2011年10月24日月曜日

人間・いのち・世界Ⅱ-6「マテリアリズムと宗教」

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(6)マテリアリズム(物質主義)と宗教

『アジアの子ども』編集:アジア保健研修財団 明石書店(1994)

・ボクは“エビ”の話から
-日本がエビをすげー輸入している、こととフェアトレード的な問題について
(何人か学生が意見を述べる)
・安い労働賃金による「搾取」的な問題
・エビを食べちゃいけないのかな…


世界の今の問題には、一つ一つの国、そこの価値観とかだけの問題ではなく
システムとしてのグローバル経済の問題がある
その中で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ 開発途上国の問題
*南北問題

物質主義-、私たち、良いものを欲しいと思いますよね。
iPhoneを持っていても4Sが出れば、あーそれを欲しいな、と。
物を買うことで幸せを得ようとする。
しかし、これは個々の物を買うか買わないか、贅沢をやめようとかそういうことばかりでなく、
生活そのものが、このような経済システムに「支配」されている。
(反対語としては精神主義、という言葉もありますね。)

また、もうひとつの問題としては、この「ボクはエビ」にもあるように
マングローブの森林や、海底の開発など、人間の経済活動が環境を破壊している、という側面ですね。
そのことが日本の中で起こっていないから、無関係ではないよ、ということをこのお話は示している。

マテリアリズムの価値観が世界を覆っているという単純なことでなく、
人間の生活、世界のあり方、を規定しているということ。
そのことを、エビという具体的な話から見てみました。


このような観点を拓いたひとは、マルクスですね。
物の世界の成り立ちが世界の成り立ちとして捉えられる、分析される、という観点。
しかしマルクスが初めてという訳ではない、例えばギリシア哲学
ここにはいろんな方向性がありますが、
そこでは「物質」を重視してきた伝統があり、これは科学の伝統を生み出します。

イオニア学派などの「自然哲学」
この世界が「ある」というのはどういうことか、を捉えようとした。
世界がどんな風に成り立っているのか。そのアルケー、根源を尋ねる。
それはタレスの万物のみなもとは水だ、というような視点や
いろんな-

やがて、デモクリトスの原子論がうまれ、(これは論理的にそこにたどり着いた、ということ)
原子の組み合わせで世界が成り立っている、と。
そうじゃなければ理屈が合わない、と。
この世界の成り立ちを考えるのは当時は哲学の仕事でした。
そこから、プラトン、アリストテレス。
物によって世界が成り立っていることを深く考えていこう、という伝統的な哲学の姿勢
があったということ

私たちが今日の世界をみながら、現代の中で、どういう反省が起こっているか。
それは、現代社会を支える「西欧の文明社会」の責任の大きさ。
(この場合、日本は西欧に入るでしょうか)
そこで、東洋的な思想、価値観に対して改めて着目されるということが起きる。

日本の梅原猛は、自然を物として捉える西欧の価値観に対して、
アジアの世界にある多神教、アニミズムの世界観は、自然の中に霊的なものを見出しているので、
西欧文明とは全く違う、と。
(また、日本の歴史における縄文文化の見直し)
照葉樹林文化
(トトロ、宮崎駿の話)
豊かな自然の中で生きていく、という中での精神性

また、そこからの物を物としてしか見ないという西欧文明、とりわけキリスト教文化への批判。
その根拠は創世記のなかの「人間が世界を支配する者として創られた」という世界観
人間は「自然の外側」にいて、自然を支配するもの。

しかし、また「人間の独自性」を捉えるためにはこの視点は有効なものでもある
創世記においても「耕しなさい、守りなさい」ということもある。

・アリストテレス的世界観
ギリシアの古い自然哲学の中には、東洋的な霊的な豊かなものを同時に捉えていく視点があったんです。
タレスは万物の根源は水だ、といったときの「水」はH20とは違うものなのです。
豊かな生命力を湛えた「水」を捉えていた。根源的な水の力、というものをとらえていた。
エネルギーを豊かに湛えていた「水」は、しかし自然を捉えていく中で、
物から分離して捉えられるようになる。
物がものとして成り立っている、ということと、霊的な力を分けて捉えるようになっていく。
例えばピタゴラスの数の原理。
数の世界が、この世界を作り出している、という。
そのことが非常に大きな影響を与えてプラトンの思想が生まれてきます。
「イデアの世界」世界の本質を成り立たせるもの。
現実の世界は「影」に過ぎない。
影の世界と本質の世界を分けて捉え、その上で「イデアの世界」を上位においている。
物の世界に価値を認めない、のはプラトニズムの世界観ですよ。キリスト教ではない。キリスト教においては、神様は「この世界」を作られたのですから。

