2010年10月1日金曜日

聖書入門(新約聖書)-1

『イントロダクション』目次

●新しい約束、旧い約束
●(聖書の成り立ち)
●この講義の評価について
●パウロの手紙
●福音書
●使徒言行録
●黙示録―黙示文学
●聖書の解釈
●翻訳のむつかしさ。教会―エクレシア
●イスラエルの神から世界の神へ
●サドカイ派(神殿の祭儀を司る)―パリサイ派(律法学者、安息日に会堂で民衆に教える)
●サドカイ派(親ローマ)―パリサイ派(反ローマ)

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こんにちは
聖書入門です。僕の授業こんな多い人数はひさしぶりだな。(どうしていいか…)

出席を取ります。登録している方だけで73名います。



では聖書入門という事ですね。
今日は第1回ですのでこの授業の説明を。聖書入門Ⅱと。
前期はO先生が旧約を担当してくださいました。僕の先輩の先生なんですけど。
このⅡではですね、新約聖書を一応扱うことになっていると。そういう授業ですね。
いまからシラバスをお配りします。
(後ろに回してください、後ろに回してください、後ろに回してください、一枚だけください)

これは一般教養の科目に一応なっておりまして、選択必修になっていると思いますが。いずれの学科に属していても聖書入門かキリスト教概論をとると。キリスト教学科の人はキリ概ではなく聖書入門のみが必修になっていると。

講義概要
以下にあげるような新約のイエスの姿と教え、またその働きをとおして、キリスト教の喜びのメッセージを深く理解していく。

●新しい約束、旧い約束

新約、旧約。「約」は約束の意味ですね。古い約束と新しい約束と。
いつ新しくなったか。それはイエスという人物ですね。
2000年前パレスチナのガリラヤ湖の周辺でうまれ、イスラエル周辺で活動された人物です。
この人物をキリストと。救い主であると。というキリスト教の信仰があるのですが、
このイエスにおいて新しい約束が結ばれたと。
それが新約と。その約束。イエスの下に与えられた約束が表されているのが新約聖書と。
古い約束はユダヤ教のなかでもともと大事にされていたと。
ユダヤ教、イスラエルの民、民族の歴史の中に働かれる神様との関係を旧約聖書はしるしている。神様がどのように人間と関わるかをイスラエルの民をとおして
それを旧約聖書としてまとめられてきた。いまある旧約聖書、キリスト教からすれば古いからOld Testamentですが、ユダヤ教の人にしてみれば聖典です。

紀元後の90年に、ユダヤ教の人たちのラムリア会議というものがあり、
そこで、今の旧約聖書37巻が決定された。(自分たちの聖典として。)
新約はイエス=キリストの働きがあって、
しかしイエスが自身で書いたわけではなく、イエスの行いに関して書き表されるようになるのはもう少し後の時代。新約のなかで最初に書かれたのは福音書ではなく、パウロの手紙です
聖書では四福音書、使徒言行録に続いてある、ローマ信徒への手紙から7つが(後述)パウロ自身によるもの。
マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネが書かれたのが紀元2世紀に入るところ。
このラムリア会議の後の時代ですねヨハネが書かれるのは。

新約聖書が個々の文書で書かれていて、まとめられたのが4世紀の終わり頃から5世紀のはじめ。
旧約ももともと巻物のような形でかかれていた、そのうちのどれが聖典とするかが決定されたのがさきほどの90年。古いものは紀元前9世紀頃、多くは紀元前5世紀以降に。

このように新約、旧約あるのですが、そのうちの新約聖書を学ぶのがこのⅡの課題と。
イエスの教えと働きを中心として。
そこに項目が挙がっていますが―
(*講義概要の説明。各回で何をやるか)

テキストは新約なので新約聖書ですが、旧約も時々見たりします。

●聖書の成り立ち

1987―新共同訳(協同の意味はプロテスタントとカトリック)
これはまぁエキュメニカルなという、ことで。
教会が一致できるように―エキュメニカル運動。あるいはエキュメニズム。
教会一致の働き。そういう運動が20世紀になって活発になってきます。
1950年口語訳聖書(カトリックだけで△)

