2011年8月6日土曜日

【本】心理学者、心理学を語る

心理学者、心理学を語る
デイヴィッド・コーエン=著 子安増生=監訳 三宅真季子=訳 新曜社 2004 
Psychologists On Psychology David Cohen
(原著には1977年版、85年版、04年版がある)




●はじめに

1977年にイギリス心理学会員は6000人ちょっとだった。現在では、35000人をこえている。

・心理学のデビューを1879年という栄えある都市、つまり最初の心理学実験室ができたときとみなすなら、心理学は化学より若い。この都市、ヴィルヘルム・ヴントがライプツィヒに、ウィリアム・ジェームズがハーバードに研究室を解説した。

・ノーベル賞を受賞した心理学者は、これまでに5人しかいない。イヴァン・パブロフ、ニコ・ティンバーゲン、ハーバート・サイモン、ダニエル・カーネマン、コンラート・ローレンツだ。パブロフの受賞理由となったのは学習と条件反射の研究ではなく、生理学の研究であった。フロイトはついにノーベル賞を授けられることはなかったし、バラス・スキナー、ノーム・チョムスキー、ジャン・ピアジェも受賞していない。しかし、この4人は、少なくとも他のノーベル賞受賞者と同じくらいには、人類の知識を前進させ、20世紀の生活に影響を与えた。

・リアム・ハドソン(中等教育過程の創造的思考の研究)自伝「事実という新宗教」(The Cults of the FactsHudson, 1972)の中で―
「この学問領域の健全性は疑わしい……一貫した科学的法則の体系を生み出すに至っていないのである。そしてその研究成果は明らかに、些細なものという雰囲気をまとっている。」(略)
ハドソンは皮肉をこめてこの告発を締めくくっている「技術的な副産物、たとえば焦げ付かないフライパンが生み出されているという理由で宇宙探査を正当化してよいものか

1952年の有名な論文で、アイゼンクは、精神分析療法を受けた人は何もしなかった場合よりも回復の可能性が低いという事があきらかになったと主張した。

・心理学はこれまで一度も、DNAの二重螺旋の発見のような飛躍的な前進を経験したことがない。生物学―そして物理学にも―大思想というものがある。しかし、一つの明白な真実がある。人間は、星や分子よりも更に複雑だということである。

・(わたしがもともと目的としていたことに)個々の心理学者が主張する理論と、その心理学者本人のパーソナリティや動機との間に関連があるかどうかを調べる

・心理学者のパーソナリティの研究
 アン・ロウ(Roe, 1953)が著名な科学者のパーソナリティについて一連の論文を発表し、その中で心理学者のパーソナリティについて論じた。またハーバードでは、権力への動機に関する研究の中で、心理学者のパーソナリティに関してかなりの量が研究が行われた。

 ロウは、著名な科学者に関する研究の中で、生物学者、物理学者、心理学者の間にはっきりとした違いがることに気づいた。生物学者と物理学者は、孤独な子供時代をすごしている傾向があった。理論物理学者の中には、子供の頃、重い病気のために自分の想像だけを友に長い期間ベッドの中で過ごした経験のある人が多かった。生物学者のおよそ四分の一は、10歳になる前に両親のどちらかを亡くしていた。そのため、生物学者も物理学者も、成人してから人間関係をあまり重視しない傾向が見られた。成人してからも両親を尊敬している人は多いが、密接な関係を保っている人はほとんどいなかった。ある生物学者はロウに「私の親とのつながりは、そんなに親密ではありません」と語った。
他方、心理学者は、子供時代の困難に非常に違った形で反応している場合が多かった。彼らは知的な探求に埋没して人間関係から遠ざかるということがあまりない。また、心理学者の大部分は心理学の世界に入ったのが遅いこと、および心理学者になるという決定においてしばしば教師の個人的な影響が重要だったと思われることも特徴的であった

 ロウがインタヴューした男性の多くは40代から50代であったが、彼らはいまだに両親との強い対立を口にした。多くの人が父親を恐れていた。ロウに対して「私はいつも母と諍いが絶えませんでした」と述べた人や、「家庭のしつけが非常に厳しかったと思います」と述べた人もいれば「父親をはっきりと」憎んでいたと認めた人もいた。20年たっても、少年時代や青年時代について罪悪感や暴力性で反応していたのである。私もカール・ロジャーズの伝記を書く中で、ロジャーズが父親に対して強い反感を持っていたことに気づいた。(Cohen, 1997) (略) ロウは、心理学者は人間関係を非常に重視するが、それに対処するのはあまり得意ではないかもしれないと指摘している

・ハーバード大学、デイヴィッド・マクレランド(達成動機に関する研究)
心理学者は権力への欲求が強い。
論文「権力の二つの顔」(McClelland, 1973)において、権力への欲求の本質は、他者に対して強い影響力を持ちたいということだと主張した。この欲求はふたつの形であらわれる。権力欲求が強い学生には、学生団体の中で多くの役職を持ちたがる傾向と、ひどく深酒をする傾向が見られたのである。ただし同じ学生に両方の傾向が見られるわけではない
「他人のために影響力をもつことを権力概念の中心としている人は、多くの役職を持ちたがる傾向がある。他方、個人的優越を中心としている人は、深酒をしたり、異性をものにしたり、ハイ・パワーの車を運転したりすることによって、大学の中で、アクティング・アウトする傾向があった」(1973p305

