2011年10月10日月曜日

人間・いのち・世界Ⅱ-4 科学と宗教

1限 151 
*この日はふざけて授業をうけていたため、まともにノートが取れていない
覆面の下からではPCの画面がろくに見えなかったため。
以下は勘のタイプとその復元のノート。


キリスト教原理主義者の進化論に対する反対
名高いのは、モンキー裁判

しかし猿から進化した、と言うのも乱暴でね、
祖先の系統がつながっている、ということで。

信仰と科学の対立構造。裁判
日本でフリースクールというと、
公立の集団になじめない子や、いろんな事情で登校するのが難しい子に対する
もう少し自由な形の教育の補償、ということですが、
アメリカでのフリースクールは、
こうした進化論を教える教育への反対、宗教的な理由での教育の実践、と。

ですから、アメリカでは、古くからあって根強い、宗教と科学の相容れなさ。
これはなかなか難しい議論でもあります。

しかしこれは信仰と宗教が相容れない、ということではない。

聖書で描いてあることを、科学的にも読もうとすると、6日間での天地の創造など、
私たちにとってはこれが真実だ、と。ファンダメンタリスト

僕は神の創造は信じていますが、進化論と相容れない、とは考えていない。
説明する事がらが全然違う。
聖書は、
私たち自身の意味、ありようについての真理、実存的な意味の問題として読むもの。


科学の方法論とはことなる。
私たち、同じキリスト教ということで、人くくりにされますが、すこしなじまないのです。
原理主義はあらゆる宗教にある。
ある特定の教義、経典そうしたものの、特定の解釈を譲らないひとたち、と。

これは、今おくばりしたコピーの、ある大統領も、そのグループに近い距離をもっていたので、
ある特定の国家を悪の国のようにして、名指しするという乱暴な、
ああいうやり方はまぁよろしくないですね。
たしかにそれぞれの国に課題はあるが、アメリカには課題はないのか?
正義なのか、相手はまちがいで、裁きだ、戦争だ、という論調は原理主義にありがちなことで。

本来は科学と信仰は即対立するものではない。
その関係は丁寧に追う必要がある。
近代の西洋の文化、科学の動き、
キリスト教の一つの敵対的な動き、
キリスト教的な世界観からの自立運動のような形で近代科学は展開してきた。

ここに対立の萌芽も感じ取れる。
つまり、この対立の起こりは
中世から近代へと流れる、西欧の文化。
科学の歴史に基づいたものと、いうことを覚えておかなくては。

キリスト教的一体世界(コルプス・クリスティアヌム)中世の西欧の世界観。
そこで、支配的だったのは、中世のスコラ哲学。
神学=ここでは哲学、真理とはほぼ同じ意味。スコラでは。

このスコラは、頂点はトマス・アクィナス(13世紀の人)
アクィナス、秋茄子
(秋茄子は嫁に-、の話…)
「神学大全」を書いた。

なにをかいたか
信仰的に世界を説自明するんです。
全体の構造を、説明する。世界の
スコラの哲学真理は、世界の真理を明らかにする、と。
信仰的に世界を明らかにする、神学大全。
このもとに、法学とか、医学がおかれている。
その三つは中世の中で、学問として重んじられたものだが、
中でも、神学、哲学が、すべての真理の集大成と位置づけられてきた。

しかしこの、スコラ哲学で、中世が、世界のことを説明してきたことと、
実際の人間の経験、経験。あるいは実験、が次第に合わなくなってくる。
つまり中世までに教会が説明してきた世界と、
実際の現実がかみ合わないものになってきている。

世界観のプリント

地球が丸い、
東に言っても西に言っても、インドに着くはずだ、
コロンブス、しかしアメリカだった、と。

つまり、私たちのよく知っているストーリー
中世末から近代、1492年、アメリカ発見。地球は丸いことも知れてくる。
それと宇宙の関係を考えたときに、
地球を中心とした世界、を、考えている人もいる。
このティコというひとですね。ティコ・ブライエン
その前がプトレマイオス

これをコペルニクスが展開していくのが15世紀のおわりから
コペルニクスは、ルターと近い時代のひとですね。同じ時代。
コペルニクスは、それまでの世界観をすこし入れ替えていく、と。
プトレマイオスのは、ヘブライの世界観とは対立するものだが、
地球の周りに構成があって、点がって、と。

ところが、プトレマイオスの世界観の中心には、地球が中心、と。
しかしコペルニクスは太陽を中心、とした。
水金地火木とというならび、地球の周りにつきが、ということを、
観察から計算で導き出した。
このコペルニクスの理解は、地球中心から、太陽中心へとの展開。
ここからコペルニクス的転回、の語が。

論理的帰結と、スコラの世界観の対立が起こってくる。
こうした、つまり、全く新しい論理的帰結が主張されるときに
中世の世界は、これは断罪するんです。
宗教が絶対的な権威を持っている⇒宗教裁判

