2011年10月5日水曜日

英専3-Depression and the Body

1限 151 *9:01着 でも先生もついたばかり
Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality


取り違え―置き換えのメカニズム。
理由はひとそれぞれ、それが力動と呼ばれるもので、個人のパーソナリティ

(愛をもとめつつも、仕事の成功にそれを置き換えて、
成功しそうになって抑うつ反応をおこす、という場合)

置き換え、リビドーの快楽―「置き換えてないとやってられないでしょ」
愛が求められなくとも、「エネルギーは必ず対象をもとめるものです」

欲求っていうのはわからないもの、なぜなら無意識の世界がある、という事だから。

だから、求めなければ求めないで済む
(臨床心理学の射程に「よりよい人生」というものも含まれていて

・にせのアイデンティティ
シュード・アイデンティティ(pseud identity)
(演劇人の話)

・奥にあるものに触れる
そのために人格構造のチェックは必要なんだよね。
統合失調症など「枠が薄い」人が、すぐ触れていくことがどうなのか、と。

奥に触れる力と、そこと行き来する力ってまた別
まず、自由に触れられる力があるひとなのかを見ていく。
統合失調症の場合はまず、自分が「ある」場所を感じる、理解する、ことが先で

基本的には、奥に奥に、ということで催眠法があった。
でもフロイトは、自分たちで無意識の世界にいけるひとがいると、
自分で行かないと危ない、と。(神経症レベルまでの人は)
つまり、自由連想法で。言葉での行き来する。

ここでは、統合失調症の人は、それは無理、ということになった。
(フロイトは自己愛神経症といいましたが)

そうしてわけたところに、境界例というものが出てくるわけですが。

1970年代、
言葉だけでは奥にいけない人がいる、と。ライヒらが。
ローウェンもそこに関わっていると思うんだけど。

(セルフ「自己」という概念―いまは自己という発想がありますが―)(ヨガの話)
セルフ・サイコロジー
セルフの感覚と自我が遊離してしまうことがある

ゆったりするような感覚、横にワーッと広がるが、奥に行かない。
そこの統合をライヒやローウェンらはつなごうとして「身体」ということにいったんじゃないか。

奥を見ようとすること、見ようとしなければ見られないし、
それが安全空間のもとでなければ、危機を感じることでもある。
そういう意味でも、心理療法は「契約」が必要。
やっぱり人間は快楽原則で生きているから、
そうした防衛や鎧をカットしてつながろうというふうには中々ならない

(抵抗、というのはそういうこと)

・エネルギー交換感覚


私も結構「自我指向的」なので、話がそういう方向に行きがちですが
(教室内でのグループ力動の話)

・ライヒの「性格分析」
ライヒは表に出てくるあらわれを大切にしている。

・「悲しさ」を指摘すると、感じ方が変わる
その「瞬間」が本当に大事。
キンドリング(火をくべる)=Kindle
こっちが受身的では全然できない。一緒にいようとする姿勢が常にないと
彼らの波の頂点で「声をかける」ということがないと。
これは考えてできるものではない。それでは、通り過ぎて伊しまう。

(フライトプランの話―サイコセラピスト)
ナッシュというドラマ。サンフランシスコの警察の話で
PTSDにならないように、はい、じゃあセラピストのところいってらっしゃい、的な。
淡々と直面化にもっていくのは、かっこいいなと思いますが。
声だけ出てきて、姿は現れない。)


3章(P77の最後の段落から4段落分)‐自分の訳出割り当て分

 サイコセラピストたちは以前から、患者が泣くか怒るようになる事が抑うつ反応の支配を打破する、ということを知っていた。抑うつ反応が喪失感と結びついている場合には、泣くことがより適切な感情(emotion)だ。フロイトは(彼はより深刻な形の抑うつ反応の現れであるメランコリーを研究した人であるが)彼は悲嘆(grief)の表現を抑制されることがメランコリーの原因だと考えていた。幾つかの事例では、患者の深い悲しみは、人生の早期における重要な愛の対象喪失にまでさかのぼる事ができる。後に、精神分析家たちは、愛する対象を失ったことによる欠乏(deprivation)状態で、怒りや憤怒の情を抑圧してしまうことを、抑うつ反応と結びつけて考えるようになった。私は、どの感情が表出されるかはたいした問題ではないと考えている。つまり多くの場合、うつ状態から人を引っ張り出すには、どんな感情の表出でも十分なのだ。

・(先生)セラピストの「いかにも泣かせよう」的な態度

感情の表出―ゆらす―というのは「エネルギーの感覚を取り戻す」

揺れると、人間誰でも危険になる。
しかし私はそれは「揺れるべきもの」ということを考えているのでそこまで危険視はしませんが。

(学生)先生の、カサブランカのダイアローグの話
「色んな情緒で遊んでみる」ということ。

 抑うつは、「感情の抑圧」が原因なのだから、抑うつそのものが感情の一つとは考えられない。これは感情の欠落を表している。つまり抑うつは本物のフィーリング:感情(feeling)ではないのだ。人は抑うつをフィールする:感じることはない、したがって、抑うつを本物のフィーリング:感情、たとえばブルー(これは悲しみや寂しさなどの要素を含んだ状態である)のような感情と取り違えるべきではない。感情や情緒は、外界の出来事に対する有機体の反応(responses)である。抑うつ状態においては、反応すること(responsiveness)が欠如しているのだ。感情(feeling)は外界の状況の変化に伴って変化する。これは、有機体がさまざまな形で反応をすることの原因である。例えば、良き仲間は、ブルーな気分から人を引っ張り出してくれるだろう。しかしながら、抑うつ状態にある人は、相変わらずそれに反応できない(unresponsiveままなのだ。

emotion-情動、 feeling-感情
・反応性、ということ。

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