・心理学者になる道筋がすっかり変化したことも認識する必要がある。1977年にわたしがインタヴューを行った人のほとんどは、心理学者を目指して出発したのではなかった。彼らは第二次世界大戦以前かその直後に大学を卒業していた。当時、心理学で学位が取れる大学はほとんどなかった。

●サンドラ・ベム(1944-)

心理的アンドロジニー(両性具有性)の理論
「心理学的アンドロジニーの測定」(Bem, 1974)において、ベムは、車の修理など、典型的に男性の仕事とされるものが特異な女性は、ジェンダーの固定観念に凝り固まっている女性よりも心理的に健全であると論じた。同様に男性も、赤ん坊の世話など女性の仕事をこなすことができる人のほうが、精神的に健全であった。

・ベムは小柄な女性だ。そして、ほとんど盲目にちかいくらいに視力が悪いのだが、車も運転すると笑いながら言う。ベムは、教室で「コンテクストにおける生物学」と呼ぶものを論じる時、視力が悪いというハンディキャップを使ってうまく説明する。自分がもし石器時代に生きていたら、視力のため生きるのが困難であり、十代で死んでしまっていただろう、しかし強力なレンズがあるこのすばらしき新世界では、視力10の人と同じようにふるまえるのである

・(Cohen)私は1970年代にあなたの論文を読んだはずですが、徒とも興味深いと思ったのは、ほとんどのフェミニストの著者と異なり、あなたは特に男性に敵意を持っていないように見えたことでした。

 (Bem)私は男性も女性も縛られているという認識をもっています。(略)
女性が活動的であったりリーダーになったりできないのと同じように、男性は―当時のことばでいうと―泣いたり、依存していると感じたり、傷つきやすさを表明したりすることができないのですから。

・(Bem)指摘したいのは―男性的な人々とアンドロジーニアスな人々は高い自尊心をもっているということです。ここで、わたしが実験主義者ではない問うことがはっきりするんですが、自尊心の尺度の中にどんな項目が入っているのか見て、それから男性性の尺度を見ると、両方に共通する項目がたくさんありました。(略)

・(Bem1980年代にはフェミニズムは―私はキャロル・ギリガンのような人々を考えているのですが―女性と女性性を再評価するようになり、男性中心主義は永遠に価値を失いました。思いやり、親密さ、人との関係といったようなことが見直されたのです。重点はもはや、男性と女性の違いを最小化すること―両極化の言葉を使うならば、両性の極化をなくすこと―ではなく、女性あるいは女性的と考えられてきたことに目を向け、その価値を再評価し男性性、男性であること、男性的な制度や組織の批判をするようになりました。

・(Bem)ジェンダー・スキーマ化のしやすさ(gender schmaticity)―ジェンダーの固定観念を持っている人は、ある言葉をきくとそれを男性的なものと女性的なものに分け、アンドロニーニアスなひとはそうしないということです。ここに、両者が同じレンズを使っていないのだという考えが生まれました。

・(Bem)これまでの西洋文化の歴史を振り返ってみると―
 ・違いがあること 
 ・不平等であること(男性は生まれつき支配的である、ないし優れている)
 ・それは自然なことである
という3つの伝統的な信念があった。

・(Bem)わたし達は人間を見て、そして人間に結びつくすべてのことを見て、それに男性と女性の二文法を押し付けます。いろいろな見方ができる万華鏡ではなく、ふたつのカテゴリーとして見るのです。これがジェンダーの両極化です。

・(Bem)人の心はカテゴリーを必要とします。私はそれに同意します。(略)あなたが人間であるという事実が明らかにあなたの多くを形づくっていますよね。四本足ではなく二本足出歩くとか、もろもろのことです。でも、それは意図的にやっているわけではないでしょう。つまり、「私は人間だ。だから二本足で歩こう」とは考えませんよね。おなじようにどちらの性であるかということは、種としてのアイデンティティと同じように、おそらくわたし達の多くを形づくっていると思います。でも、それは自発的な参加、文化的に作られた意識的な形での参加を必要としないのです。

・(Bem)わたしたちがコンテクストについて今理解しなければならないのは、女性の差異を女性の不利益にしている男性中心主義のコンテクストがあるということです。どうして女性の上院議員がいないのでしょう。(略)それは生物学的な問題ではありません。それは生物学とコンテクストの問題です。

●ノーム・チョムスキー(1928- )第一版1977

・(Cohen)もっと無意識的なことは?今おっしゃったのは意識的な背景ですよね。どうして心理学に興味を持つようになったのですか。

Chomsky)というよりも、言語学に興味をもつようになって、それからわたしが言語学で行っていることは、この分野のいかなる合理的な定義からも心理学であると感じるようになったというほうが正確だと思います。奇妙な方法、そして基本的に非科学だと私には思える方法で、心理学を定義する傾向がありますね。心理学とは公道や情報の処理のみを扱わねばならない、あるいは一定の低いレベルでの環境との相互作用とか何かのみをあつかうものだ、わたしが能力(Competenceと呼ぶものの研究は心理学から除外しなくちゃいけないというふうに。私に言わせれば、そのせいで心理学は合理的根拠のない学問になってしまっているのだと思います。つまり、心理学が包括的なものであろうとするならば、そして研究対象の深い探求をしようとするならば、生物体―この場合は人間ですが―がどのような種類の認知構造を獲得し、それを利用するようになるのかという探求をも根本的な形で考慮しなければならないのです。言語はその一つです。ですから、私は、言語学者であることによって自動的に心理学者なのです。

