2011年10月9日日曜日

【本】川上未映子、精神分析に勧誘される×斎藤環

・六つの星星 ―川上未映子対話集―
 川上未映子=著 文藝春秋(2011




◆川上未映子、精神分析に勧誘される ×斎藤環


●男性には身体がない
P10/
斎藤)ご存じのように精神分析の文脈では、ペニスというのは非常に特異な器官なんですね。自分の身体であると同時に、決して自分のものにはならないような空虚で象徴的な器官なんです。自分にとっても一種の他者であって、これは操縦するだけのものではなくて、むしろ自分を操縦する別の主体みたいな位置づけになるわけです。
(略)

斎藤)たとえば最近よく腐女子っていいますよね
川上)ええ。
斎藤)彼女達はまさにそういう表現をします。つまり、やおい物に萌えるわけだけれども、そのときに彼女達の一部は「魂のチンコが勃つ」と言うわけです。

P13/
川上)(*男性と女性を)比べるとそうかもしれませんが、(*いくことは女性にとって)必須ともいえるんじゃないですかね。だって女性もいくことだけを目的としたマスターベーションをしますし。でもそのあたりのことで男性が不自由だなあと思うのは、女の人がいかないと納得しないでしょう
斎藤)そうそう。仕留めた感がないわけです。

P14
斎藤)精神分析で言えば、ファルス的享楽他者の享楽というのがあって、男性はファルス中心に欲望が構成されているので、ファルスで完結しちゃうんですよ。女性の場合は、他者の享楽と言って、これは自分は必ずしも性の主体でなくてもいいと。享楽の主体を誰かに譲り渡しても気持ちよければいいみたいなところが。
川上)すごい高度なテクニックが必要な気がしますけどね。

●母と父というもの
川上)私は自分の書く文章はいつも失敗していると思っていて、書く段に移るのが恨めしいくらいにしんどいですね。純粋創作というか、創作といえるのかどうかわかりませんが、書く前が一番贅沢なときです。言葉にするのがほとんど厭で、仕方なくこの形を取っているというような感じもすごくするんですよ。
斎藤)仕方なく?それは詩のほうが書きやすいとか、そういうことではなくて?
川上)詩はもっと、言葉そのものに拠っているといいたくなります。小説よりももっと目論見が意味を持たなくなるというか。もちろんそこに、まずある言葉を置くのは私の仕業ですけれど。詩は小説に比べて非常に享楽的だと思います。あくまで比べて、ということですけど。
 でも言葉ってやっぱりすごいなと思うのは、たとえばカウンセリングとかでも、それは嘘であっても治れば本当だというところがありますよね。今まで輪郭がはっきりしなかったもやもやがはっきりしてしまうことで、事実として固定されてしまいます。「あ、あれはこういうことだったんだ」と良くも悪くも納得できてしまうでしょう。単に生きるということは、問題がずっと増えていくだけであって、もともと解決されないことの蓄積なんだとしたら、言葉の固定によって新たな問題が出現してしまうことをとりわけ恐れることはないんだけれども、私にはこの問題があるんだということを意識させられてしまうと、事実はさておきそのこと自体に左右されてしまいますね。私の場合だと、子供を生む生まないに関しても影響があったりもします。
斎藤)そのことは以前からおっしゃってましたね。
川上)そうですね。恐ろしかったのが、岸田秀さんがお義母さんの写真をアルバムではがして破いて燃やすことを書いているでしょう。あれは本当に読まなければよかったと今でも思っています。

P19)
川上)(*問題なのは)私が記憶しているそれぞれの時点での母というか。トラファルマドール星の、その時々の母が問題なんですね。思いだす、というのとは少し違う感じだと思います。なんか遍在してるんです、かなりくっきりと。
斎藤)『スローターハウス5ですね。僕もヴォネガット好きなんで言いたいんですけど、あれはフラッシュバックの話だと思っているんですよ。PTSDの。
川上)ええ。
斎藤)いろんな過去が断片的に現在形で生々しく蘇ってくるということですよね。ヴォネガットが書いた当時は、ちょうどPTSDが発見されて、その治療とか理論が定立しつつある時期ですから、そういった意味ではすごく象徴的にも読める話だと思うんです。



