止められないということになるんですよね。
そういうグラウンディングの感覚を多分言っているんだと思います。

そこは確かに怖いところなので、だいたい私たちは見たくない。
だから単純に「いやいやいや、頑張って生きようよ」ということを言いたくなる。
本人が本当にどの辺まで落ちているのか見届ける必要がある。

(学生)その意味では安全空間を持てるかどうかも技術なんでしょうか。

そうですね、技術です。ま、訓練もあるけどね。
だからそんなにすぐ出来るものでもないでしょう?
それは確かにパーソナリティも経験も重なっているけれど。
ただ、生身ではやれないというのは確かなので
私たちを守るものもあってというような条件も含めてね。

ただ、ローウェン自身は、人格そのものを本気で変えようとした人だから。
多分どん底を、ある意味ではっきり置こうとしたんだよね。

重い人たちをみる、というのは
その人たちも治るというのをはっきり信じてやっていたので。
可能性を感じるからやっている訳で。
人格構造そのものは変わりにくい人をみているから
変化をどう見るか、ということにものすごく貪欲だったんだろうと思いますね。

そういう意味では、彼ら変化を体験するところっていうのは、
本当にぎりぎりのラインまで行かないと動かないじゃないですか。
だからものすごいきわどいラインのところで介入していった、
死を直面化することの厳しさを持っていたんだと思います。

と、いうことで(笑)
読んでいきましょうか。

*いやー、ここまでで40分経過。
全然進んでいないけど、自分としては本当にありがたい、
色々なヒントや大事なこと、新しい語彙を教えてもらえた貴重な時間だった。

P89(邦訳P96)から<自分の翻訳担当箇所>
①人が自殺をするとき、それは自分自身とともに生きられない、ということを意味している。その人はもはや内にある否定的感情や敵意(negative and hostile feelings)に耐えることが出来ない。そして、そのような感情をなにか破壊的な行為(destructive act)を通してしか表現できない。これは多くの場合殺人と自殺が時を同じくして(当然、殺人の方が自殺より先であるが)起きることの理由である。私が見出した、自殺の可能性がある者(potential suicide)を助ける効果的な方法は、その行為の一部は私に向けられていると指摘することだ。なぜ自己破壊の行為が治療者である私に向くのか?それは私の失敗を見越した上で行われる仕返し(it is a way of getting back at me for my presumed failure)だからである。このやり方は患者を多分に怒らせる。そうして敵意が私に向けられる分だけ自分自身に対する破壊の程度を低くすることが出来るのだ。

テーマは、自殺と、抑うつと、敵意の抑圧の関係でしたよね。

自殺を破壊的行動と捉えて、その奥にある否定的感情に触れていくことを
ローウェンはするんだ、と。

むしろその気持ちはセラピストにむけられるべきものだ、と。
これだと超グラウンディングの感覚ですけどね。

(学生)これはすごくリスキーだなと思ったんですが

はい。すごくリスキーです。

(学生)ただ、今日は前段で色々話を聞いたので、そうなんだよねと思いました。

リスクテーキングとか、これもロジャーズですね。
これがロジャーズが思い人をやっていて考えなきゃいけないというところ。
「転移を扱う」という言葉はロジャーズは決して使いませんが-「我と汝」の関係と。
こういうリスクテーキングをしないとどうしようもない時がある、と。

そのままの、おきている感情過程にともにいる、というだけでは
巻き込まれてしまうということをロジャーズは体験したんですよね。

(学生)自分に敵意を振り向けるというのは、なんとなく表面的というか
きっとクライエント本人は自分が怒りを振り向けている、
という自覚は無いんですよね?

まだ分からないでしょうね。何回かやらなきゃ分からない。
出てきてたって、その出てきたものを否認するので。
すぐには本人は自覚しないけれど、
治療的には出てくることに意味がある

内向きになっていたものが外を向いて、破壊性が緩む。
そしてその次には
本来その敵意を向けたかった対象がいるはずなので
そちらに対しての関心を持っていくことになる。

それが分かるためには、まずこっちに向けてもらって
それが転移といわれるものですが。
向けてもらうと、本人の感覚からもこれは誰に向けたいんだろう?
という連想がわきやすいし、治療の可能性も出てくる。

わたしに言いたい事が出てくれば、
そのことと近い感情や
あるいはそれを言えなかった人、言いたかった人の
本来の対象像が見えてくるので、
愛情を取り戻すプロセスに入ってくるでしょ。