・(Chomsky)科学者は、「この機械と環境の相互作用についてわたしが知っていること、最終段階に関する仮説、その適切性、行うことができたすべての実験と観察から、私は最初の状態について何を前提としなければ成らないだろうか。最初の状態からこうした変化を説明できるようにするには、何を仮定しなければならないだろうか」と問うはずです。
(略)
では、同じ観察結果にアプローチする擬似科学者を考えて見ましょう。そのアプローチは次のようになるでしょう。「最終的な状態などどうでもいい。そんなものは見ようとも思わない。ただ、この機械が環境と相互作用する方法はこれこれだとアプリオリに仮定する。それは連合を形成し、私が特定する一定の物理的な次元で一般化する。それは確率論的な習慣の構造を構成する」このような疑似科学者はこうした手法をあれこれ拾い出し、それが何を語っていようとも、これがこの機械と環境の相互作用の方法だと単純に仮定するのです。
<スキナーの学習理論に対する批判として語られている>

●アントニオ・ダマシオ(1944‐)

・ダマシオは人間は三種類の自己を持っており、そのうちの二つが何らかの意識のパターンを作り上げているという。
①原自己(proto-self) ②中核自己(core self)  ③自伝的自己(autobiographical self)

①原自己(proto-self
相互に接続し一時的に結びついた神経パターンの集合。脳の異なるレベルにおける有機体の各瞬間の状態を表す。通常、原自己は無意識のものである。夜中にこの文章を書いているとき、私の神経細胞がうなりを立てて活動をしているさまをイメージすることはできるが、自分の原自己に真にアクセスすることは出来ない。

②中核自己(core self)
中核自己は一生を通じてあまり変化せず、わたし達はそれを意識している。わたし達が朝起きたとき8時間前に眠りに落ちた自己と同じ人間だと思うのは何故か、彼は、中核意識は一連のパルスの中で常に再生しているという興味深い考えを提起している。これらのパルスが渾然一体となって、連続的な「意識の流れ」が作り出される。

③自伝的自己(autobiographical self)
記憶と将来への予測を基礎にする。

・ダマシオは情動の役割も重視する。
「情動」(emotion)という言葉によって彼は心理的な状態を意味していない。彼はウィリアム・ジェームズに従い、身体の状態の内的な変化(化学作用、内蔵、筋肉)を表すのに「情動」という言葉を使っている。こうした変化はすべて神経系の変化を伴う。ゆえに情動は自覚されない。原自己が無意識であるのと同じである。(略)ダマシオは情動と感情を注意深く区別する。(略―失恋の思い出のたとえ話―ある感情の状態が長く続くとそれが気分であるとダマシオは言う)
 ウィリアム・ジェームズは感情が意識的なものかどうかという問題に頭を悩ませた。ダマシオは―(略)―それは意識的であり、また意識的ではないという。(略)わたし達はデカルトの誤謬に影響されがちであるように、感情は常に意識的であるに違いないと考える傾向があるが、ダマシオは、有機体は感情が起こっているという事を知らないまま、感情と呼ぶ状態を「神経と精神のパターンにおいて表す」と考える。たとえば、わたし達はわけもなく急に不安になったり、嬉しくなったり、気楽になったりすることがある。そのような場合、その感情を発生させた身体的状態のほうが、それより前のどこかで始まっているはずである
*ローウェンLowenチックだ

・快楽と苦痛が人間の根幹であるとダマシオは言う。彼は情動(身体の状態であり意識されない)、感情(人間では通常意識される)、および意識そのもの(感情の内省を可能にする)を連続体上に位置づける。ある意味で、これはダマシオの考えの中で最も分かりにくいものである。(略)また、感じる能力と、感情を理解する能力が意識の発展の鍵であるという考え方も大変興味深い。

・ダマシオは仕事柄、脳のさまざまな部位に局所的な損傷を受けた患者と向き合っている。患者はときとして、脳の損傷が起こる前のように幸せや悲しみを感じられなくなることがある。このことからダマシオは、それぞれの感情を制御するのは脳の異なるシステムであると考えるようになった。医師であるダマシオは、一定の感情を経験できなくなった患者も、それに対応する情動の兆候は示すことがあるのに気づいた。そこから、情動が先に生まれ、感情がそれに続くのではないかと自問している

・(Damasio)スピノザは概略的に言うと、心と体の関係、情動の問題についてわたしが考えていることに最も近い哲学者だと認識したことから(関心が)生じたのです。神経科学で引き合いに出される人物ではありませんけど。

