2010年11月19日金曜日

聖書入門(新約聖書)-7「聖書の女性2」


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『聖書の中の女性2-サマリアの女・長血を患う女・カナンの女・イエスの母マリア』目次
●サマリアの女(ヨハネ4章)―イエスは私を知っていて下さる。
●サマリアの女(ヨハネ4章)―イエスとの出会いが与える人生の変化
●長血をわずらう女(マルコ5章)―癒やし+生きる力・当時の価値基準を打ち破るイエス・十字架への萌芽
●カナンの女(マタイ1521節)-願いの拒絶・個々の関係の中でイエスをとらえる・立派な信仰
●叶えられた祈り―隠された肯定をみる信仰
●イエスの母マリア―テオトコス=神の母
●(余談)異端ネストリウス派(景教)
●イエスの母マリア―マリアを特別視する背景=女性性をもつ象徴の必要性
●(余談)四谷のイグナチオ教会―女性がマリアに対して祈ることの自然なありよう
●イエスの母マリア―マリア信仰・無原罪の受胎・マリア被昇天
●イエスの母マリア―ルカにおける受胎告知「お言葉通り、この身になりますように」=Let it be

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だいたい後期も半分来ましたね。出席が足りないと厳しいので単位が欲しい方は出席を―
前回から「聖書の中の女性」を取上げてきました。
2000年前からイスラエルの社会は男性中心社会。女性は虐げられていたという社会体制。
それであるにもかかわらずイエスは区別なく人と出会っていく。当時の壁を越えて出会ってくださっている。
今日も何人かの女性を取上げたいと思います。

●サマリアの女(ヨハネ4章)―イエスは私を知っていて下さる。

最初のほうで少し見ましたが、イエスと直接会って話したひとりにサマリアの女性がいます。
ヨハネ4章 サマリアの女
サマリアというところは、いつも言うように、ユダヤの人から見ると差別をされた民族の住む場所と。
その女性とイエスが出会う。時は正午ころのこと。
そのタイミングで水を汲みに来るという事はちょっと変。
この時間に来るということは、他の人が来る時間には事情があって来られない女性であることが分かる。

イエスと出会った後のやり取りを見ると
ヨハネ416節から
イエスはこのサマリアの女性がどういう人か、よく知っていらっしゃるんですね。
どう知っていたか、5人の夫がいたが、いまは別れていて、今連れ添っているのは夫でない人。
どうやら複雑な状況ですね。おそらく身を売るというような商売だったのかもしれない。
その状況が、水を汲みに来られない事情をつくったと。

ということで、この人は
1.サマリア人 2.女性 3.身を売るような商売 
と、差別をされやすい状況にあることが分かります。
そういう人が男性と話をすること自体がまずあり得ない。
しかしイエスは「水を飲ませてください」と言われた。
イエスが何重にもある差別の壁を乗り越えてひとりの人に出会っていることを良く伝えている。
しかもただ出会っているのみならず、そのひとりを良く知っていてくださる

知られる、ということは嬉しいこともあるかもしれないが、知られちゃ困ることもとかんがえると、どうだろうと思うかもしれません。まぁ知っておいてもらえたら嬉しいですよね
(今日は出席の時に名前を覚えていなくて…(笑)本当はそんなことあっちゃいけないのですが)
社会の中で身を隠して生きざるを得ない、そのような自分を知ってくださっているという事にこの女性は驚いている。

●サマリアの女(ヨハネ4章)―イエスとの出会いが与える人生の変化

ヨハネ419節から

しかしその出会いの中でサマリアの女性に対し、
イエスは
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われる。サマリア人はサマリア人の礼拝所があり、ユダヤ人にはエルサレムに神殿がある。。
しかしそのどちらでもない「本当の場所」で真の礼拝をするときが来ると示される。
イエスは言われる
「まことの礼拝をするものたちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と。
女性は言う「キリストと呼ばれるイエスがくることを知っている」と。
イエスは「それはあなたが話しているこの私である」とご自身を示される。
このようにご自身を示されることはそんなによくあることではない。
女性は待望されたメシアと出会っている喜びに次第に満たされていく。その驚きを急いで人々に伝えるように出向く。