(学生)人生の中の類似経験が呼び起こされるというイメージを持ったのですが

そういうイメージですね。
それがどういうラインでみているのかを一緒にみていくと。
そのためには基点がないと
体験感覚がないと思い出しようがないでしょ。

だからまず、「いま、ここで」(Here and Now)体験している感覚で
いっぱい連想が動くようになれば、
そこからこっちも、本来の対象、恨みのある人がいたり、
「またいなくなるんでしょう?」ということが出てくる。
まぁそれもすぐには出てきませんが。

もう本当に無力にさせられる感じになってくるんですよね。
それが、どうしてそんな風にしなきゃいけないのか、ということは
本人が関心を持てるまでは、ずっとそういう体験は続く
しかし本人がそれを使えるようになるまでには時間がかかりますよね。

これが自殺という形で出ることもありますし、
うつよりはずっと軽いですが、
ネガティブアイデンティティという形で出ることもありますね。
「何も浮かびません…、どうせ私はだめな人ですから…」というような
それを延々言い続ける。
それってセラピストを無力に言い続けるということでしょう?

(学生)延々言い続けるんですか…、それはずーっと黙って聞き続けるんですか?

聞かないですよ。こっちでは連想をしています
そうしないと本人がそういうことしているって分からないから。一緒になっちゃうと。
だからこっちはいろんな連想がわいたりして
でもクライエントは「分かりません…」「知りません…」とずーっと言い続けますが
「そういう風にセラピストを否定していく、
 関心をもたないあなたをどう思いますか?」
という風にフィードバックをかける
だからこっちは独立していないと難しい。

それをローウェン的には
「仕返しをしているんですね?」
「私を怒らせたいんですね?」という風にやる訳です。

(学生)負のパワーに巻き込まれそうな気がしちゃいますね。

そうなんですよ、すごく強力ですよ、その負のパワー。

(学生)でも、その怒りや無関心が「仕返ししよう」だった
と本人にも思えたら、それは負のパワーではなくなりますよね?

そうなんですそうなんです。
でもこっちが参っちゃうと困る、というか。

(学生)それまでの過程でしんどくなっちゃうよね。

だからそれをちゃんと吐き出していかないと。

本当になんか犬の身震いじゃないですけれど、
そういうふうにして入っていかないと大変なんですよ。
ものすっごいオーラというか、ドヨーンとした
そこで自分の姿を消さずにいられるか、と
それだけでもうほんとに大変。
うつの人ってそうですよね。

そこにこちらが「これは何だろう?」と関心を持てれば
その人とは話が出来る。
関心を持つ感覚にいつでもなれるかどうか、というね。

(学生)それはクライエントの自我の代理として関心を持つということですか?

そうですね。「補助自我」という言葉がありますけれど。
本人が持っている自我を使えないので、
面接のはじめはセラピストの自我の力を借りて
面接中は、まるで自分で動いているかような感じになっている、と。
それが段々、内在化させていければ良いわけですけれども。
その意味は、初めのセラピストの動きというのは結構能動的じゃないと
簡単に一緒になっちゃう。

*外在化、内在化。
ルターやアウグスティヌスの「私の中に働く神」を
「内在化させた神」という捉えるのはありか?

これはセラピーの初期課程におけるセラピストのタスクですね。
こっちが積極的に自我を起動することで、
クライエントの自我を起動させる。
いろんなところをみられるような空間を作る。
でも初めから乗ってくるわけではないことを前提に。

そこ(治療者の自我)をモデルに、あるいは否定することで
どういうことがセラピーかを分かっていかないといけないので。
だから、セラピストが自由連想をしなきゃいけないということ。
本人はそんな自由連想なんて分からない訳だから。
こんな風に喋ると少し違った感覚が出てくるわ、とか
ここでは何でも喋っていいんだな、とかが見えてくる

特に初期においては、その空間を作るのはセラピストの責任
もう限界が始まるとこっちが触らなくても動くので。

(学生)そういう意味では、ここでローウェンが怒らせているのも
クライエント自身では一人では怒れないから、補助自我的に行っていることですか?

そうですね。本人の自我を使ってやれるようにしようとしていますよね。
ローウェン自身を対象として。
そういう形で「演出」していくんですよ。
それで失敗すれば違うところから出てくるラインがあるかな、と探していく。

全部をこう、一回で何とかなる、と思いすぎないほうがいい。
また次、また次、というのが繰り返されるイメージで持っておくと。
ここには簡単に書いてあるけれど
かなりプロセスがあってやっていること、と。
こんなにすぐに敵意は出てこない。

(学生)先生のお話を聞いていると、
クライエントとセラピストの関係にも大きな渦があって、
だんだん核心に触れていくというイメージを強く持ったんですが
そういうことですか?