●逆支配の構造
P21
斎藤)ただ、それこそ岸田秀さんみたいに、母息子の葛藤にあそこまで縛られる男性はけっこう珍しいと思うんですけど。

P25
川上)ところが、私の場合、そういう「母の生き直し欲」みたいな圧力というものは全くないんですよね。
斎藤)それがむしろ特異ですよね。
川上)逆に私のほうが、お母さんがいるから子供が生めないんじゃないかとも、思います。
斎藤)ああ、なるほど。
川上)子供にしてやれることがあったら、全部母親にしてあげたいと思ってしまいます。
斎藤)それが大きいんでしょうね、やっぱり。しかし、それにしてもお母さんのために我慢していることがずいぶんあり過ぎませんか。
川上)我慢というか、できないんですよね。したいと思えないんです。
斎藤)そもそも欲望が出てこないと。
川上)たぶん、出てこないですね。
斎藤)あえて言いますけど、それもやっぱり逆支配のような形で、お母さんの影響が大き過ぎるんじゃないでしょうか。
川上)大きいと思います。子供を生めないなあと感じる理由はいろいろあるんです。もし自分が娘を生んで、私みたいに母親を思うようになればこれはもう不自由すぎるから厭だなという単純な気持ちもあります。
斎藤)そこまで意識されているんだったら、逆を行くという発想もあるんじゃないですか。あえて自己中なお母さんを演じて子供に嫌われるような形とかですね。
川上)そうですねえ。でもこれもまたややこしくて、ちょっと話がそれますが、一人で生みたいという気持ちもあって。
斎藤)単性生殖ですか(笑)
川上)生むのも育てるのも、母親ひとりで、というよくわからない理想というか先入観があります。(笑)。普通に父親が機能している環境で子供を育てる選択をしてしまうと、私の母親を否定してしまうことになると思っているところがあるのかなあ。だから普通の家庭をつくれないですねぇ。やっぱり母親をすごく否定しちゃうような気がして。
斎藤)否定しちゃいけませんか。
川上)いいんですよね。でも、それに対する嫌悪感があるんですよね。
斎藤)否定する自分に対する嫌悪感ですか。
川上)うーん、どうでしょう。たとえば「お父さんが大好き!」とか言う女の子にぞっとするんです。分かりやすいですけど。「お父さんみたいな人が好き」とか言うのを効くと身の毛がよだつというか。逆もそうですね。だいたい人間って子供ができると数年の間、もしくは一生、気がおかしくなるじゃないですか(笑)。そうじゃないといけないんでしょうけれど。溺愛って見ていてちょっとこわいですよ。自分もそうなるかと思うともっとこわい。生まれてくる生命とか子供とかって無条件に崇高でかけがえのないものだ、それが当然である、だから君もそうせよ、みたいな考え方に対する反骨精神みたいなものがありますね。
斎藤)反骨(笑)
川上)これはほんとに反骨でいいと思うんですよ。単なる言いがかりですから(笑)。

*いやー、わかるわ・・・


2011年12月1日
川上未映子、阿部和重と結婚!びっくりしたなー
 いや、どうなるんだろうか・・・
 
(この対談の収録は2008年11月15日)

「2人は2008年に知り合い、今年1月から交際をはじめました。
入籍には否定的だった川上さんでしたが、
阿部さんの「求婚の舞」に心が動き、結婚を決意したそうです。
川上さんは現在妊娠中で、来年初夏に出産を予定しています。」


●心配性と創造性
P27/
川上)(*マッサージの快楽と表現の快楽の違い)表現はぎりぎりのところで自分とは関係がない、と言う感覚が強いんだと思いますね。もちろん私が書いたり歌ったりするし、この人生の一部から出てくるものなんですけれど、言葉はそもそも、そういった、なんというかちゃちなものとが辿り着けない領域のものだと思っているところがあります。
斎藤)ああ、よくわかります。言葉ってそもそも他者ですからね。使っているつもりが使われてしまったり。精神分析的にも、言語システムは「大文字の他者」なんて言いますし。言葉という他者の場所は、母の支配からの一時的なシェルターなのかもしれませんね