ヨハネ428
女は、水がめをそこにおいたまま町へ行き、人々に言った。「さあ、みに来てください。私が行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへとやって来た。

それまでは身を隠していなければ、と思ってた女性がイエスとの出会いによって、自分がそのことを伝えるものとして新たな生き方に変えられていく。人と出会うことを恐れず、イエスの喜びを伝える者に変えられていく。人生の変化。弟子たちの人生に起こったことと並ぶ大きな出来事。
これがイエスとの出会いのなかで起こされたこと。
マグダラのマリアもそのような一人であったが、サマリアの女もそう。

●長血をわずらう女性(マルコ5章)―癒やし+生きる力・当時の価値基準を打ち破るイエス・十字架への萌芽

先に行きましょう。
マルコ521節 ・ヤイロの娘とイエスの服に触れる女。
ここでは、ひとつはヤイロという会堂長の思い病に罹って死にそうな娘の話が語られています。
ヤイロはユダヤ教の会堂を治めているものですから、人々のとりなしもあってイエスはその娘のところへ出向きます。しかし今日取上げるのは、その癒しが行われる間に挿入された話です。

マルコ524節後半から
ヤイロの娘の復活の奇跡の物語に挿入されるように起こった出来事。
何があったかというと―

○大勢の群集も、イエスに従い、押し迫ってきた。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分のうちから力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群集があなたに押し迫っているのがおわかりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」
しかしイエスは、触れたものを見つけようと、あたりを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのもまま話した。

この女性は「長血をわずらう女性」今で言う婦人病です。12年間もわずらっている。多くの医者にかかって、全財産も使い果たしてしまったと。
前にも言いましたが、「病をえる」ということはユダヤ社会の中では神からの罰、報いと考えられていた。
つまり癒しがたい病という事は=罪と考えられたでしょう。この女性は病気であることに加えて、罪という非常に苦しい立場に置かれていました。
また、律法にはレビ記などに「清潔法」というものがあり、出血の期間は宗教的なけがれと言われました。外出を許されない、という状況にこの女も置かれていた。
ということなので、イエスが来られるという事を伝え聞いて、もしかしたら…と思っても、この女性はイエスのところにあからさまに癒しを願い出ることはそもそも許されないという状況。
当時の社会の中での困難。苦しい立場に立たされた者の難しさですね。
それで、彼女は群衆の中に紛れ込んで、そっとイエスの服に触れるということを望む以外にはありませんでした。服にでも触れれば―と。強い望みを持っていたわけですが。
果たして、たちまちにして癒されました。

そして、ここからなんですが、
イエスはこの時立ち止まって、「服に触れたのは誰か」と言う。
群集がわんさかきているわけでしょう、そういう状況で「誰が?」って聞くの?って弟子は驚く。イエスは見回す。どういう状況かというと、ヤイロの娘が死に掛かっている訳で、一行はそこに向かっているんです。そのことが気がかりで、人を探している状況じゃない、そんな場合じゃない、と弟子やヤイロもきっとそう思ったでしょうね。
「どうしたんですかこんなところで立ち止まって?」と。
しかしイエスはわざわざ足を止める。
なぜそんなにこだわったのか?とりあえず長血は癒されたんだからいいじゃないですか。

ところがイエスは、どうしてもこの女性に会わねばならなかった。何故か?
この女性はイエスに触れて癒されたましたが、ところが、そのままに放っておかれると、律法を犯して表に歩いていってイエスに触れた、そのことは「律法違反」ですから、それを自分の責めとして負わねばならなくなる。
イエスもおそらくそう思って、あるいは何よりこの女性とご自身が出会うことのなかで「生かして」行かねばならないと思ったのか。
病気の癒し、に増して、この困難を抱えた女性が新たに生きるためにイエスは出会ってくださった。