そうですね。スパイラルです。
だから行きつ戻りつしながら。段々真に迫っていく、と。
そういう変化です。
30とか続いたりする訳ですからね。

(学生)30年…

その30年くらいやっている人は
今はセラピーをやっている時が一番楽しい、と言っていますね。
自分の人生を語ることがこんなにも喜びなのか、と言っているらしいですけど。
その人はでもすごかったんですよ。人格障害だったんですが。
基底にうつがあって、自己破壊もすごくて
ちょっと言えない様なことも色々あって。
今は異性と親密になる、ということをテーマにやっているのですが、
これって非常に普遍的なテーマでもありますが
いかに愛情を表現することが難しいか、成熟するとはどういうことか。
ゆっくりゆっくりと。本当にスパイラルですね。

でも、自分を見るのが楽しいっていうのは幸せなことですよね。

じゃあ次、この「Suicide and Negativity」の項を全部行っちゃいましょうか

P89(邦訳P96)から
②しかし、抑うつ患者の「情動の死」(emotional dying)は非難に近いものではないだろうか?抑うつは自殺と同様に家族に多大な罪悪感をもたらす。それは「こっちを見て!私は自力ではもう何も出来そうに無い!」という救いを求めた叫びとも考えられるのだ。しかし、私たちが抑うつ患者を助けようとするならば、隠された否定的感情に触れない限り決して支援にはならない。誰も幼少期の愛と承認の欠落を埋め合わせることはできない。そんなことが出来るふりをしてみても、それ非現実的であり、たとえ「あなたもまた私を見捨てた」(You, too, have failed me.)と証明するだけのためでも、患者は相変わらず抑うつ状態のままだろう。

*「こっちを見て!私は自力ではもう何も出来そうに無い!」 
この感じってすごく信仰にいたる感覚に近いような気がする。
自分の無力さを認め本気を救いを求めている。=「患者性」
 
③うつ病患者は意識レベルにおいて、「反応できない」(I can't respond)と言いながらも、回復したいという欲求を示す(proclaiming his desire)。患者の無意識の中には、憤り(resentments)が深く埋もれている。つまり「反応なんかするものか」(I won't respond)というものだ。このような憤りに気づかなければ、患者はそれを表現することができない。表面上、患者はうつから逃れるために何でもするように見せる。しかしそれは足に錨をつけたスイマーに似て、どんなに懸命に浮かび上がろうとしても、錨は患者を引きずり降ろす。罪悪感のオモリをともなう抑制された否定的感情は錨に例えられる。スイマーが錨をリリースすれば、自然に浮上することができるだろうし、うつ病患者の中の抑制された否定的感情をリリースすれば、患者の抑うつ反応は過ぎ去るだろう


*「憤りに気づかなければ表現できない」というのは納得だ。
自分でも驚くような憤りが自分の中に埋もれていたりする。

○罪悪感を消すことの苦しさ

ここで例えられている錨とは罪悪感を伴っている訳だから、
それをリリースすることはとても苦しいことのはず。

とりあえず
自分の中にある否定的感情を身体で感じて、
その感情のもとの喪失(体験)を認める
ということを否定的感情のリリースだと考えてみる。

自分にとっての疑問が残るのは

「私の中に(無意識の中に)怒りや敵意や悲しみという否定的感情は
ずっとあった。そしてそれはおかしいことじゃない。
意識的に感じていいことのはずだ」

と認める段階について。
本人にとってその感情を抑圧してきたことは
生き延びるための適応の手段だったはず。
そしてその適応のために罪悪感や「私が悪い理由」が生じていた。

否定的感情を実感すると、
この罪悪感は自ずと消えるというものなんだろうか?