・病変を利用しての脳の仕組みの研究―19世紀より
ブローカ、ウェルニッケ。研究は死後剖検によって行われた。

・(Damasio)ロボトミー手術―私見では前頭葉白質切截法と呼ばれる方法で
これはモニスによって開発されたもの。モニスは1935年にノーベル賞を受賞しましたが、彼の貢献は前頭葉白質切截法だけではなく―脳の血管造影法の開発。これは80年間にわたって、脳の中で何が起きているかを理解する重要な診断手法でした。(略)当時、抗精神病薬がなかったことを忘れてはなりません。患者は拘束医で暴れないようにされていました。重唱の精神障害者には、インシュリンショック療法など信じられないような方法が使われていました。重症の精神障害者には、インシュリンショック療法など、信じられないような方法が使われていました。利用できる治療は未完成で残酷でした。そうした背景の中で、精神病や強迫神経症に苦しんでいた多くの人々にモニスが大きな救済をもたらしたことを受け入れなければならないと思います。

・(Damasio)説明モデルにスピノザを持ち込むまで、ウィリアム・ジェームズは私のヒーローでしたし、今もそうです。どうしてかというと、感情というのは体で何が起こっているかに関するわたし達の解釈だと彼は考えたからです。(私が考えを加えたのは)別の経路、すなわち「あたかも」身体ループを作ることでした。これによって、望むならば身体はバイパスされ、それでも「あたかも」体が関与しているかのようにメッセージが生じることになります。(略)私の貢献は、人が何かを感じるのは、脳の身体地図の中にあるものを知覚する結果だと考えた事です。喜び、悲しみ、その他の情動は、脳の内部でシュミレートされることが可能です。実際に身体を通る必要はないのです

・(Damasio<ソマティック・マーカーについて>人の決定は、知識や論理的思考の結果であるばかりではなく、過去の情動の積み重ねの結果でもあります。これは意識的ではない衝動です。何かをしてはいけないと教えてくれる直感のように。

Cohen)これはロバート・ザイアンスの「ホットな認知」に近いのでしょうか。たとえば他者に対する感情は非常にすばやく起こり、それがその人を判断するときに影響を及ぼすとザイアンスは言っています。

Damasio)ザイアンスはそんな事を指摘しましたね、ええ

Cohen)つまり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を「我感じる、ゆえに我あり」と置き換えるべきだということですか

Damasio)まさしくそうです。

●ハンス・アイゼンク(191697)第一版1977

・自伝「造反有理」(Eyesenck, 1990[訳注 原著タイトル Rebel with a Cause は、映画「理由なき反抗 Rebel without a Cause(1955)をもじったタイトル]

<統計に関する表現>たいていの心理学の研究では、相関が偶然によって得られる可能性が100分の一であれば強力な結果と言える。(1%水準で有効)

・「たいていの心理学的問題は心理学を超越する」
 「心理学、生理学、遺伝学、その他の生物学の専門領域の区分は、管理など実際の目的のために人工的に作られたものであって、それに対応するものが自然界にあるわけではない」

・(Eyesenck)僕がこの論文の中で言ったのは、いかなる心理療法にしても自然寛解より大きな効果を生み出している証拠はないということだった。

・(Eyesenck)僕も実験心理学者だが、僕は他の多くの人とかなり異なる形で物事を見ているように思う。一般的な構図の中に生物そのものを取り入れるべきだと僕は主張しているんだ。他方僕は、実存主義者のようなよくみかけるパーソナリティの理論家にはまるっきり賛同しない。彼らは科学的な証拠に基づかないパーソナリティ心理学を作り出そうとしているからだ。これは間違っている。僕たちがしなければならないのは、実験心理学の概念を見直して、個人の違いを研究するパラメータ(媒介変数)としてこうした概念を用いることだ。たとえばハル学派の主要な概念である反応抑制を使ってこれを行うことができる。僕が試みているのは、パーソナリティと実験心理学を結びつけることだ。それは、二つの椅子の間にすわっているようなもので、両方の側から厳しく批判される。だがね、状況は良い方向に進みつつあるよ。このような問題へのアプローチの必要性が認識され始めているんだ。

●ジョン・フレイヴル(1928-)

・フレイヴル著「ピアジェ心理学入門」は、発達心理学の開拓者にして今尚この分野に聳え立つこのスイスの心理学者の考えについて、最良且つ重量級の解説書という地位を保っている。

・ピアジェ(1896-1980
子供の心の発達の4つの主要な段階
~2歳 感覚-運動期 ・この時期には協応動作を学ぶことが何より重要
    前操作期   ・極基本的な論理的課題や操作をほとんどできない時期
    具体的操作期 ・推論の対象を物理的に知覚できる限りにおいて論理的思考できる
    形式的操作期 ・抽象的な思考が出来るようになる。
操作という語によってピアジェが意味するのは、常に論理的な操作である。
・ピアジェは子供がそれぞれの段階に入る「正常な」年齢はないと何度も主張した。

・フレイヴルは、ピアジェの解説書を書くことに決めた時、すでに10年近くに渡って心理学を教えていた。自身の最初の著作でもなかった。最初の著作はロールプレイングと子どもの視点取得の問題に関する本であった。そして、その問題はピアジェ理論の重要な論点であった。ピアジェは、子どもは7歳頃まで他者の視点をとることができない、と主張する。

・フリンのIQ研究[訳注 ニュージーランドのオタゴ大学の心理学者ジェイムズ・R・フリンは世界中の子ども達の知能指数が年々向上していることを報告し、そのことはフリン効果と呼ばれるようになった]フリンはIQの平均値が20世紀の間におよそ10ポイント上がったことを発見した。その結果、心理学者たちは子どもがそれぞれの課題を達成できるようになる年齢を引き下げ続けている。