女性はありのままを話す。
イエスは言います。
「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」
安心をして生きなさい、というのは病気のことのみならず、律法を犯したという責めからも説かれて、という解放が語られています。

このことが、イエスがこの女性を見過ごすことの出来なかった理由ですし、この女性はこうしてイエスに出会う中で、病の癒やし、更には生きることの力を与えられることになった

こうしてみると、この当時の価値基準を打ち破るイエスの姿をここでも確認することが出来ます。
それは、当時の宗教的な教えをするものたち、(パリサイ派、サドカイ派)にとっては挑戦的なことでした。それ故にこのイエスの存在が許せないという事に繋がっていく。

そうしたことの積み重ねが、イエスの十字架へと。祭司長や大半の人を動かしてく理由。
イエスが自分達以上の力を持っていることや、自分達以上に立派に教えているということを快く思わないばかりでなく、宗教的、社会的な枠組みを(これは権威を持つものにとって大事なものです)、超えていくことが快く思われない。
この後にそういう衝突が起こってくる、ということをこの出来事も示している。

イエスが神と繋がって生きていくことの喜びを伝える、そのために人々の中に入っていく。
ここでもご自身が急いでいても(ヤイロの娘へ)それでもわざわざ立ち止まって見過ごしにはされない、
ここにイエスの姿が示されている。
実際にこうしたことに時間をとることで
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お嬢さんは亡くなりました、もう先生をわずらわすには及ばない という事になってしまいます。

もしかしたらヤイロとしては心穏やかでなかったかもしれない。しかし
間に合わない、というようなことはイエスにとっては無いんですね。
イエスはいう「眠っているのだ」。周囲はあざ笑う。イエスはその少女のところに言って「起きなさい」と。
それによってこの娘ももう一度命にかえされてくる。と。

何回も申し上げますが、
女性であるという事は当時の社会の中ではカウントされないし、人権が認められないというような状況です。そんな中でも一人の女性を見過ごしにはされないというのも、ひとつのイエスの宣教の姿勢です。

●カナンの女(マタイ1521節)-願いの拒絶・個々の関係の中でイエスをとらえる・立派な信仰

さてもうひとつ。
マタイ福音書1521節 ・カナンの女の信仰
カナンの女性=異邦人ということ。ユダヤ人でない。その女性が来て憐れみを乞うというところです。

○イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方にいかれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄ってきて願った「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

この「イスラエルの家の失われた羊」というのは要するにユダヤ人にということ。

○しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供達のパンをとって小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」そのとき、娘の病気はいやされた。

どうでしょう、散々僕が強調して、差別されても、女性でもそれを超えてイエスは出会ってくださる、と言ってきたのに、このイエスの対応は、どうなのかと。
最初無視ですよ。弟子は「追い払ってください」と言うが、「なんとかしてやって」と思ったかもしれない。
とにかくしかし、強く訴える女性に無視を決め込んで。
そして「私はユダヤ人のところにしか―」と。ちょっと待ってよと。
更に女性はひれ伏して「どうか助けて」と。それなのに「子供達のパンをとってはいけない」と。

ちょっと不思議な気がします。他での、イエスが出会われて癒しをされていくという事からみると、全然違った姿ですね。どうしてこんなことなんだと。
だから、私たちがイエスを他のところで学ぶほど、これはなんとも不思議ですね。逆に驚かされると。
が、しかしこれは何だろう、と思うと。実はしかしこういう出来事が私たちにとっての神様とのやり取りの中で実際に経験されることかもしれない。