(これを認知の側面から考えると、
「私が悪いと思わなければいけない根拠はない」と認められること
つまり「不合理な信念」だったと認めることになるだろうか。)

自分がぼんやりと仮定しているのは
「自分に否定的感情があるのは分かった上での苦しさ」
 ローウェンの身体的なアプローチを取ったとしても
自分の否定的感情に気づいて、それを認めることは、
罪悪感を打ち消すことにもなる訳だから
その苦しさがあるんじゃないだろうか。 

本来の感情が戻ってきた以上、
適応のための罪悪感は必要がなくなるし
それを無くせることは良いことのはずだが、
すっと無くなるとは思えない。

その「罪悪感を打ち消すことの苦しさ」というのはつまり―
「私は不必要な罪悪感を抱えていた」(徒労)
「怒って良かったはずなのに、私はこれまで怒れなかった」
「これまで過ごしてきた年月は取り返しが付かない」
というような感じかな。
そしてそれが疑問となってくると
「ほんとうに私は悪くないんだろうか?」となってしまったり。

○罪悪感を「喪失する」と考えてみる

前回のクラスで
「身体が自我のイメージに叶うことに失敗して、
自我が身体に刃向かうことが自殺や自己破壊のもとにある」ということを読み
そのことを「身体の喪失
そしてその喪失感がもたらす「抑うつ」と理解していった。

ここからの類推で考えてみる。

自分がいま仮定しているのは
「自分に否定的感情があるのは分かった上での苦しさ」
=「罪悪感を打ち消す苦しさ」

これはつまり
「感情が自我のイメージに叶うことの必要がなくなって
(=その感情は抑圧される必要がなくなって)
自我が感情に刃向かう」と考えられるだろうか。
とすると、罪悪感を消す、喪失する
=罪悪感によって適応してきた年月の喪失

この「喪失感」やそれに伴う苦しさも認めることが出来なければ
それもまた「抑うつの原因」になってしまうのではないだろうか?
つまり「リリース」自体も「喪失」をはらんでいる。
(そりゃまぁ「解放」という語を考えれば、
何かを失うという意味もあるってのは当然か)

 
○ローウェンの言うリリースとは実際どのようなものなのか・・・

あるいは上に書いてみたようなことは、けっこう杞憂で
身体でその否定的感情を味わうということは、
そのような罪悪感の喪失による苦しみなしに感情を受容して、
その感情にまつわる喪失体験を処理し
否定的感情のリリースへ、とスムーズに行くものなんだろうか?

「うつ病患者の中の抑制された否定的感情をリリースすれば、
患者の抑うつ反応は過ぎ去るだろう。」

というさらっと書かれたことの中身を理解するのが困難だ。 
■■上のことの参考になりそうな、今回のクラスでの先生の話■■
否定的感情が少し上がってくれば二人でそれを検討できる。
それが共有できたら「何でそういう事をするんだろうね?」と
そこでその時に起きていることが見えてくるでしょ?(Here and Now)
(リリースするためにということか?)


でも難しいですよ。否定的感情なんて一切認めないから。
「えーそんなことないです」とすぐに抹殺されていくので。
 
あと、グラウンドの感じね。

私本当に何も考えてこなかったなぁ」とか。
それがすごく淋しさと一緒に出てきたりするのね。

外に全部頼っていると、「自分でしてきた感」がないので、
無力まではいかないけれど、それを突きつけられると
どん底さみしい感じになるのね。
頼れる外のものがなくなると、
内側に自分のものを見出さなきゃいけない
でもそうしようとすると、これまで見てきたことが無いので
「わからない」という恐ろしさになる。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 

抑制された否定的感情は、すべての抑うつ事例に存在するのだろうか?私はそうだと断言する(unequivocal)。この感情は私が診てきた全てのケースで表された。しかしその存在が表れることとリリースすることは全く別のことで、リリースした時にのみ抑うつ状態に対してポジティブな効果が起こる。

(次の学生の翻訳担当箇所)
・無意識の中の否定的感情は自己認識(self-awareness)の土台を蝕むため
 自尊心(self-esteem)が崩れる原因となる
・全てのうつ病患者は、事前に否定的感情の否認(denial of his negativity)
 した上で対処してきた。
・彼らは自分が愛されるに足ることを証明するためにエネルギーを費やしてきた。
・これと同時に幻想の実現に向かうエネルギーは、人生の真の目標である
 快楽と存在の充足(pleasure and satisfaction in being)から逸れてしまう。
快楽に基づくエネルギーの再生プロセスは非常に弱められている
・最終的には寄って立つ基盤(a base to stand on)
  活動のエネルギーを失ってしまった自分を見出すことになる。

なにか面白いなと感じたところはありますか?

(学生)この否定的感情の「リリース」は実感がうまくつかめないのですが。

罪悪感をともなって潜在するという感覚は、
うつになっている人によくある。
自分を責め続けて、亡くなった人の変わりにキャッチできなかったか、とか。
電話がかかってきたのにあの時どうして…とか。
その否定的感情が出てくることでリリースされるという感じがつかめないということ?