なぜ「新」共同訳?新約だけ共同訳というバージョンがあったが、旧約も揃えて新共同訳

旧約(ビブリア・ヘブライカ=ヘブライ語で書かれている。
新約(ギリシア語で書かれている。

これ(原語)自体が変わることがあるんですよね。どうして変わるか。
いまだったらそれが聖書と出版されたら一つだが、昔は手書きで写本として伝えられていったんですよね。ですから、写したものが沢山あるんですよね。間違えたり勝手に誰かがふかしちゃったりということがあるんですね。どれが一番基本となるもの?そもそもそれを確定するのが難しい作業。いったいどれが本当?新しい写本が見つかったということもあるんです。それが新たに定本として定められるという事が起こっていく。
決められた後もFootnoteとして別バージョンのものも書いてあります。

そういう研究はそれで行われているんです。それなりの学者さんたちが集まって新しい定本が出てくる。それは聖書の研究かが新しい成果を持って―
ある時代にこれが定評あるもの、として訳されたのが新共同訳なんですが、
これが87年にだされたのでもう23年経っているんですね。その前は55年ですから30年で新しいものが出されてきたわけですから、日本聖書協会では新しい翻訳を作る作業が行われています。それをどういう方針でやっていくか、という会議にS先生が出席されています。いま翻訳の人選をしている最中なんです。うちで教えているオオミチ先生も新しい翻訳の作業に選ばれました。
この新共同訳にはルーテル教会からも沢山の先生が関わっています。長い作業になりますので、どれだけの人材をそこに出せるかは、教会としては苦慮するところではありますが。
言葉を洗練させていく、神学としてどう見るか、教義学的な立場ではどう見るか、
あと10年先には新しい翻訳が出るでしょう、出したいのは2017年あたりでしょう。
この年は特別な年です。1517年が宗教改革の起こり、ですからね。
この年に新しい翻訳が出るとよいでしょうと言う。
これはちょっと余分な話でしたが。

●この講義の評価について

評価、これは毎回出席を取ります。授業の提出物、最終的には多分試験です。試験はそんなに難しくはないのですが。それは先生にとっては難しくないだけで、と言われる方もいますが…
90%を超えると秀がつく、80%をこえると優がつくと、
ここでお話したことから大体、出題されます。
新約ですので、僕が、話をした箇所、この聖書箇所は必ずチェックしてください。これをきちっとメモしてください。
僕の板書は(以下教義学概説と同様の話)ぐるぐるするのは止めてくださいといわれてしまうんですが、ごめんなさいね。
ノートはとってあるが意味が分からない、ということもあるでしょう、そういうときにはどうぞ聞きにきてください。僕は僕で講義ノートがありますから。

でもエキュメニズム云々なんてことは講義ノートにはないのですが、
(こういうことは試験には出ないのですが―)
大事なことは試験もそうですが、僕にとっても皆さんにとっても、なにか新約を学んで有意義なことを、興味を持ってくださることが大事だと思いますので、キリスト教のメッセージに心の琴線が触れたという事が大事ですので。
でもここは教会ではないので、大学の授業として一つ一つの項目についてお話して、試験を受けていただいて、あるていど理解していただくという事が

一般教養の聖書入門ですので、ノート持込可になるかもしれません(聖書のみだったかなー)

ここまでが今シラバスに書いてあるところですねので。
試験の中に論述形式も入ると思いますが、試験は試験です。
(評価するのもなかなか時間がかかるのです)
試験を受けるのが困難という方がいらっしゃいましたら相談してください。
さて、そこまで質問がなければ―