つまり、願い出たことが拒絶されると。神様は聞いてくださらない。
イエスは願いを聞いてくださるし、いつでも出会ってくださる、と思っていると、実際に経験するのはこっちの拒絶、ではないか、と。(ちょっと強い表現かもしれないが)
切実に願ったとしても、なかなか神は耳を傾けてくださっていないのではないか、ということを私たちは経験するのではないか。で、こうした厳しさの上に私たちが立つ者であるということはどう考えたらいいか。このカナンの女の話はそのことを教えてくださっている。

よく言われるのは、
この拒絶にもかかわらず女性はあきらめない。このあきらめない祈りこそが私たちに求められていると、しばしば語られます。なるほど、と。

いやだけど、ねぇ?と僕は思うんです。だからといってそんなに無下にしなくても。
この女性はあきらめなかったからいいが…と思わせられる。もうちょっと答えようがあったんじゃ、と思ってしまう。あきらめてはいけない、という教えは他の箇所にもあるんですよ、悪くは無い。しかしそれにしても、と。
(皆さんは)どうでしょうか?

でも、実際にはイエスはサマリアの女と出会ったときもそうだが、「知っていらっしゃる」んですよね。
なので、この女性とのやりとりは「一般化されない」と思います。
イエスはその人その人にとっての出会いを作ってくださるのだという。
そうだとするなら、この女性のことを良く知った上で、そんなに簡単にあきらめないだろうと、予測ではなくて、確かに知っていらっしゃったのかもしれない。
そしてこのことは私たちには分からない。
だから第三者的に見るなら、ちょっとどうなの?とやはり私は思いますが。
「あきらめないで」とはいえるかもしれないが、それを一般化して言うわけには行かない。
むしろここはもうイエスとこの女との関係の話なんだと。第三者がどうこう、神とその人の間をあれこれと判断することは出来ない。私たちはつい横から見ていいたくなってしまいますが。
大事なのはこの女性とイエスの間の関係の問題。
そして、そのたった一度の出会いのなかで、この女性はイエスの言葉を信頼し、イエスの言葉をもってイエスご自身をつかまえていく、んですよね。

拒絶されているという事が繰り返し示されているようでありながら、この女性はイエスとの一度の出会いのなかで、イエスの言葉を自分の物として引き受けながらイエスに恵みを求めている
その信仰がやり取りの中で示されて、「あなたの信仰は立派だ」と。

イエスがそのように『立派だ」と褒めることはそんなに数多くない。聖書の中には2回。
そのいずれもが異邦人でありました。これは注目すべきことであります
この一度きりのかかわりでイエスはその信仰を女性に与えているといっても良いかもしれない。
それにしても、なんとも厳しいなぁと。

●叶えられた祈り―隠された肯定をみる信仰

*プリント配布 「叶えられた祈り」
たいへん有名な祈りです。作者不明の。

○叶えられた祈り

自ら成し遂げるために 強さを与えて欲しいと、神に求めたのに
神に従う謙虚を学ぶようにと弱さを与えられた

もっと偉大なことが出来るように 健康を求めたのに
もっと善いことができるようにと病気を与えられた

幸せになれるように 富を求めたのに
賢明になれるようにと貧困を与えられた

人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の手助けを望むようにと弱さを与えられた

人生を楽しめるように あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を与えられた

求めたものはひとつとして与えられなかったが
わたしの願いはすべて聞き届けられた

自分の思うことばかりを望んだにもかかわらず
言葉にできなかった祈りはすべて叶えられた

私は どんな人より
もっとも豊かに恵みをあたえられた

作者不詳


英語から僕が訳してみました。
私たちは神からの拒絶、否定に出会う。それは私たちにとっては絶望。
その中にかくされた「肯定」を見る信仰 これはルターが言っていることですが。
この祈りは、願い出たことは何一つ与えられていない。「全く拒絶されている」
ある意味では正反対のものを与えられている。しかしそこに尚、神が私に与えたもうたことを受け取っている。