・「誤信念課題」
子ども達に箱を見せてから、箱の中に人形を隠す、一連の実験。その後で主人公が部屋に入ってくる。主人公は人形が箱の中に隠されるのを見ていない。しかし4歳までの子どもの多くは、その主人公は箱の中に人形があると思っていると答える。主人公は人形が隠されるのをみておらず、そう考える理由がないにも関わらずそのように答えるため、誤信念課題と呼ばれる。これは、子ども達がまだ他者の視点を取ることができないという事実を示している。しかし5才になると、一般に子ども達はこの課題を正しく行うことができる。

・(Flavell)私は研究者人生のほとんどを視点取得と呼ばれるものに費やしてきたといえるのでしょうね。心の理論、内観、他の人が考えているらしいこと、私はそれらのすべてを視点取得において考えているのです。

・(Flavell)私は子ども達を相手にして、何ができて、何ができないかを示す研究が好きです。私はこのことになるととても単細胞の人間なんです。深い理論的立場を検証しようとしているのでは在りません。複雑な理論アhもっていないのです。岩の下を掘ってみて、発達可能な物が何かを発見するのが好きなんです。わたし達は、大人になると以前には持っていなかった、そしてこれまで誰も気づかなかったどんな能力を身につけるのだろう。どのような発達の経路をたどってその能力を身につけるのだろうかと。

・現在はMRIは少なくとも89歳にならないとできない。―将来、3歳児にもそれをつかえるようになれば神経的に何が起こっているかを見ることで研究が進歩するだろう。

●ヴィクトール・フランクル(190597

・信号待ちをしている間にフロイトから論文の執筆を依頼された。

私(Cohen)がテープレコーダーのスイッチを入れると、フランクルはにこりとし、自分のテープレコーダーにもスイッチを入れた。私が彼の言葉を誤って引用するかもしれないと心配していたためではない。インタヴューを受ける時には自分用の記録を取っておきたいというだけだ

・フランクルは、精神病患者をねじのゆるんだ高等なやわらかい機械ではなく、責任ある人間として扱った最初の精神科医の一人だった。

・第一次世界大戦からもたらされた心理学的な「発見」は、兵士たちが砲弾ショックに苦しむということだった。第二次世界大戦とホロコーストの恐怖からは、そのような「発見」は何ももたらされなかった。しかし、フランクルは、患者を治療するだけでは十分でない事を学んだ。患者は「精神的必要(スピリチュアルニーズ)」と呼べるようなものをもっている。そしてフランクルはそれから逃げようとはしない。インタヴューの中でフランクルは、自分が行ったことはヒューマニスティック・セラピーの創始者であるエイブラハム・マズロー、すべての人は自己実現し「至高体験」を持とうと懸命に努力すると強調したマズローに似ていると述べている

 どうして我々はここにいるのかという大命題に対するフランクルの答えは、ロゴセラピーである。これは人生の意味という人間の基本的欲求を認識するアプローチである。21世紀の今、これは成功したセラピーの一つになっており(略)

・フランクルの両親は進歩的なユダヤ人だった。誰も彼にシナゴーグに行くよう強制しなかった。しかし、彼の中には精神的(スピリチュアル)な感情が育っていった。彼はそれは宗教的な感情とは異なると主張する

・不思議なくらいに何でもありの世界だった第一次世界大戦後のウィーンでは、非常に早熟な分析家たちが活躍していた。精神分析家医のモーツァルトともいうべきこうした分析家の一人に、ヴィルヘルム・ライヒ[訳注 フロイトの弟子で、マルクス主義と精神分析の総合を構想したが、その独特の考えと活動のために精神分析協会からも共産党からも排除され、アメリカにわたり、最後は獄死した]がいる。フロイトは、まだ20代のはじめだったライヒに、そして少し後にはフランクルに、自分の患者を回した。どちらも20代の前半で人々の分析治療をしていたのである。

・フランクルは、フロイトは性を重視しすぎ、人間性の豊かで精神的(スピリチュアル)な側面を否定していると感じた。性がなんでもかんでも引き起こせるわけではないのだ。

医学を学ぶかたわら、フランクルは、オーストリア、ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーの各地に若者のカウンセリングセンターを設立するのを手助けした。その主な目的は、自殺願望のある若者達を助け、文字通り彼らと話し合って生きるように説得することであった。これがフランクルにとって最初の実践的なセラピーとなった

・「生き延びる理由や目標をもっている人は、生き延びる確率が最も高かった」(略)フランクルと一緒に修養されていたある男性は、戦争は1945330日に終わって解放されるという夢を見た。最初、彼は楽観的だった。しかし、三月が一日一日過ぎていくと絶望的になり始めた。戦争が終わる兆しは見えなかった。三月二十九日、彼の意識は混濁し始めた。三月三十日、意識を失った。そして、三月三十一日、帰らぬ人となった。北朝鮮や日本の捕虜収容所でも同じことが見られたとフランクルは言う。「未来に実現される意味に気持ちを向けているひとは、生き残る可能性が高かったんだよ」