●パウロの手紙

で、ですね。新約を学ぶという事で、えー、この新約聖書の大部分を占めているのはパウロの手紙です
手紙の部分はローマ書から始まりますね、コリント、ガラテヤ、エフェソ、テモテとテトスは個人宛です。ヘブライ人への、ヤコブの(これはヤコブが)またペトロが、と続いて
パウロが大半ですが+αですが、この手紙は個人宛の手紙もありますけれど、「信徒への手紙」は教会へ向けて書かれている
そうした教会に宛てて、例えば自分が伝道したコリントの教会がある、そのなかでいろんな問題が起きてくるんですね、違う人が来るとまた違うことを言ったり、グループが分かれていったり。
どうも福音が「異なる福音」となってしまうこともまぁ起こるんですね。
そこでパウロが「いやいやそれは」と手紙を書いたわけです。
こうやって書かれた手紙は、近くの教会も似たような問題を抱えていることもある。ということで、それを回覧するということも起こると。
そういう文書が最初に残されていったわけです。だからこれは教会にとって大事な文書な訳です。
パウロはイエスの直接の弟子ではありません(後述)
しかしとにかく一番最初の教えの土台を作り、信徒の群れが出てくると、その指導者たちに糧になるように文章を書いていく、それが教会宛に出されたのですが、大事なものだから回覧される。そういうものがいくつもあった。そういう文書の中には、様々な人が書いた手紙があったのですが、それが後々本当に信仰に役立つものを決めるときに、時間がかかって45世紀に定まっていくという事になった。ですから、最初はお弟子さんたち、使徒と呼ばれる人が手紙を沢山書いて、教会の信仰を養っていくと。

●福音書

同時に新約のはじめには福音書が4つあります。
マルコ。マタイ。ルカ。ヨハネ。
この福音書は具体的には、イエスの生涯、どんな風に宣教をなさったのか、旅をして、何処に言って何を話したのか、何をしたのか、まぁ伝記みたいなものと思っていただいてもよいのですが、イエスの働きを直接に記したものです。
手紙はもっと信仰の事、教会の問題についてこう考えたらよいのでは、ということが、
こういうことをしたほうが信仰に叶うのでは、とか。
たとえば奴隷の身分についてどうするか、廃止したほうがよいのか、あるいは奴隷は奴隷のままでいつつも兄弟姉妹として接するべきとか、或いは夫婦の関係とか。つまりどんな風に生きていくかという事が書かれている。

しかし(手紙とは違って)福音書はイエスの行為と言葉を中心にまとめられたもの。
この福音書については後述します。

●使徒言行録

その後には使徒言行録があります。もう、これはここに書いてある通りです。使徒の言ったり行ったりしたことを記録したもの。昔は使徒教伝といいましたが。
最初はペトロ、ヨハネのはたらき、そうした教会の群れがどうできたか。その後パウロが生まれますが、パウロがどのように宣教したか、パウロとペトロはどんな関係にあったかというようなことや、パウロの旅の様子、などが記されています。パウロには3回伝道旅行がありますが

そうしてさっき言った手紙類。

●黙示録―黙示文学

一番最後にヨハネの黙示録、という文書で終わります。この黙示録は色々なところで題材としてとられていまして、文学にも映画にも漫画にも。すこしキワモノ的な存在と。
どうしてかというと、この黙示、黙って示す、しかしまぁ黙ってはいないんです。
一つの黙示文学というスタイル。
これは直接的には現さないという事です。表せない理由があるんです。

表したいが表せない、なぜか、(ローマの)迫害があったからです。
分かる人にはわかるが、分からない人にはわかりにくく書きましょうと。そうやって暗号のようなことが書かれていたり、手引きがないと分かりにくいということになっている。
黙示録については余り取上げないでしょうから、ちょっとだけ読んでみようかな

ヨハネの黙示録13章(二匹の獣)
1節からちょっと読みますね。
○わたしはまた、一匹の獣が運の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。

10本の角があって7つの頭があるというんですから、怪獣ですよね。日本の神話にも8つの頭がある蛇が出てきますねぇ。とこういう獣が登場します、それを見たというんですが、それは何?と