(学生)否定的感情が出たら、それがリリースということなんですか?

リリースが始まっている、ということね。
オモリのリリースが始まっている。

ということはつまり、失ったということを認めるというプロセスになる。

(学生)否定的感情を出すという事が、防衛レベルというか、
そんなに本当に自分が駄目と思っていないんだけど
そういう風に言っている。
つまり自己防衛ぐらいだとまだ解放には至っていないということですか?

ローウェン的に言うとエネルギーが伴っているかどうかということと、
否定的感情と言うのは「自分が駄目だ駄目だ」ということとはちょっと違う。

(学生)この否定的感情は他者に向けられているものですか?

向けられているベクトルがはっきりしている、ということ。
「自分が駄目だ」というのは自分を責めていることだよね。

ローウェンが言っているのは
「駄目だ駄目だ」と言いながら誰にそんなに恨みを持っているの?
という方向性。
自分が駄目だと証明したくなる人がいるということだよね。
そうしないといけなかったのは何でなの?というのが次にある訳で。

そうすると、そういうことをやっているということを
そのまま見せないとだめでしょ?
多分見せるだけで怒りは出てくるんじゃないかと思うけど。
「別にそんな事してません」みたいな。
たとえば「先生を意識していませんでした」とか言ってくるかもしれない。

そういうときはもう完全に無視しているわけでしょ?
そんな否定的感情の出し方って結構面白いじゃないですか。
「そうか、ここにいても先生を無視して喋っているのか
 なんだろうね、そういう自分ってどう思う?」(とフィードバック)
そういう風に関わることで、
防衛から少し奥、その子の感情レベルに触れていくことが出来る。

だから「自分が駄目だ」と言う事は防衛で、
否定的なことを言うことで何かを防衛している。
それがネガティブアイデンティティの人には強くある、と。
でもそれと否定的感情の体験は区別して扱わないといけない。
ここで言っているのは、ほとんど敵意とか怒りということなので
もう少しエネルギーレベルが高い。
そこをキャッチすることは治療になりますよ、と。
ネガティブアイデンティティの人にもそこが軸になるとは思うのですが。

(学生)それってアリス・ミラーの
「感情の表現を抑制されると、子どもは内部に溜め込んで
それが怒りとなって表出される」ということでしょうか。
その怒りの表出を防衛するのに、身体に症状が出るということですか?

それに近いと思います。
怒りをなにかしらの防衛的なエネルギーとして捉えている
というのは共通している。
怒りが出せたという事で、
怒りを抑圧する余計なエネルギーを排除しよう、という。

でも彼はもうちょっと奥まで言っていて
抑うつの人が怒る、ということが
どん底の「失った」「もう得られない」という所に
行き着いたときの感覚なんですよ、とも言っている。

それから怒りに触れるという事は
絶望的なぎりぎりのラインのところを扱う感覚としてローウェンは言っている。
そういう意味では、ネガティブアイデンティティの人というのは
底にいけない人たちという事なんですよ

さっきの子の場合だと
全部外に頼り切ってしまって自分で扱えない。
非常に外的志向が強い子で。
ずーっと「わかりません」と言い募るのね
こっちが連想していても。ちょっと馬鹿になったような気分になりますが

色々喋るんだけど、
「喋った後どんな自分が見えてくる?」と聞くと
「わかりません」と。
ニコニコってしながらね。仮面うつだったから。
と、まぁ言いながらこっちを無力にするんですよね。
それで-、あれ何を言おうとしていたんだっけ。
ちょっと(思い出して話していて)あまりにもイライラしてきてしまって。

あ、そうそう、だから
「分かりません」と言いながらどこか頼っているでしょ?
自分がそういえば、先生がなんか言ってくれるでしょ、とか。
そうやって相手を引き出して自分で考えないようにしているらしい、
ということは(やっていく中で)ちょっと分かってきたのね。
意味わかる?

