2011年10月24日月曜日

哲学と論理‐6「ブッダ-3」

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(先週の質問へのフィードバック)

?諸法無我とは?変わるものがあるから、変わらない、といいえるのではないか?
前回問題にしたのは「私が入り込んでいる世界」について。
前回のたとえで言うと、金木犀が散ってしまったことを感じている私。
その香りを通していろんな物が私の中で呼び覚まされる。
観察者としての私が別個にいるのではなくて、その変化を被る私。
単なる主客の関係ではなくて「相互作用的な関係
その中で始めて私、や世界、を取り出せるの、
という世界観を仏教は提示しているのではないか。

ということからすると「私という固定的」な立場を言えるかもしれないが、
その立場からでは世界をリアルに感じることはできないのではないか、と。

?一切皆苦、諸行無常とはいうが、悲しさを。
「これでいいのだ」というバカボンのパパ的な感覚じゃだめなのか?

「これがいい」ではなく、「これでいい」というのは良い意味での「諦める」ということ。
今日の授業でも「四諦」という形で取上げたいと思いますが。
いろんなことに、なんで○○できないのか、という現状不満を、執着を手放す、
これはまさに仏教的なのではないか。

?現世にいるときには前世の記憶はないのか?
前世の記憶、それはあるかもしれません。ないかもしれない。
ただ、仏教の魅力というのは、因果の連鎖からこの世を見るのではなくて、
そこから放たれたところからの視点

?悟りとは?
前回いったような、諸行無常、諸法無我をわかっていない状態から生じる無明(煩悩)
それを体感していくこととしての悟り。

?肉欲を捨てるという事は、世の理から外れるのでは?
肉欲そのものではなくて、そこへの執着を捨てる、ということ。
相手を自分の思うとおりにしたい、というような感情
あるいは所有物であるかのような感覚。
物理的なものに支配されるな、というようなこと、これはカントの「自律」ということ
つまり、物理的欲求、いわゆる肉欲的な、性欲、食欲、そういうものに支配されるということは
物理的なものに支配されていると。
因果的な、自然法則的なありかたからの脱却がカントの言うところの自由。

これはブッダのいうところと同じ。
ブッダはたんに肉欲を捨てよといったのではなく、
その根源としての「執着」を捨てよ、と。

M フロイト「人間は宇宙の中心でも、他の動物に対して特権的な存在でもなく、まして自分の家の主でさえない」(精神分析入門)

?お前は誰かとブッダが問われたら?
考える主体、ということ。
私の考えというようなものをよく考えるならば、
既に与えられたもの言葉、で考え、積み上げられてきた思想をもとに考えている。
自分がオリジナルで生み出したことなどこれっぽっちもない、と。
変わらない私の、オンリーな考え方がある、ということは=主観主義的な。
私が考えているということも、既に与えられた枠組みの中にあると言う事を見つめる、
という事をブッダはいっているのではないか。
ブッダは「私を中心に世界を見る」ということを問題にしているのではないか。
M 原罪
M フロイト「自我は真似る」
ラカン派「人間は『私は私が何かを知っている者である』と言うことができる。しかし、彼はだれが「私」なのかは知らない。人間において意識は主体から疎外された自我と、根本的に彼を逃れてしまう知覚の間の一種の緊張である。すべての知覚は幻想のフィルターを通して行われ、いわゆる客観的な知覚なるものはもとより不可能である」「自我は他者である」(精神分析事典)


・私たちの生き方、苦しみは相対的な物の見方では解決されない。
しかし、ブッダはキリストと違って、布教をするというタイプではない。
なんであなたはそんなに悩んでいるのか、と問うことはない。
既に苦しみの中にある人にとっては病院的な役割があるのが仏教だが-
それが明確になっていない人にとっては関心がもてないのかもしれないが。
*直面化

・ブッダの生い立ち
与えられたものすてることの苦しさ。という視点。
自分が高い身分、出家する、国も家族もすてて
これはキリスト教においては、
ガラテヤの22節-神の身分でありながら、へりくだって馬小屋で生まれた
というようなイエスの捉えかたと近いところがあるのかなぁと。

・五蘊-我はこの集合でしかない
(物質・肉体)
(感受作用)
(イメージを抱く表象作用)
(行動を起こす意識作用)
(五感からくる情報をまとめる認識作用)
*ゲシュタルト心理学の反対

実体としての私
=世界の中心にある私
を、ブッダは否定している。

なぜ?というのは世界の中心に自分があるからこそ生まれてくる問いだ、とブッダは
*M 神の沈黙

・ブッダは苦行をやってもだめだ、と気づいて(35歳で悟りを)
スジャータからかゆを貰って静養して、丸一日瞑想した128日悟りをひらいた、と。

?自分がここにいるのは、偶然ではなくて、全て意味がある、と思っているが?
M これは自分の考えとは正反対だな。

人生の意味を感じられない、という考え方、
現実から目を逸らしている、という事にはならないか、と。
真理から目をそむけてブラックボックスを作っているだけなんじゃないか、と。
フランクルの「人生が何を自分に求めているか」という発想転換の体験。

M ここでいま言われているところの「自己中心性」からの脱却(できる)という考え方。
北森の原罪とらえかた(狂った弓)、或いはルターの「私は常に罪びとである」とは反対なのか?