○それらの角には10の王冠が、頭には神を冒涜する様々な名が

これは読み解くと、ローマ帝国の皇帝のこと。7人の王様がいたんです。10の頭10の王冠、7人なんですが、10の王様の時代があったと、そういうことを獣に例えている。
これはローマによって迫害を受けていた時代に、ローマ帝国を表すためにこんなことが言われていて。
また666という数字が「オーメン」につかわれて、不吉な数字と。
これはローマの皇帝の名前なんです、それを数字に表して、言葉に直すとネロかなんかになるんですが、そうやって暗号的に表していると。
このように奇妙な怪獣のようなものが沢山出てくるので、ジャンプなどの漫画にもよく出てきたりするわけです。
まぁ例えばそういうことです。
キリスト教の信仰迫害のなかで、迫害の力が強いが、生き抜く中で救いが必ず来る、それは神の勝利と描き出してますし、救いがなにかを表している。
それが、終末論といわれますが、終わりの事=神の救いの完成、ですが、具体的な数字の人がどうこうと書かれていますが、これは象徴的な数字であって、具体的な歴史のなかに同あらわれるかは、また。。。書いてあることを直接的に読むことを強調しだすと、信仰的というよりももっと過激なことになりがちと。
俗に3大異端といわれますが、これはそういった終末論の読み方に特徴があると。

この黙示録に関していえばもともと、象徴的に、隠した形で書いているというのがもともとの書き方ですのでそれを直接当てはめるのは違うと僕は思っています。
これにはハルマゲドンのようなものが出てきますが、これを具体的に歴史の中に取上げると、これおを起こさないと、という事になってしまいますが、しかし神様の救いをどう表すか、ということですから。

悪の力によって苦しめられているという事があればそれに対しては神の勝利があるんだと。
悪の力に対しては、それは打ち破られるんだということがかかれるのは当然だったと思います。これを具体的に当てはめだすと「悪の枢軸」というような事になってしまうのですが―

●聖書の解釈

そういうことですので、聖書はそこに書かれていることを「どう読み取るか」がとても大事なわけです。
自分だけで読むと分からないことが沢山ある、勝手な思い込みでもって読んでしまう。
時代も違えば社会状況も違うわけです。歴史的に検証しながら読むことがどうしたって必要。そうしないと意味をちゃんと取れないわけです。
例えば日本語で「神」と書きますが、これは日本人に対しては「八百万の神」というふうに聞こえてもおかしくない訳ですよね
(以下教義論概説と同様の話)

こないだそのようなことをある先生と話していましたが、
ラジコンてありますよね。ラジコンの趣味を持っている方と、キリスト教の信仰を持っている方とどっちの人数が多いか?と。おんなじくらいだと。
ラジコンの話を熱心に出来る人、まぁマニアックな人ですよね。キリスト教のことをこんなに熱心に話すのもまぁマニアックなことな訳です。まぁ周りから見ればそう見えるわけです。
重要さというのはそれはこっちのほうが、と僕は思いますが、
そのことを何とか伝えたいと。いま20世紀に生きる人に、どう伝えて、どう言葉にするかと。。
翻訳は翻訳できちんと訳する事、難しいことです。
もともとない概念を編み出してこないといけないわけです。

●翻訳のむつかしさ。教会―エクレシア

教会という言葉も、まぁイメージとしてはキリスト教会でしょうが
天理教も、幸福の科学の人も教会というんではないでしょうか
この言葉自体キリスト教が日本に宣教していく中で選び取った言葉なんですよね。
しかし「これでよかったのか?」ということなんですね。
もとは「エクレシア」という言葉でした。
「集まり」ということを意味します。政治的な集会もこの言葉で指しました。
教会、というと、これは「教える」という集まりなんです「会合」を意味します。
となると、教会というと、教える人―教えられる人、と見てしまう。
そういう風に理解されがちな言葉です。しかし本来は、「集まり」
信仰を持つものが互いに証しし、助け合うと。
教会、という言葉を選んだが為に生じてしまう理解の傾向ということがあるかもしれない。

エクレシアという言葉を昔のキリシタンはどう訳したか
吉事屋」もともとは音の当て字です。しかし意味としてもこれ、なかなか良いですね。
言葉はそれだけで独自のイメージを作り出しますし、またそれを固定化もします。
福音書を読んでもそういうイメージで読んでしまいがちです。
しかしその福音書に出てくる教会は僕らのイメージで読み込むと違ってしまうかもしれない。
元はこの言葉はどのように使われていたのか
アガペーがなぜ愛になったのか。
その時代にどんな考えがあって、何を伝えようとしたかを時代考証しながら私たちは読んでいく必要があると思います。

