2011年9月26日月曜日

家族療法‐2 家族療法の歴史/羅生門的現実

2限 252 

おはようございます。(出欠)
先週のフィードバック用紙、ほとんど一言書いたと思うんだけど―
できるだけかえそうと思います。

(質問への答え)
(学生)家族療法と「過去」との関係について


文脈、言動、ものの見方、と三つの技法があったが、
その内で過去を扱うものもある。しかし基本的には「今、ここ」を扱う。

(学生)複数の視点からものを考えること

大変な面もあるが、「介入の糸口」をより多くつかめることはメリット。
また、複雑に組み込まれた問題に対処するには、循環的相互影響関係を見ていかなければならない

●家族療法の歴史
何時ごろにできたと思いますか?
戦後アメリカで生まれて、―統合失調症の家族への対応というところが起こり
家族も含めて診たほうが良い効果が出るのでは?
精神科医師の間で始まった。

ボーウェンってご存知かしら?
アッカーマンはNY
そのあと西海岸、MRI、ワツラウィック、
それから世界中に広がっていきました。
1960年代頃
また、ノルウェー、
ミラノ派という学派があって、80年代にひろがりました。

日本には80年代の早い時期に導入され、徐々に広がっていきました。
当初は、そのミラノ派に重きが置かれました。
私は80年代国立精神衛生研究所で、家族療法のパイオニア的な研修会に入っていたので、
そこではミラノ派が
ミラノ派では言葉のやり取りを非常に重視
家族図やジェノグラムはあまり重視されていませんでした。

今、学会として、
・家族研究家族療法学会
・家族心理学会
2つありますが、
その両方とも1985にできています。

最初は、人のやり取り、コミュニケーションのレベルでのものがひろがって、
いまはもう少し、統合的アプローチ、
言動、歴史、そしてクライエントとセラピストとの間でどういうやり取りをしているか、という
ポストモダンの動きも入ってきて、統合的なものが流れです。
以前は家族療法でも、ミラノ派、ボーウェンの多世代的な見方、と学派ごとの偏りがありましたが、
最近ではケースによっての使い分けが進んでいる。

私は大学院には40代になってからいきましたが、
主人の転勤があって、アメリカで90年から院に行きました。
そこで学んで、いま臨床をしています。
アメリカの大学院では全部学ばせてくれて。
で、私が皆さんにいま絶版になっているのでコピーをして―
私の文章を来週渡しますが、網羅的な内容の。
皆さんとの授業でもそうしましょう。

しかし、そのもとになっているのは「システム理論」です。
つまり、たとえば、
電車の席にたまたま隣り合って座っている3人と、
家族である3人は何が違いますか?

家族としてのまとまり
例えば、先週話した、子どもを起こすお母さん、起こされる子といったように―
非常にパターン化したやりとり、ある程度まとまったやりとりが見られる。
それは家族によって異なります。

似たような動き、似たような考え方を持つ、或いは反発する可能性がある集団。
共感か反発か異なるが、 
家族としてのまとまり、パターンがある、これがつまり「システム

決まりごとがあって、それに則って動くことが多い、その決まりごとを見ていこうと。
お互いに循環しているんだから、一人が悪い、その人が変われば解決、ということではない。
ですから、システム的な考え方のもとでは「犯人探し」をしないという事です。

この同じシステムを伝えるのに―
映画の「羅生門」(原作:芥川龍之介「藪の中」)
家族療法では、「羅生門的現実」という言い回しがある。
家族療法の見方をよく表している。
おんなじことを体験しているんだけど、三者三様見方が違う。
そして、この人の言い分が正しい、間違っているということを判定しないということ。
それぞれに耳を傾けて生きましょう、ということ。

では、カウンセラーはどういう役割をとるべきでしょうか? 
(学生)中立、ですか?

そうですね、これはミラノ派が重んじた事ですね。
これを別の言葉で、文脈派的に言うと(東京大学の中釜先生)
多方向の肩入れ
裁判官的な肩入れではなくて、それぞれのメンバーに肩入れしながら、
家族が解決を選ぶようにこちらがお手伝いします。
ですから、個人のカウンセリングとはだいぶ違いますよね。

家族療法の視点を持つと、もし個人でクライエントが来ても、
クライエントに十分肩入れしながらも、別の立場の人に立つことも視野に入れつつ
どっちが正しい、ではない。
羅生門的現実をクライエントが見られるようにする、手伝い。
ですから、家族療法では個人のカウンセリングであっても、
できるだけ家族の他のメンバーにも来て欲しいよね、と。

(学生)「交流分析」のクラスで白井先生が言われてるような
「過去と他人は変えられない」は、家族療法ではどうとらえる?

私もそう思います。
変わるのは自分、それぞれが出来る範囲の中で変わっていく、と。
相手が変わらなきゃ駄目だ、と思っている間は解決しない。
自分の繰り返し起こっているコミュの中で、自分がどう参加しているか、に先ず気づく
「自分の参加の仕方」を変えていこう、ということ。

羅生門的現実に次ぐキーワードとして、
さざなみ効果」と(ripple effect)
私が変わればシステムのどこかに少しずつ変化が生まれるだろうと。

(質問、感想ありますか?で聞いてまわっている)

●先生の「家庭生活とカウンセリング」を皆で廻して音読&小グループでディスカッション

「ディスカッションしてみませんか?」という先生の言い回し。
あまり他のクラスでは聞かない言い方だ。(「しましょう」じゃなくて、と)

(学生)家族療法の終わり方って?

ミラノ派では最初から10回と決める。
どういう家族の変化を見たいですか?を家族と話して
家族療法では、ある意味では表面的なコミュニケーションを扱うので、
目標(終結)を決めやすい。
また、短期目標と、長期目標 クライエントと一緒に決めていく。
家族療法においては「処方箋をあげる」という

(学生)悪い変化が起こったときの対応はどうするのですか?

その出来事をどう見るか
「成功段階にいたっているところを褒める」

(引きこもりの兄―見捨てられ感の弟のたとえ)
援助者が、家族の変化を信じてあげられるかどうか
ずっとついていてあげられるわけではない
カウンセラーの「信じる視線」が、家族に影響を及ぼす、ということがある。

(学生)*質問をききそびれた

「小さな変化」は家族自身に気づかなかったりする。
できなかったことに目が向いていて、できていたことに目が向かなかったり。
小さな変化は第三者が「指摘してあげる」ということが大事で
本人もそれに気づくことが、小さな一歩ずつにつながっていく。

(学生)家族の問題は外の人に言うのは恥だ、という考えの人がいたら?

私が研修していた頃は、メンバー全員がいないと療法をしませんというスタンスだったが、
現在では、一人からでも「小さな変化」でさざなみ効果を信じながら、という考え方で行われる。
しかしカウンセラーによって考え方が違う

*家族のポイントは「役割」(役割意識)という事みたいだ。
そこから、ルールやパターンも生まれてくる。

今日は、創立記念礼拝、ということなんですよね
じゃあ早めに終わった方が―ジェノグラムをつくるのは、来週やりましょう。
事例にもとづいて、枠組みだけでなくポイントを書き込んでいくような形で、
みなさんもし時間があったら、今学期、どんな家族についてかんがえて生きたいかな、というのを
一つ小説からでもドラマからでも、考えてみてください。

0 件のコメント:

コメントを投稿