・「自己超越とは、人の存在が何か他のものや他の人に向けられていることを意味する。人間であるということは、実現すべき意味を得ようとすることだ。たとえば、誰かを愛したり大義のために身を尽くしたりするとき、人はことばの最良の意味で本来の自分になる。意味を見出す動機づけがあると僕は言い続けているんだよ。」人間性は意味への意志を伴うのである

・「ロゴセラピーは、人間とは単に衝動や本能や欲求の満足を求める装置なのではないという事にいったん気がつけば、いろいろな資源を利用できるという人間の次元を開くことによって、人々に貢献してきた。人間の下位要素で説明できることを超えて、すぐれて人間的な動機というものがある。人は大義のためにわざわざ苦しむこともできる。アプリオリに存在するバイアスに基づいて研究をたとえば動物に限るならば、それを捉えることができない。だからといって人間が生化学的存在であることをやめるわけではないが、人間はそれだけではないんだ。純粋思惟論の(本質的に人間的な)次元は、精神と身体を包含しているんだ。」

・(Frankl<10代の頃に影響を受けた書物>フロイトをたくさん読んだな。最も深い感銘を受けたのは『快楽原則の彼岸』だった。そこには形而上学的なもの、自然科学や心理学を超えたものがあったから。

逆説志向
「リンダ、できるだけ神経質に行動してごらん」と言ってみた。彼女は「いいですよ。神経質になるのはわたしにとって簡単です」と言って、こぶしを握りしめてみたり、震えているように両手を振動させたりしはじめた。僕は「いい調子ですよ、でももっと神経質になってごらんなさい」と言った。すると、彼女はその状況の滑稽さに気づいて、「ほんとうに神経質になっていたんですけど、もうなれません。変ですけど、緊張しようとすればするほど、緊張できなくなります」と言ったんだ。逆説志向の本質は、「患者に自分が恐れているまさにそのことをしてもらう、または起こるように願ってもらう」ということだ。これが逆説志向の定義だよ。

「原罪」ということとの関連で考えられるだろうか。「罪を犯しなさい」と言われてそうしようとすると、そうできなくなる、みたいな。あるいは「常に罪びとだ」と考えることは罪びとでなくする、みたいな。
*行動活性化療法

・(Cohen)逆説思考が面白いのは、ユーモアや皮肉を使う数少ない手法だと思われることだと私は考えています。あなたがおっしゃっているのは、結局のところ、人は誰でも自分をかなり切り離して見ることができるということのように思いますが

Frankl)核心をついているね。行動療法の場合と同じく、本質的に言って、恐怖症の根底にあるのは恐怖を引き起こす状況の回避ということだ。それに対してできるだけ直接的にアプローチしなければならないんだ。僕は1929年頃に直観的にそのことに気づいた。この手法が人間独自のものであるユーモアと皮肉の感覚を使うという事実は、現在では行動療法のセラピストによって認識されている。たとえば、モーズレー病院のアイザック・マークスは、同僚達に広場恐怖症の一団をトラファルガー広場に連れて行ってもらった。(略)そのとき精神科医たちはあるパターンが生まれてくるのを目にした。広場恐怖症の人たちは、互いにからかいあったり、恐怖を誇張したり、自分達を笑い飛ばしたりすることによって恐怖に対処し始めたんだ。患者達は逆説志向の基礎にある対処のメカニズムを自然に作り出したと言えるだろう。
*防衛機制

・(Frankl自己切り離し自己超越は治療の目的で使えるはずだ。ただし、君が還元主義者だったらそれは無理だ。人間の意味を求めることは反動形成や防衛機制の一つに過ぎないと考えるならば、こうした能力を利用することはできない。

・(Frankl)教育は、意味の可能性に敏感であるように人間を育てることを重要な仕事とすべきだね。これはゲシュタルト知覚に大きく関わっている。

ヌージェニック神経症[訳注 実存的葛藤から生じる状態]
Frankl)一般に神経症のおよそ20%はヌージェニックと考えることができる。セラピストは、患者が直面している実存的問題を理解し、人生の目的と意味へと患者を導くことによって問題の克服を手助けしなければならない。

・(Frankl)僕はいつも意味には三つの形があると主張している
①創造的なもの ②経験的なもの ③心の姿勢
①作品を作ったり、何かを行ったりすることで意味を実現することができる
②自然や文化の中で有益なものを経験すること、あるいは自己の中で誰かを経験すること。つまり愛を経験することによって、意味を実現することができる。
③希望のない状況に捕らわれた無力な犠牲者である時でさえ、それに立ち向かう心の姿勢によって意味を実現することができる

・ミステリアム・イネクイタティス(mysterium inequitatis 悪の神秘)ある人のすべてを説明できるならば、その人から人間性を奪うことになる。

・(Frankl)精神科医として、僕は人間がいろいろな形で決定されるということを知っている。心理学的に、社会学的に、生物学的に。でも最終的には自分の状況に対してどのような立場を取るかはその人の自由だ。僕は人間の自由の余地がごくわずかしか残されていない強制収容所の極限状態でさえ、人にはいろいろな形で行動する可能性があるという事を示すために『夜と霧』を描いた。そんな場にあってさえ、人は、状況にどう立ち向かうかを決定することができるんだ。

Cohen)それでは形を変えてストア派の教えを論じているだけになりはしませんか?人生があなたに何を与えようと、尊厳をもってそれを受け入れなければならないという?