●イスラエルの神から世界の神へ

で、まぁ最初にも申し上げましたが、
新約聖書に与えられた信仰は、イエスをキリストと信じる信仰です。
それが何処に現れたか、イスラエルです。
イエスはガリラヤとエルサレムの間を旅行しながら伝道していくわけですが、(これが福音書に記されている)何を伝えたか、神様について、神の愛について伝えられたわけです。

ここでいっている神とは誰?
これはもともとユダヤ教の信仰にあった「神」なんです。
これは皆さん読んでこられたでしょうが、固有名詞としては「ヤハウェ」という固有の名を持つ人格的な神。これがイスラエルにも働いてくださって、そしてイスラエルの人に対して言葉と働きをもってご自身を示されました。
ご自身を示されたというのは=「啓示」です。
どのように?預言者を用いてご自身を示されたわけです。預言者とは言葉を預かる人です。
(予言者ではありません)
言葉を預かる。
神様の言葉を預かって、この、イスラエルの人たちにご自身が伝えられるようにした。
受け取るのは人間です。しかしいつだって人間は自分勝手な解釈をしてしまうんです。
それが完全に分かることはない=人間としての限界
イスラエルの人たちはその神を自分たちのこととして、「イスラエルの神=ヤハウェ」として考えてきた。
しかしそれがどうも違うんじゃないかと
ヤハウェは世界を造られたんだとしたら、イスラエルの民以外の人も造られた。とすると「神様」は自分たちだけのものではないのではないか。
世界を造られた、ということを考えた途端「神様」も自分たちだけのものではない、と。
相対化されるわけです。
旧約聖書だってイスラエルが全てではないですが、民族宗教としてのあり方が強かった。

イエスはしかし、神様はそういうお方なのかと。
人間が受け取る中で、イスラエルの民族神としてうけとることなのか?
イエスはそのこと体現されたわけです
それは今までの民族の自分たちの思い、に対して全く新しいものだったのです。
だからユダヤの人は「これは駄目だ」と迫害をするのです。

(時間少なくなりましたが)

●サドカイ派(神殿の祭儀を司る)―パリサイ派(律法学者、安息日に会堂で民衆に教える)

イエス様の時代、ユダヤ教の中にも幾つかのグループがありました。
ここ大事ですよ。(出題候補)
一つは、サドカイ派。聖書の中にもサドカイ派と出てきます。
神殿の祭儀をつかさどる、神殿を中心に祭儀をつかさどる中でユダヤ教の中心を担った人です。名の起こりはおそらく紀元前10世紀のソロモン王のもとの大祭祀ザドからでしょう。
そこにユダヤ教の中心をみて、人々の儀式を取り持っていたと。

それに対してパリサイ派
この人たちは律法学者とも呼ばれます。あるつまり、律法の解釈をする。
律法とは(旧約全体も指すが)モーセ五書のこと。
出エジプト記以降は十戒が描かれますが、その律法を解釈したり教えたりする
この人たちは神殿ではなく民衆の中にいて会堂で安息日ごとに教えたんです。
神様はこういう風に教えられてるよ、と。当時はユダヤの人は教えに従って生きるんです。
祈りの時間、して良いこと悪いことが細かに決められている。
それが神の御心に叶うこととして一生懸命教えた(これはある意味では信仰復興運動的と言えるでしょう)場所はシナゴーグ(会堂と訳されます)
そこで安息日ごとに、神の御心に叶う生き方を教えるのがパリサイ派の人たちのしていたことです

かれらはこの生き方をするなかで御国が来ると考えた。
イスラエルこそが「神の国」になると。神の国の中心はイスラエルにあると。
イエスの時代、この地はローマの属国でした。
ゆるやかな自治は認められていたが、税を払わなくてはならない。(ローマの支配の仕方)

●サドカイ派(親ローマ)―パリサイ派(反ローマ)

そういうローマの支配下で、パリサイ派の人はいずれの日かローマからの独立を果たすことを望み、
民衆が皆、神の御心の中に生きれば、神の国が実現すると考えた
ということパリサイ派の人は、反ローマです。

サドカイ派は神殿をつかさどっていて自治を任せられた人です、
それによって権益をまもられているので、ある意味では親ローマです。

この2つのグループはイスラエルの人のメインラインですが、彼らは立ち位置も考え方も大きな違いがあった訳です。

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