では、今日のクラスに入りましょう。
今日は仏教の、ブッダの最終回です。
悟りと、教えを説くということ 初転法輪(四諦/苦集滅道)

諦めきれないといいながら、手放していく。
(ブルーハーツの歌の話)

『諦めきれぬことがあるなら/諦めきれぬと諦める/諦めきれぬことがあるなら/
 それはきっと良いことだ/泣かないで 恋人よ』
この歌中学から高校にかけて何回聞いたか。久しぶりに思い出した。
けど―これって手放すって意味になるのか?
諦めきれない、という、ある意味では苦しさとともにある覚悟ではないのか。



四諦
・苦諦=生きることは本質的に苦である真理
・集諦(じったい)=苦の原因は煩悩・我執があるという真理
・滅諦=煩悩を消すことで苦が滅するという真理(解脱)
・道諦=煩悩をなくし涅槃に至るための方法(八つの道)中道⇒八正道(はっしょうどう=八聖道)

M「解脱できる」という考え方こそが、真理から目を背ける事じゃないのか?
そこで解脱できなくとも、苦しみとともにあるという事が-

中道=2つの極端を乗り越える正しい道 

八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
正しく見られれば、正しく考えられるし、そうすれば正しいことを話せるし、正しい行いを為せる…と。

M いや、こんなこと実際はできねーよ、という意味では、ブッダの教えであろうと、実際には
「苦とともに生きていく」ということになるのだろう。しかし、これは苦とともに生きる方法を教えることではない。(=救いはどこにもない)。特にこの八正道に至っては、律法的な、あるいは手持ち無沙汰解消チックな。
でも、その果てしない理想は真に理想なのだろうか?
苦は苦のみなのか…?そこに「苦の機能」だってあるだろう。
この考え方では、実際に解脱するまでは、いわば「救われない」ということになるのだろう。

ま、自分自身にとっては、救われるかどうかという問題よりも、人間は独力では救われることはできないのだ、という考え方に救われる可能性がありそうという意味で、まだキリスト教にシンパシーを感じる。自己中心性が罪であることを知りつつもそこから逃れることも出来ずに生きていかなくてはならない、という原罪の性質。

ま、救いがあるにせよ、なかったにせよ、
結局、天の国、ニルヴァーナを求めようってのがなんかむかつく。
つーか、あれか、苦しみから遠ざかろう、という心に、既にちょっとなんか違和感を。

ヤマギシ会の特講のことを考える。「無我執」=自分を守るすべを手放すことでもある。
苦しみ(煩悩・我執)は現世において自分を守るものでもあるのではないか。
だからこそ原罪でもある、というか。




では残りの30分で
*プリント『ダンマパダ(真理のことば)』より
アフォリズム的なもの
・三帰五戒(三宝(仏・法・僧)を敬い、

・よりどころは自分
百六〇「自分こそ自分の主である」
*んー。フロイト
自分が、苦しみを生み出さなければ苦しみはない、のか。?

・「原因をとりさる」という表現
*とりされる、という発想

煩悩を捨てよ(煩悩の根本・無明からの脱出)
*でも、捨てた後の、ベースの状態の人間ってものがそんなに完璧なものとは思えない。

二二三「怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみに うち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て」
(大谷大学の話)

・私とは何か
汝の正体はみられてしまった-

5)道元のことばと宮沢賢治「手帳の詩」
道元『正法眼蔵』
「仏教をならふというは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」
*こんな風に忘れられたら、現世においては死んじゃうんじゃないの?

*つまり、自分が考えているのは
「忘れたい」と思いつつ「忘れられる」とは決して思わないということ、か。

忘れたくないわけじゃない、
でも忘れてしまえば現世で、他者とかかわりながら生きていくことは出来ない。
(或いは、自我の世界から出てこられなくなる。他者と交渉を持てなくなる)
だから苦しみながら生きていくほかはない。苦とともにある、という生き方。
そこにある原罪っぽさ。

苦とともにあることを諦める。=苦諦
ここは、分かる。
集諦、これも分かる。
問題は「滅諦(解脱)」からだ。

・十牛図
-「すべてを平等視して生きることができるようになりました」
-世界がありありと
-自然が回復
-「我と汝」(ブーバー)として再び、人間の世界で生きていく

京都大学で流行っている十牛図
自己の現象学としてこれはつかえるんじゃないか、と―

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