Frankl)ある意味でそれは正しいだろうね。でも、それにとどまらないんだ。ストア派は自分の静穏を保ちなさいと言うだけだ。僕はさらに鎮静剤を処方することができる。鎮静剤にちっとも異論はないよ―僕はヨーロッパ大陸でその使用を最初に進めた医者だった。でも、ストア派の哲学は人々を鎮静させるだけだ。静かに、リラックスして、肩の力を抜いて、冷静になれと。僕は自分の緊張を無視すべきではなくて、それに向き合うべきだと言っているんだ。苦しみを通してこそ、苦しみを深く掘り下げることを通してこそ、最善を尽くすことができる。それを超越することによって自己を実現できるようになるためには、苦しみを十全に経験する必要がある。だから僕は強制収容所で目を閉じてしまいはしなかったんだ。僕は自分が見たものに立ち向かった。極度の嫌悪や共感を経験し、他者とともに苦しんだ。それを見据え、期を逸らさないで乗り越えなければだめだと自分に言い聞かせたんだよ。

・宗教は意味への意志の一つの形態

・(Frankl)僕はごく最近、14歳の時に考えた観念に戻ってきた。この中で僕は神を人間の最も親しい独白の相手と定義した。このうえない孤独と誠実さの中で人が自分に語りかける時、それはある意味で祈りだ。正直に自分に語りかけているならば、自分に語っているのか神に語っているのかはその人が決めることだ。

・マズローとの違い
Frankl)僕は、自己実現は人間にとって第一義的な目的でも最終的な到達点でもないと思っている。それは懸命に努力する目標になりえないんだ。目標にすれば幻想になってしまうだろう。同様に快楽を目的とすることもできない。(略)自己実現は自己超越の副産物だ
*あー、これはすごく共感できる。

・エンカウンターグループへの批判
Frankl)僕が批判しているのは、エンカウンターグループは自己表現に浸って自己超越を無視するということだ。話し手と聞き手がいるとき、そこには第三のことがらがある。何について話しているかということだ。それがこうしたグループにはかけているんだ。人々はただ自己を表現しているだけで、対話の中で自己を表現するというよりも、自分の怒りや感情の発散自体を目的としている。それでは互いに独り言を言い合っているだけだ。必要なのは、発散を奨励されるだけではなく、自分や他者が人生に固有の意味を見出すのを手助けするよう奨励されるグループだ。すべての感情を解放するのはむしろ病的だ。どんな神経科医もそれを勧めはしないだろう。脳は抑制の解除だけではなく、抑制にもかかわっているんだから。
*んー、そういうグループを考えるとすごく高圧的な、操作的なものをイメージしてしまう。意味を見出すのを手助けする、とはどういうことなんだろうか。

・どのように生き抜くかという事によって意味を見出すことができる。

●ダニエル・カーネマン(1934-)

・ノーベル賞の受賞理由、スウェーデン王立科学アカデミー―「不確実性の下での人間の判断と意思決定など、心理学の研究から得られた成果を経済学に統合した」―少なくとも心理学に言及するたしなみをもっていたのだ。ノーベル賞の受賞理由書には、カーネマンの業績は「人間の判断がいかに確率の基本原則から体系的に逸脱した近道を取るかを発見することによって、新しい研究分野の基礎を築いた」と述べている。

・カーネマンの業績をほんとうに理解するためには、古典的経済学説についてある程度知らねばならない。ポール・オーメロッドの『バタフライ・エコノミクス』によると、経済学者は250年以上、合理的な人間の理論に固執してきた。これは金銭とリスクについて合理的なのが当たり前であり、平均的な人間は頭の中に小さな計数装置をもった計算機で、投資だけではなくすべての経済状況のリスクと報酬を完璧に分析できると仮定する。(略)

 1960年代終わりごろまでにカーネマンは、経済学のいわゆる合理的モデルは心理学的な現実に対応していないと考えるようになった。個人がリスクを分析する方法は、リスクを負う人それぞれの心理に加え、彼が認知的錯覚とよぶものによってゆがめられる。私たちは確率の合理的な解釈があまり得意ではない。ピアジェの言葉を借りるなら、私たちの大部分は「形式的操作」の段階には達していないのだ。

・(Kahnemanユダヤ人の多くがそうですが、私は人とことばだけで成り立っている世界で育ちました。そしてほとんどのことばはひとについてでした。自然はほとんど存在せず、花の名前を覚えることも、動物を愛でることもありませんでした。

・(Kahneman)私はとても尊大な子どもだったに違いありません。―『我が思索の書』―エッセイ、パスカルの「信仰とは人で近くできるようにされた神である」(「何と正しいのだろう!」)ということばを引用し、それからこの真正の霊的経験はおそらくめったになく、頼みに出来ないものであり、もっと頼みになる代用品を生み出すために大聖堂やオルガン音楽が作られたと指摘しています。

・(Kahneman十代の私の関心を引いた問題は哲学的なものでした。人生の意味、神の存在、不行跡を働いてはいけない理由などです。けれども、だんだんに、神が存在するかどうかよりも、何が人に神を信じさせるのかに自分の関心があることがわかってきました。 (略)職業ガイダンスを受けたところ、一番に推奨を受けた分野は心理学でした。経済学も有望な二番手でした。