唯物主義の根源をギリシア哲学に見出すことができる、ということ。
更に言えばアリストテレス。彼は哲学でいうと「形相と質料」として物成り立ちを考えました。
アリストテレスはプラトンを批判します。どこかよそに「イデアの世界」を捉えるのではなく、
本質は、この世界の物の中にあるんだ、と。
自然哲学的な捉え方を回復しようとしている。
形相と質料は別個に存在している訳ではなく、ここにあるものに含まれているもの。
そして、物は常に新たに「形相」をとって、姿を変えていく、と。
木は木であることを成り立たしめる形相が、木材(という形相)になる。そしてそれをもとにして、テーブル(という形相)が新たに-
物そのものが新しい形相をとることで、そのものが質料に(次の物の材料に)なっていく訳でしょう。

ですから、アリストテレスの哲学は、プラトンのように本質を物質の外に追いやったのではなく、
物の中に本質を決めるものがあり、その物は常に新しい形相をとるということで、世界の変化を説明していく。
そうすると、この物の世界は、いつも「制作活動」の中で、物の世界が見られているということ。
となると、この物の中に本質をみているのだが、それは材料にしか見られない、ということもある。
つまり、制作という「人間の業」の中に捉えられるようになっていて、
自然、が材料に貶められている、という側面。
なので、自然の中の豊かな霊的な力、というものは失われ、
人間の制作活動を中心に物の世界を見ている、と。
この世界観はキリスト教の神学にも強い影響を及ぼしました。
だから、西欧文明の世界が、自然を搾取していくという「物質主義」を徹底させることになったんじゃないかと
ということを細やかに見ていかないといけない。

この分析の観点を提出したのがマルクスです。
人間の精神活動をも規定していく経済活動。
人間本来には豊かな精神世界があるが、その精神には経済活動からの規定が行われている、ということの分析
「唯物史観」このことは、マルクスが世界をただ、物として見た、ということとは違うことなんです。

いくつか複雑な話をしてきましたが、いいでしょうか。
ここから「更に」があるんですよ。

●マテリアリズムの宗教批判

で、宗教ということと、この分析のマルクス主義の関係
(複雑ではあるのですが)
マルクス主義は唯物主義です。
彼以前のフォイエルバッハのほうがより強く打ち出していますが宗教批判、を行います。
「阿片」の比喩ですね。

どうしてか、
実は、人間が生活を営む中で、それが深まっていく中で、
(生産手段の発展の中で富が生まれ、貧富の差、支配関係、階級社会、資本主義、人間の支配、人間活動からの疎外)

共産主義社会の成立においては、
支配構造にたいする「自覚」が欠かせない。
どうして自分たちに痛みがあるのか、という自覚、気づき
しかしそれをやわらげてしまうのが宗教だというのがマルクスらの考え方
この世の問題に自覚的になれない。
天の御国がやがて、とか、苦しみを神様が見てくださっている、とかそういうことが、ですね。
それが自覚を阻むものになっている、と。
精神分析とのつながり

アメリカ奴隷制とキリスト教の関係
奴隷制を肯定する聖書の引用―諦めを強いるような使われ方。
このようなことはキリスト教の歴史にたくさんある、
しかしそれがキリスト教の本質かというと、そうではない。
隣人を助ける、苦しみがあるところでの神の御心を自覚、
それにいかに取り組んでいくのか、ということが
キリスト教の「神のまなざし」の定義するところなので
深い分析をしながら、より大事にしなければならないものを捉えていく、ということも宗教の働きです。

西欧の文明社会のマテリアリズムとアニミズム的なものの対立が構図としてはしばしば描かれます。
が、事態はもっと複雑なのです、ということを分かっていただくために今日は

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