有名なのは、ガリレオですね、彼も地動説を称えた人ですが、
断罪されたので引っ込めざるをえなかった。
で「それでも地球はまわている」と。

なかなか
それまで真理として、主張されてきた中世の神学の、真理の説明
人間が経験や実験で導き出した論理的帰結が相反するようになってきている。
=近代の出発点(科学的なものの見方)
理性の導き出す答え、宗教的なもの見方が対立

中世からの、新しい歴史の動きにおける図式。
これは、近代の、合理主義、理性主義、というもので、
それによって、それまでの信仰の世界の説明が、
これと宗教改革、が軌を一にしているのは、重要なポイント。

宗教改革、聖書の読み方、
ルター派ある中心を設定する。中心はキリストなんだ、と。
イエスキリストの救いを伝える
キリストの中心性から、世界を読み解く

信仰の否定、ではない、
例えば17世紀のニュートンは、熱心なクリスチャンなんですよ。
彼らがなぜ科学を大事にしたか
それは
神様の想像された世界をより深く知る、正しく知る
ということが人間の務めだろう、と。

ここでは科学の信仰と対立、というものは本来、ない、ということ。

たしかに、近代哲学の歩みは、理性のはたらきによって、
世界の確認
疑って確認する、ということが理性の仕事

それまで、中世の教会で言われていたことは本当か?と
疑うことの中で正しいものを見出していく。
疑うことばかり言ってしまうと、懐疑主義になってなにもない、ということになるが
方法論的懐疑、たしかなものをつかまえよう、デカルト。

考える自我、出発点
考える我というもの、コギトにおいた。
中世が説明してきたように神様が前提にあるのではなくて、
考えいる我を中心に確認していく。
ただ、デカルト自身も「自分と世界のつながり」を考えたときには、
神を前提に考えている。
考えている世界と実際の世界が一致しているのは、神がいるから、と

科学者が神の世界を寄り深くつかまえるのだ、と。真理をもとめて
そういうまぁ、仕方で、自分たちの信仰を保ちながら科学を深めていったという事なんですが、
しかしですね、このことが進むと、
理性合理主義が、ある意味で、絶対的な、価値であるかのように考えられてくる。

つまり、理性によって理屈が合わないものは本当ではない、と。
これが、理性主義の行き過ぎ、なんですがね。
これが絶対的になると、神なんてどこにいるのよ、と言う事ですよね。

信仰が保ってきたもの、が居場所を失う。
神、永遠の命、
観察できないものは、認められない。

これはですね
ヒュームというひとなどは、経験主義の哲学者
私たちが知りえるのは、経験によって観察されたことだけだ、と。
また、理神論キリスト教信仰の、合理主義的な受容
「創造の後は神は離れてしまった。神は介入しない。」という考え

そこでの法則を科学は突き止める。
それが分かれば世界の理解が-
理性のほうが勝っているんです。つまり、理性が優位に立っている、と。

しかし、カント
こうした理性の科学主義みたいなものの行き過ぎを、批判するんですね。
理性批判の書
三つの理性批判
理性のあり方についての批判。

その、中で、そうなんだけど、ヒュームが言ったことも、
神がいないということではなくて、認識できないということのはず、
なのでカントは「認識できないことは、語りえない」と。ないとも言い得ない、と。
理性は限界を持っているんですよ、と。

宗教的なものを理性によってないと断じることはできない
これがカントの哲学の大事なところです。
この理性の限界という事で言うと、
認識、では神を認識し得なくとも、それで神がないとかは言い得ないということ。

そして更にカントのしたことは
実践理性というものから、永遠の命、神が要請される、といった。

なので、カントは、理性が神を否定しようとしている科学の時代において、
ある意味でだが、つまり世界の成り立ちを宗教が説明するという事では
科学的な物の見方がカぬ任した事の方がもっともらしい
しかし確認できないことまで語ってはいけない、と。
更に実践理性の求めるものとして宗教があるのだ、といった。

でもなかなかここはしぶとくて、絶えず揺り戻しが起こってくるところ。


聖書を字義通りにりかいしようとすること。
逐語霊感―プロテスタントの中にこうした動きが起こってくる。
(カトリックは教皇絶対)

本来は理性や科学が深めることと、宗教の深めることは繰るも間の両輪的なこと。
人間の智慧。賜物。
科学もまた、進歩の中において、
神の創られた世界をより正しく知る、ということが深められていった。

だから、本来的に対立することが必然では無かった。
令して期待率の中で必然と成って言った。
やや複雑な話ですが。
ここまでいいですか?

宗教と言うものはこうした、対立構造を本来は持たないものだと思うんですがね
つまり科学が明らかにすることと、

現代社会、はどういうところに立っているのか、
近代合理主義の創ってきた世界の、行き詰まりを経験している、ということになります。

エコロジカル
カウンターカルチャー
東洋の神秘
陰と陽のエネルギーの交流

オウム真理教、
大きな物語、宗教は物語、科学は概念
ちがった説明の仕方、違った役割

目的、生きる意味
分析すると、何もないということになる。
合理的説明の世界観の行き詰まり。

今日は以上です。

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