●哲学と文学の中間で
P31
川上)(*新作について)殺人とか、他者に決定的な迷惑をかける話じゃなくても、たとえば不特定多数とのセックスをしてみたいけれども、植えつけられている倫理でそれが絶対にできないとか、それを支えている善悪の型があるじゃないですか。もうそれに組み込まれているから決して客観的にはなれないんだけれど、わたしはそういうのがなんか厭なんですよ。もちろん人生が無根拠だから、無根拠自体が厭といっても仕方ないんですけれど、停滞しているのが厭なんです。
斎藤)はい
川上)今度の小説では、そのしばりみたいなものが、一瞬でも全なしになる瞬間を書きたいなあって思っているんです。あらゆる価値判断が効力を失うような瞬間ヴォネガットとかもずっとそれをやってるような気がするんですよね
斎藤)そうですね。絶望のさなかの幸福とか、決定論的世界における意志とか、価値の底が抜けた世界における倫理とか、そういう絶対的な逆説の可能性が彼のテーマですよね。「愛は負けても親切は勝つ」って名言は、そういう逆説を背景にしています。

●書くという享楽ゆえの苦しさ
・「完璧な本」―絶対ない(実体をもたない概念)-ロマンティック-感との統制的理念-抑圧-端から負けてる勝負-差異が厭-認識がなくなる-西田幾多郎の「純粋体験」-悟り自体がなくなるというか-忘却も忘れた忘却-頭を使いながらそこにいく

●最大の制約がもたらす最大の自由
P44/
川上)だからもう最初からおかしいでしょう。でも、最初から死ぬってこと分かりながら生きるってことが矛盾ですね。死に向かって生きてるなんておかしいですよね。私、子供のときに、暴力的だなあって思ったんですよ。システムとしてね。だからそれは私、自分もそこに加担できないという気持ちもありますよね。根底では、そんなシステムには一役買えないみたいな気持ちがあります。自分だけは点でいたいみたいな気持ちがあるんです

P47/
川上)例えば言葉にすることで、なかった問題が問題になってしまうということはありますよね。多いですよね。
斎藤)ええ。多いですね。
川上)それを言葉として「問題である」、と認識する人と、そうじゃなくて何か体に出る症状とか、はあるんだけれども、そういう訳の分からないものをそのまま抱えてる人と、どっちがいいとおもいますか。
斎藤)言語化されない葛藤が体に出ちゃったら「心身症」という病気になります。心身症の治療はまさに、無意識の葛藤を言語的認識に変換して、それで体の症状が消えるのを目指すわけです。アレキシサイミアといって心身症になる人は、自分の感情をうまく理解できないことが多いんですね。自分の中に生じてくる感情を直接に言語化できないから、それが結局、口内炎とか胃潰瘍とか、あるいは摂食障害になったりとか、いろんな症状、すなわち身体言語に変換されるわけだけれども。
川上)でもいよいよ、なんというか、言語化がそこまで分かりやすく徹底的に身体作用するとなると、―もちろんすべてうまくいくとは限らないし、悪化する場合もあるにせよ、分かるけれども、それでも言葉がいったい何だっていうんだよ!って腹立たしい気持ちにもなります(笑)
斎藤)難しいですね。言葉と言うのは、使えば使うほど使われてしまうところがあって。でも言葉を使うということは、必然的にある種の不完全さを抱え込むことになるので、それはそれで厳しい状況ではあるんだけど、妙な一体感幻想や肯定的幻想を背負いこまずに済むというメリットもあるんです。最大の制約を引き受けることで最大の自由が実現する、というかそういった意味では、ニューエイジにも行かず変な症状も抱え込まずということで、川上さんの場合は切断的で明晰な方向性を維持していると思うんですよ。それはそれで苦しいですけどもね。でもやっぱりその場所に踏みとどまって、さらに尖鋭なる言葉を繰り出していただきたいと思います。
川上)宗教のお誘いがたくさんきたりしますが(笑)、なんとかこのまま頑張りたいと思います。
                            
20081115日、千代田区の文藝春秋にて収録)

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