2011年10月19日水曜日

近世史との対話-4

4 151教室 *1500から出席

プリント―岡崎勝世の「中世ヨーロッパ史の概要」


1453年、東ローマ帝国がオスマントルコにより滅ぼされる=中世の終り。

○前回の復習

2.ルネサンスの始まりの時代的背景
14世紀(危機の時代)
1)ローマ・カトリック体制の動揺(教皇権の衰退)

1309年 教皇のバビロン捕囚
その後も大分裂(シスマ)カトリック教会は分裂の時代が続く。
教会体制はかなりぐらぐら

この教会体制のぐらつきの人びとへの影響
→社会不安

しかし、危機の時代だからこそのピンチはチャンス的なことは起こるわけで
→カトリック体制に捕らわれない文化形成のきっかけが与えられる、ということも。
このころから「教会改革」の動きも起こっていますし
聖職者と信徒との「信仰共同体」が生まれてきたり
(宗教改革への萌芽)
ペトラルカのキリスト者としてのあり方と、方向性にも、
それまでの中世の人との発想の違いは現れてくる。

では、今日は先に
○2)ペスト(黒死病)
大変な時期と言うのはいろんなことが重なります。
14世紀危機を象徴するもうひとつの大きな出来事は、
感染症の流行、
これ、なんで「黒死病」というかご存知ですか
=黒い(黒紫)斑点が出来るから‐死期が近いことのあらわれ

ペスト流行の第1
13481350
当時すでに東ヨーロッパではペストが流行っていた。
とすると、それが西側に来たのは誰が持ってきたと
誰が?
東西貿易の拠点=イタリアの港町(ジェノバ)商人たちによって持ち込まれた

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【放送大学 ヨーロッパの歴史と文化7 中世末期の社会変動】
ペストの病原菌はヒマラヤ山脈、クマネズミの蚤を媒介に。明からシルクロードにそって黒海までここからジェノバ商人のガレー船に乗って地中海世界まで。

1347年に黒海のカッファの港から、134712月にはマルセイユ、その後どんどん北上。
13486月には南フランスからパリ、イタリアの全域
134812月ライン川、ドナウ川流域
13496月イギリス、
134912月北海を越えてスカンジナビアの一部
135012月 最初のカッファから3年で欧州ほぼ全域へ
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当時の欧州の1/3の人口が失われる(20回以上にも及ぶペストの流行)
この後ようやくルネサンスが花開く、と。
(死の舞踏‐再生のイメージ)
ボッカッチオ『デカメロン』-ペストで町から避難していた人の百物語的な話
このデカメロンの冒頭には、ペストがいかに当時の町、人に打撃を与えたかが、描かれている

・ペストは当時の人びとの死生観に大きく影響をしたと見られる。
現実におこる大量死を経験するということは、「だれも現実のを避けられないんだぞ」と
→虚無感や絶望
そうしますと、逆に生のはかなさを実感せざるを得ない

ペトラルカも-ペストで亡くなったラウラという女性への永遠の愛をうたった詩
当時ペスト期に流行った言葉にメメント・モリ(ラテン語)「死を想え、死を忘れるな」
これが合言葉じゃないですけど、この時期の最大の標語と。
(いまあなたがどんなに美しく生を謳歌していたとしても死は絶対やってくるんだ、と)

そして芸術上のモチーフとしての「死の舞踏
プリントのしたの二つ。こういった死の象徴として「骸骨」「死神」これ、いまでもよく出てくるでしょ
死神が鎌を持っているというモチーフ
美しい女性、貴婦人を誘っているわけです。
死と生が対象化されている。(だいたいは生は若い女性のイメージで描かれることが多いですよね)
また、死は誰にでも(身分を問わず)平等におとずれる
-このあたりは教皇権の弱まりなども反映されているかもしれません。


そこからどのように現実に対峙していくのか?
はかない生、残酷な死、
そこから、この世を生きる生身の人間の世界
現世の人間の生とはどういうことなのか、という所へ虚無観の

そうしましたらいよいよ、ペトラルカへ *プリント配布

フランチェスコ・ペトラルカ(130474
-ダンテ、ボッカッチョとよく並び証されますが、この人の場合は「詩」の人です。
ラテン語ではなく俗語で歌われている『歌集 カンツォニエーレ』
ダンテも俗語文学ですね。ここはポイントです。
もうひとつは、カンツォニエーレの中心的テーマーは恋愛です。
永遠の女性ラウラへの愛をうたっている。
抒情詩」ですよね。人間の感情を豊かに表現している。

(ポイント2点)
・俗語
・恋愛をうたう「抒情詩」
ここがヨーロッパの近代文学に影響を与えたところ。
また、ここで強調したいのは、人文主義者としてのペトラルカ。
ルネサンスの根底には人文主義がある。
・人文主義の先駆者

ブルクハルトはこの人文主義者の意義を強調している。
ペトラルカは詩人であると同時に人文主義者。
ということで、古典文献(特に古代ローマ)
文献の発掘、校訂をして世に送り出すという仕事をした人。
・古典の探求

・ペトラルカの生涯
彼はイタリアの人ですが、生涯を一言で言うなら「旅人人生
故郷というものがさだまらない。放浪・流浪のひと。
そこが彼の活動、思想にも影響していると思います。
彼はフィレンツェの人ではないが、父がフィレンツェの「公証人」
公証人とは役人の仕事で、法的な文書、証書を扱う仕事で、大事な役職です。
ですから身分は決して低くない。父はこういう人でした。
しかしそれゆえにか、フィレンツェの政治的な争いにかかわって追放されてしまいます。
このときにはダンテなんかも一緒に追放されたみたいですが。
結局町を追われて、このときはまだペトラルカは生まれていません。
後には戻ってきて良いよと言われるわけですが、複雑な思いがありました。