否定的感情が少し上がってくれば二人でそれを検討できる。
だから、そこで私にさせようとしていることが何か無いか?とか
時おり「反抗したい」とか言うんだけど、「しているよね今」ということとか
そこが二人で共有できたら、
「何でそういう事をするんだろうね?」と(フィードバック)
そこでその時に起きていることが見えてくるでしょ?(Here and Now)
そういうことを例えばやったりする。

でも難しいですよ。否定的感情なんて一切認めないから。
「えーそんなことないです」とすぐに抹殺されていくので。
で、また「わかりません」と。
でもまぁそうは言いながらも、
ここでは色々なことを言ってもいいという感じにもなってきているので
段々「もうちょっと自分を愛していいのではないかしら」というようなことも
ポツポツといい始めてもいる。

あと、グラウンドの感じね。
「私本当に何も考えてこなかったなぁ」とか。
それがすごく淋しさと一緒に出てきたりするのね。
なにかやってきたようでいて、自分で何もしてこなかった、と
外に全部頼っていると、「自分でしてきた感」がないので、
無力まではいかないけれど、それを突きつけられると
どん底さみしい感じになるのね。

セラピストとやっていると
ぜんぶ「自分でやりな」と言われるので、
頼れる外のものがなくなると、
内側に自分のものを見出さなきゃいけない
でもそうしようとすると、これまで見てきたことが無いので
「わからない」という恐ろしさになる。
それをまた防衛しようということでニコニコ笑うんですよね。

軽いうつというか、その子は自我の発達が未成熟なので
要するに幼稚なので、自我の使い方を知らないのでそうなっている。
だから厳密にうつかと言われると違うのだけれども
容態としては同じような形で出ている。

(学生)ふたつ気になっているのですが
「相手に考えさせ、自分の自我を使わない」
「自我の使い方を知らない」
それは結局、親と子のかかわりの結果としてそうなるのかな、と

そうですね。その子の場合、ずっとお母さんの顔色を見てきたんですよね。
いい子のフリみたいなことを許してきた環境の問題というのもありますよね。
この子が親のレールだけで自分を作ってきてしまって
そのことを誰も疑問に思わない環境。
「あなた何かしたいことないの?」というような。
だから反抗もさせないという家族の力動もあった。

けれど、そこは本人はまだ全然分からないんですよ。
それはそうですよね。ずーっとそこにしかいなかったんだから。

でもそこにいきなり入ることは難しいので、
セラピーの中では外に出た感覚のほうをはっきりさせることで
(クライエントから)「え、そんなことも考えるんですか?」と
全部わたしは馬鹿にされていますから。
「そんなこと普通は考えませんよ~」みたいな
メッタ刺しにされる訳ですよ。(笑)
本人はだから、他の自分の領域を見ることさえしたことが無いので、
そんなの見せられるだけで嫌なんですよね。
してこなかったことを認めなきゃいけないでしょう?
その辛さがすごくあって。
で、就職でうまくいかなかったわけですけど。

対処能力を自分で育ててこなかったということがやっと-
私が「怒らないの?」というような話をする中で
やっと自分が「いや、本当に何にもしてこなかった」ということを
思えるようになって。
それでもまだまだですけれども。5回か。
だから自尊心のようなものは本当にちっちゃい感じでしか無い。
全部外で埋めるという

お母さんから得られなかったことに対して怒りがあるんだけど、
それを守っているから、お母さんの言うとおりに動く、という形になって。
「言うとおりに動く」って何というはなしで、
おそらく何か遠かったり欠落しているものがあって
それを守っていて怒れない。
怒ると離れることになるから。

そういうのは思春期でよく起こるんだけど
お母さんと離れていくことと、大事にしたいと思う気持ちが両方出てくるので。

ローウェンが言うところの
「子ども時代に得られなかった愛情と承認を与えることはできない」というのは
そこの喪失に関わることを認められないと怒りが出てきにくいですよね。
また、なんで「あの時にこうしてくれなかったの」と怒れることで
その時の喪失を認められる。「もう得られない」ということに直面する。
そこを認めるからこそ、いま得ようとしているものがはっきりしてくるので。
かつてのものをそのまま得ようとすると
「非現実的な目標を立ててしまう」というのが
ローウェンの言っている理屈の難しいところで。

「それはあなたのお母さんではないし-」
「でもそれはもう無いよね」
「それを失ったよね」
「あなたが作っていくんだよね」
という所に立てるようになるかどうか。

そのための、喪失に触れていく時の怒りっていうのはすごく大事
怒らないとちょっとやっていられないから
防衛しながらでも、そこの喪失した体験がそのまま上がってくるかどうか。

また同時に、ローウェンは怒りだけが上がってくるということではなくて
どんな感情でもいいから上がってくるプロセスの中で、
絶望的なところで叫ぶ怒りっていうのが
グラウンディングするのに大事なんだ、と。