私たちは直接に見る神からの答えは否定であったり拒絶かもしれないが
その中に隠された肯定を受け取っていける者でありたいなと思います。

●イエスの母マリア―テオトコス=神の母

さて、残りの時間ですが、イエスの母マリアを。
それぞれの人たちに出会うイエスがいて、
そこに私たちの信仰の模範にもなっているが、イエスの母マリアにならぶ模範はないといわれてきました。
特別なんですね。何故か。イエスの母だからです。(笑)
教会の中ではこのことが本当に特別なこととして語られる。
古い頃から大事な言葉ですが、「テオトコス」という言葉があります。「神の母」という神学用語です。
キリスト教の中では早くから、マリアは「神の母」という形で呼ばれて、ある種の特別な存在なんですね。
もちろん何故イエスの母を「神の母:テオトコス」と言うのかと言えば、
イエスは人間であり、神であるから。(これはキリスト教の最も大事な信仰告白です。)
イエスをどう見るか=キリスト論。これは最初に教えが確立する部分(最初の4つの公会議)
それに合わせてマリアは単にイエスの母ではないと。
つまりイエスは神なんだから、神の母となる。
これはつまりイエスの神性を認めることにもなっていると。

●(余談)ネストリウス派

これをいえないという事で異端とされたグループはいくつもある。
そのひとつにネストリウス派。紀元4世紀5世紀の公会議で。
これがアジアを越えて日本にも伝えられたんじゃないのか、と、少なくとも景教として中国には来ています。
そして、空海が唐に行って修行をする時の近くの寺に景教の寺院があったと。
もしかすると空海は景教に触れる機会があったのではないか、
ということで高野山にもキリスト教にまつわる遺跡が―
時代考証で完全には跡付けられていないが、日本の中にキリスト教がある形で痕跡を残すことがありえなくも無かったと。

●イエスの母マリア―マリアを特別視する背景=女性性をもつ象徴の必要性

それほどにイエスの母は特別と。最も大事な信仰告白を考えた上での言い方。
しかしマリアはある種の特別な存在として、信仰の対象にもなっていく。
その理由は
イエスの母であること。がひとつそうですが、
キリスト教信仰においては「父なる神」という神の信仰、「子なるキリスト」「聖霊」という三位一体
どちらかといえば、聖書の中の社会制度が男性中心であったように、
この三位はみな男性的と言える。聖霊については女性的とは言われるが別に性別があるわけではない。
どちらかといえばそのシンボルは男性的だったと。

しかしキリスト教外の信仰の中では、とりわけ農耕の文化においては、
女性の神、が大地の恵み、多産の象徴として信仰を集めていた。
こういう異教の信仰を持っていた人をキリスト教に改宗していくことの中で、
実際的に女性的なシンボルは非常に有効であった。
これがマリア信仰を支えている背景にあることです。

●(余談)四谷のイグナチオ教会―女性がマリアに対して祈ることの自然なありよう

日本においてはこんなこともありました。
隠れキリシタンの時には「マリア観音」といって、観音の裏に隠してマリア様、という形をとったり。
つい、最近のことですが、(これは日本にかえってきたからだから8年前くらいの―)
上智の隣、四谷にあるカトリックのイグナチオ教会に行く機会があった。
以前は、古い厳かな、御堂に入ったところから、木の香りのするような、石造りのそういう会堂だった
ちょっと薄暗くて、それだけに聖卓がきれいにととえられていて、
それが全く変わっていて。その大きな礼拝堂の地下がどうなっているか知っていますか?
それは納骨堂になっていて。骨壷をおくことが出来るようになっている。
ようするに上と下と。ともに神を賛美する、支配の下にあるという形で礼拝をすると。
とても良いなと思ったんですが、
その地下への階段に、マリア様があるんです。カトリックですから礼拝堂にもありますが、
階段のところにもマリア様がイエスを抱いている像。そこにたくさん小さな人形が置いてありました。
これはなんだ?と思って聞いてみたんです。
すると、これは信徒の中に不幸にしてお子さんを失った方、あるいは育てて上げられたなかった方が、そのことを想っておいていかれる、そういう人形だと。
女性であるが故に、他ではなかなかあらわせない事情もあるのかもしれない。
ようは日本で言えば水子供養と。
これは決して古くからあるものでなく1970年代からの―