では彼はどこで生まれたか。父の亡命先、アレッツォで誕生します。
プリントの左の地図、フィレンツェとアレッツォに丸をしておきました。近くですね。
故郷を追われた状況で誕生しました。

この後どこにいくか。フランスのアヴィニヨンです。
ですから、ペトラルカの若いころはアヴィニヨンで育っています。
アヴィニョンといえばローマ教皇庁が1309年に移されていますね。
父はなぜここにいったか。教皇庁で仕事があるだろうと。
なので、ペトラルカも一緒に移住します。
ですからペトラルカは祖国を追われた人な訳です。

こういう時って人間どうでしょう。
私はなにものか、という問いを突きつけられることになる。
おそらくアヴィニョンで生きなくてはならなかったということは
ペトラルカのイタリア人としての自意識を目覚めさせた
この人は小さい頃から古代ローマのものが好きでした。
キケロ(古代ローマの政治家・軍人、国家論、暗殺)のラテン語の文章に親しんでいました。
(これはクラシックですからラテン語の勉強をする人はキケロを勉強することになります)

そして、父は法律家で、父は息子を同じ道に進ませようとします。
プリントの下の地図、ここにアヴィニョンもありますね、
(アレッツォから海を泳いで西の方に渡ってください、そうするとアヴィニョンですね)
当時法律を勉強しようと思ったらヨーロッパではどこへ行くべきか。
下の地図は大学の地図です。成立年が載っています。
例えばパリ、パリは神学です。法律ならば、最も古い西欧の大学、イタリアのボローニャ
これはヨーロッパ史の一般教養ですね。
ここで法律を勉強します。父の勧めによるのでしょうか。

ですけれども、息子ってこういうものですよね。
彼はキケロが大好きだったり文学が好きなわけでしょ。
法律を勉強してアヴィニョンにもどってどうするか。
生計を立てなければいけませんから、そのために聖職者になります。

この人は優秀だったんでしょう。
アヴィニョンに教皇庁が移っていますから-
教皇の次の地位は-枢機卿ですね。
ペトラルカはある枢機卿の保護を得て、
古典文献学者としての活動、著作活動をはじめます
自分のやりたかったことに専念できる活動が整ったわけです。
その後、詩人としても古典文献学者としても大きな名声を得ることになります。
人文学者達との交流も生まれます。

もちろん政治的にも力をもちます。
説明しておきたいのは、古典文献学者が何をするかという事。

・古典文献学者としてのペトラルカ
古代の文献(古代ローマ-古代ギリシアではなく古代ローマ、です。)の写本
・写本の発見・収集(中世にそれらが蓄積されていたのは修道院
・写本の研究・校訂(校訂とは本文と異本を比べること))

ペトラルカの大きな貢献は、古代ローマの文書の発掘
この古代ローマの文献というのは、ペトラルカ以前には注目されていなかったもの。
ですから彼が世に出したことで、古典文献学者としての大きな評価

この人がやったのは、それだけじゃない。
かれはそれに留まらず、古代ローマを範にとっての著作活動
何でかれは古代ローマの古典の探求に没頭したのか。
彼には、ペシミストなところがあったのでしょうか
現代への絶望の深さ→理想の世界として古典(古代ローマ)をとらえる

・書簡の一節に-
『なぜなら現代は私の気に入らない、どんな時代でも良い、他の時代に生まれたい。
私があなたの著作を読んでいる間、現在の悪の世を離れ、もっと幸福な時代に導かれていたい』
こんな風に言っているんですよね。
これは誰に対して言っているんでしょう?あなたって誰でしょう?
→これはいわば、架空の手紙、古代ローマの文人に宛てた

この「悪の世」というイメージは考えなくてはいけませんね。
教皇庁のあるアヴィニョンで暮らしていたわけですから、
人間の欲望や権力への執着を目の当たりにしてきた。
また、いろいろと調子の悪い時代でもありますから。
彼はこの時代に生まれて万歳、と思っているわけではない。

また、彼はどうしても故郷をもてないわけですよね。
自分はイタリア人なのにアヴィニョンで暮らしていかなくてはいけない。
というように考えると
人間の生のつらさ、はかなさを強く感じていたのかもしれません。
ですから、人間に対して決してポジティブなわけではないですよね。
ラウラの話しもしましたが。

このような人が、人間礼賛的なルネサンスの先駆け、とはこれ如何に。
人間は素晴らしいというイメージですよね。人間性の豊かな表現。
しかしその出発点にあったペトラルカは暗い感じでしょう?
ですから、
人間性追求には、人間の切なさ、つらさ、暗さへの眼差しが必要だったのではないか?と。

今日話したところで押さえてほしいのは、
・ペトラルカは古典文献研究の大家だった。
・その背景にはペシミズムがあった。
・しかし、その中で「人間とは何か」を問いかけていこうとする

どうして彼がそのような思想を持つに至ったのか、を次にお話したいと思います。
次はプリント3の、②③④を
ここに中世を背負いながらも、中世とは異なる人間探求を試みる、
彼の新しさを読み取れるんじゃないかなと。

*来週休講

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