それをこっちで与えないという事で
本人がそこに立てるように、ということが治療になる。

こういうのを助けちゃうと「転移性治癒」って言うのね。
その場でその人の代わりをするということ。
でも実はその場で一瞬は治るんですよ。
でもあっという間に、面接から離れたら戻ります。
そうすると本人はもっと絶望の縁に立つという。
こっちをものすごく頼りたくなってしまって、
結局セラピーが治療ではなくて、取り込む場所になってしまうという
これは起こりやすいんだけどきちんと見極めないと治ったと言えない。

(学生)これまでのお話の中で、病態水準について
神経症、人格障害、頭頂失調症というレベルの話がありました。

その人格障害の場合、
一つの症状として周囲を責めるということになるんですよね。
その人格障害のうつということになると、
どうやって、ローウェンの言うような意味での
否定的感情のリリースが行われるのでしょうか?

うん、それはその場にいつづけるしかないよね。
怒りというよりも喪失に関わるテーマ、
まぁ喪失を認められるか、ということになるから。
彼らの場合はそれでやーやー言って、
こっちを同じようにいなくさせるということをするんだよね。
反復させようとする
そこにストップをかけるということからはじめるから
怒りを言われたとしても「よく来ましたね」ということを置いたりだとか
「(怒りを)おっしゃってみての、今のお気持ちは?」というようなこととか
失っていないところにキンドリングしていくことが治療

(学生)ただローウェンの言う、うつの治療原理という意味では
怒りをもって喪失体験を認める(どん底で)という過程が必要なわけですよね

うんうん。でも本人はさ、初めにぎゃーぎゃー言っている時は
多分まだつながっていはいないと思うのね
(怒りが出ても喪失体験とつながっていない)
喪失を見ないようにするために、否認のために怒っているということだから
そこをつなぐのは結構大変な作業なんですよ。

だからと言って怒らせないということにすると、
守れないということになるでしょ?
それがその人の唯一の守り方な訳だから。

だからその守り方をさせながらゆっくりと
「喪失に関わる怒り」であると本人がわかるために
こっちがいなくならないこと、
(潜在的な彼らの企みを)証明させないこと。

だから、すごくしんどい。
ほんとうにその、大きく広く。
だからグループが良いと言われるの。

一人でそのエネルギーを抱えるって大変だけど
グループだといろんな人が見られるから
こちらも彼らも1直線にはなりにくいから。
先生がいなくなるということではなくて、グループがあるということで守られるし
「自己認識の土台」のようなものが養われるところがある。

例えばそういう人たちの目標って
「面接にちゃんとこられるようになる」とかね。
そういうことがテーマになってくる

(学生)そうやって喪失を認められるようにということになると、
彼らにとってカウンセリング/セラピーにいくことが
ちょっと嫌な感じになってくるんじゃないでしょうか。
そうして本当に来なくなってしまった人に対するアプローチってあるんですか?

だからそうね「来ることを目標にしましょう」ということにして
目標を奥のことにしないで、怖いことに触れるようにはしないで
「そうですか、色んなお気持ちがあることはわかりました。
 でも、いまは来ることを目標にしましょう」ということでゆっくり。
すぐにそれで良い悪いがでないようにする、と。
つまり、それもむこうの手だから。
「来なくなったってなったら、どうせもういいですって言うんでしょ」
ということだから。

人格障害の人の場合には
もうすこし大きなグラウンドにしておかないといけない。
(治療者が)すぐはまるから。超嫌になるから。
「いいです、じゃあもう来なくて」と言ってしまいたくなる。
でもそれは自分がそうさせているんじゃないか?と思うと
彼らの力動を考えたら、もっと大きく、と。

ていうのは、ガタガタしちゃうんだよね、
「来ない」とか言われたら、こっちが「やばい」みたいな感じになって。
「来ましょう」(先生の深刻げな顔つき)みたいにすると
もうほぼ…。
そうすると「嫌なんです、来たくない」というのがもっとエスカレートしちゃう。

だから来ることが大変だ、という事な訳だから、
そこでも(うろたえるのではなく)「わかりました」と。
でもそれは「切る」ということじゃなくって
「いつでもいらしてください、
 来ることには意味があると思いますから。じゃっ」みたいな。

こっちからは絶対に切らない
むこうが自分で切っているんだということがわかるようなグラウンドにする
で、出入りができるようにするのね。「分離・個体化」でしょ。
だからたまにはそういうことやるんですよ。(笑)

*あー、このところの言い方すげーカッコイイ! 特に「たまには-」のところが。
このクラスを好きな理由は内容も勿論あるけれど
こういった先生のカッコよさによるところもかなりある。
 