これは人工堕胎をするという事のなかで育てられなかった水子の霊を供養すると。
そういうことが、日本の中には広がっていた。その背景には女性に堕胎の苦しさを押し付けていくという社会の状況が。本当にそのことは男性は良く考えなければいけない。

これに似たようなことがカトリックのマリア信仰にも(水子供養と同じではないが)
様々な思いを抱いた女性が、マリアにたいして祈りを持つことはごく自然な姿であるといっても良いのかもしれない。なのでそれこそ、マリアは人間、ですから、マリアがマリアとして、信仰の対象になるというのは本来ならばちょっとおかしいといわねばならないが、それでも実際の、実践的には、このマリア様に祈っていく姿は必ずしも絶対いけないと排除していくことではないのかもしれない。

もう時間がなくなってきました―

●イエスの母マリア―マリア信仰・無原罪の受胎・マリア被昇天

問題はローマカトリックの歴史の中では、これがちょっと行きすぎと思われるくらいのマリア信仰の高まりを見せます。
どういうことか。
19世紀中ごろ、マリア無原罪の受胎。イエスを受胎した時のマリアは原罪を持たない、と
原罪というぬぐいがたいものにとらえられている人間、その原罪をマリアから拭い去ることはもう普通の人間ではないということになってしまう。
教皇ピウス9世の教義決定としてそのように。

さらに20世紀1950年。ピウス12世によって教義決定されたのは、マリア被昇天の教理と。
これはマリアが肉体をもったまま神様のところに上らされていったと。
通常は、イエスは「昇天」、私たちは「召天」と書くが―
しかしマリアは特別と。被昇天。ということが教義決定される。とすると人間以上の存在になってしまう。
実際には世界の各地にマリアがあらわれたという伝説はたくさんあります。そうするとどうもマリア様は人間以上の存在になっちゃっていると。それはちょっといかがなものかと思うんですが。
カトリックは基本的には1960年代になって、第2バチカン公会議を経ますが、そのときから
マリアを語るときには救済論の枠組みで語らない」、と。
ようするに救いの業をするわけではないと、余り持ち上げすぎてはいけないということになりました。
しかしマリアは「信仰の模範」と見られることはカトリックのみならずどこにおいてもふさわしいことといっても良い。

●イエスの母マリア―ルカにおける受胎告知「お言葉通り、この身になりますように」=Let it be

このマリアの信仰はどこに姿を見られるか。色んなところにあるが
マリアに対する受胎告知。ルカ福音書126節以下では特にマリアの信仰が示されると。
これは「イエスが誰か」の回でもお話しましたが、
マリアが結婚していないのに身ごもる、本来はありうべからざること。
公になれば石打刑もの。不貞を働いたと。そんな出来事が伝えられてどうしたらいいかと。
伝え方はしかも、天使がやってきて、おめでとうと、恵まれた方と。
なにがめでたいかと。
本当に神によって選ばれた働きに召されていくわけですから特別なことですが、
主があなたとともにおられる、というところに大きな意味がある。

その祝福のうちに、自分の身に起こったとてつもないことを引き受けてマリアは言います。
ルカ138
○「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」

これがLet it beという有名な歌詞になったと。
Whisper the word of wisdom Let it beと。
自分になるように決められていることがそのようになるように、という言葉なんです。
これがマリアの信仰を最もよくあらわしている。
私たちは困難に出会ったときにLet it beとできるようにとあの歌は歌っていますね。

(チャイム鳴る)

もうひとつ本当はマグニフィカートをとりあげたいので
来週少しやりましょう。
では今週はこの辺で、おつかれさまでした。

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