で、「でも戻ってくる場所はあるんですよ」みたいな
そういうの、発達が分かっているとイメージしやすいでしょ

でも、神経症の人の場合はもともと安全空間は持っているとして、
出てきたところで、自立したところから、
今度は自分の中の鍛えが必要という事だから
物理的な空間の安全性はそんなに強調しなくてもよい。
むしろ「中」心の中の安全性を目標にしたほうがいい。
そういう時に自由連想法。
「神経症の人の場合は自由連想法」というふうに言ったりします。

だからね、人格障害のひとに自由連想っていうのはなかなかはいらないです。
「それはどういうことですか」みたいな感じで。
自己愛性、あるいは反社会性の人の場合
それだけで45分使い果たします。

たしかに病態に応じた入り口のやり方は違うし、
目標の置き方も違う、と。

自分が人格障害に近いと-いいですよ(笑)
やりやすいですよ。びくびくしないから。
自己破壊性を持っている人とかどーんと構えていられる。
ま、お母さんみたいな感覚ですよね(笑)
ぎゃーぎゃー言っていても、それをお母さんはくさしないでしょう
「それやめなさい」とかになると養育的に難しくなるが
ぎゃーぎゃー言わせるのも防衛だから、ちゃんと守らせなきゃいけないわけだし。
で「何言っているんだろうこの子は」みたいな感じの感覚
そういうイメージを持っていると面白い。

(学生)分かっているとあんまり、そんなに恐怖感はない、ってことですかね。

そうですそうです。

(学生)恐怖感はなくなっても、ムカついたりとかはすごくありそうですけどね。

ムカつくはムカつくね。
それがパーソナルな反応で、そういうのが起きてきたら
「あ、人格障害っぽい」と思ったらいいのよね。
その時にはちょっと首根っこを掴むような感じでいこうか、とか
ぜんぜんこっちが色んな場所に飛べる、という。

私なんかでも(パーソナルな反応として)すぐ分かります。
視野がすっごい狭くなるような反応が起きてくるので。
「こいつを殺してやる」みたいなことが私の感覚として起こってくると、
人格障害かなと。

*これって自分自身を一つの検査媒体のように扱っているということか。

そういうふうに「人格障害かな」と思うことで
パーソナルな私の反応を、「私はセラピストセラピスト」とセラピストに戻れる。

*検査媒体+セラピスト側の体勢準備、みたいなこともか。

セラピストってなれば(クライエントの言葉は)
ずっと「私」に言っているわけじゃないと思えるし。
「全部自分に言っている」と思うようなヒステリー機制が働いちゃったりすると
転移を扱えないでしょ。それが扱えないとクライエントも辛いじゃないですか。
「(治療者である)私を壊す」みたいなことになってしまって。

でも私は壊れていないし、とか、愛している人がいるし、とか思えれば
メタメタにいわれてもそんなに傷つきはしないわけですよ。

でもそういう時、
エネルギーが強い人の場合は、距離が離れちゃうと難しいかな。
向かってくるエネルギーは強いんですよ、
それを逸らしたり、そらぞらしくしたりするとエスカレートする
だから本当に、何て言うの?あやしながらやるみたいな感じがないと難しい。

ギャーギャー言っている相手と
コンタクトしている感覚をこっちが持ち続けられるかどうかが大事
もう、無視されることにすごく敏感だから。
それこそ「見捨てられ不安」が強いので。
瞬時に怒り始めます。「あ、いま無視した」って。
「そのしらじらしさがむかつく」とか言われますよね。

でも確かにパーソナルな人格をものすごく壊していくという感覚があるから、
でもそれをパーソナルと思い過ぎないことが大事です。
これは転移という概念が教えてくれるとても大事なテーマ
出したい人がいて、それを安全な人に向けているんだ、と思うと
ちょっとかわいく見えてくるというか。

かわいく見えないならやらないほうがいいです。まだ。
「それは出来ない」と宣言した方がいい。
じゃないとこっちが破壊してしまうから。
本人は安全感を求めて言ってきているので
信頼感はあるはずなんですよ。

(終鈴)
やってみようということで、やれる可能性があって、ちゃんとSVがいたら
あとは医者が責任をとってくれるという体制があるとか。
そういうのがあると、それだけで余裕が持てるでしょ?
怖がらなくても済む。
病院でやる安全性はそのへんにもありますよね。

来週はおやすみですね、勤労感謝の日で。

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