・(Kahneman)(大学)一年生のときに社会心理学者のクルト・レヴィンの著書に出会い、彼の生活空間論に深く影響を受けました。(略)また、私は神経心理学にも心を惹かれました。敬愛するイェシャヤフ・レイボウィッツ先生の講義が毎週ありました。

・(Kahneman)(軍事訓練とその評定から)「妥当性の錯覚」という言葉を作りました。(略)それは、私が発見した最初の認知的錯覚でした。

・「直感的な予測」というテーマ―戦闘部隊の新兵の面接を行う方法の開発

・三つのヒューリスティクス(代表制・利用可能性・アンカーリング)

・アメリカの有名な哲学者「愚かさの心理学には興味ありませんな」

・合理的行為者モデルを批判する時の標準的な文献に

・ヒューリスティックとバイアスの研究、非合理の証明ではなく、合理性という非現実的な概念の誤りの証明

・判断のバイアスを調べるには、直感的思考と反省的思考の相互作用に注意を払うことが必要。反省的思考は時にバイアスのかかった判断をゆるし、ときにそれを覆したり修正したりします。

・敵対的共同作業(adversarial collaboration)現在、社会科学では、批判―応答―再反論の形で議論が行われていますが、私はそれに変わるものとして、敵対的共同作業という方法を提唱しています。―共著論文の一部として不一致点が提示される。

RD・レイン(192789)第一版1977

・ロニー・レインは文化の教祖的存在になった精神科医である。

・インタヴューの中でレインは、自分の考えが誤って伝えられていることを認識していた。特に、極左勢力の指導者である、あるいは彼の心理学的な洞察が革命を支持した、と言われることに憤慨していた。

・患者は狂った行動をしているのではない。彼らは抵抗しているのだ。残されたわずかの抵抗の手段を使っているのだとレインは言う。『ひき裂かれた自己』において、レインは、引用した患者の会話を詳しく分析し、患者はクレペリンを滑稽に真似する自分と「挑戦的反抗的な自分」の間で対話を行っていると主張する。

・「狂気」は手に負えない状況に対処する手段であり、気が違ったのではなかった。それは戦略に過ぎず、耐え難い矛盾から抜け出す唯一の方法だったのである。

・『狂気と家族』において、レインとエスターソンは人を統合失調症と判断する方法を厳しく非難した。二人は、統合失調症の診断についてひろく合意された客観的な基準はないと主張した。この病気には、一定の前精神病的なパーソナリティも、経過も、期間も、終結も見られ字、死後解剖でも特別な所見は見出されていない。(略)つまるところ神話だと二人は主張したのだった。

・この議論の中でレインが大いに頼りにしたのは、サスの『精神医学の神話』Szasz,1960)であった。サスは、精神医学とはよけいなおせっかいであり、精神科医とは搾取者だという過激な批判を行っていた。精神科医は治療者というより看守だ。精神科医はあまりにも簡単に社会的な支配の道具になってしまう。

・科学者というより預言者、あるいは詩人としてのレインの評判を高めたのは、『対人知覚』(Laing, Phillipson, & Lee, 1966)と『結ぼれ』(Laing, 1972)という二冊の著書である。『結ぼれ』は一連の詩として書かれている。そこにあらわされているのはレインが普遍的な人間の状況として私たちに認識してもらいたいことである。それはわたしたちが巻き込まれてしまっているもつれであり、私たちを絡め取る典型的な網である。

・家族の関係が人を狂気に導くという概念は目新しいものではない。『ハムレット』や『リア王』は、文学のこの不変のテーマ-19世紀の精神医学がほとんど無視してきたテーマ-の最も有名な例に過ぎないのである。

・しかし、現在では統合失調症が本物の病気であるということに異議を唱えるものはいないということに言及しておかなければならない。世界の診断基準に関する世界保健機構の入念な調査により、文化を超えた合意が作られている。現在、ほとんどの精神科医が第一の症状に幻聴が含まれると考えている。ただし、その幻聴が常に狂ったものなのか、それともときには緊張を解消する一つの方法という奇妙な、しかし有益なものなのかというてんについては、興味深い議論がなされている。

・コミュニティケアのジレンマについても、レインとの関係を指摘しておくべきだろう。現在、かつてなく多くの患者が病院の外で暮らしているが、それは本当に患者にとってよいことなのか。レインがエノック・パウエルの跡を継いで、鍵のかかった病棟に隔離すべき患者はもっとずっと少ないはずだと主張したとき、彼らが人の家の戸口や駅や端の下で眠るようになるとは予測しなかった。

・以下のインタビューは本書の初版からの再掲である。

・(Laing精神科医がやっていたのは、イルカの行動を理解しようとするときに海の中じゃなくて水族館やイルカ館の中でイルカを調べるようなものです

・(Laing)セラピーと呼ばれるものの実践は、その仮面を捨て去る可能性に大きく関連しています。人々はなにより恐怖からそれにしがみつくのです。仮面は、敵と感じられる他者の攻撃から身を守るために内側に築いた城のようなものであり、同時に、抜け出すことの出来ない牢獄でもあります。それが仮面の両義性です

・(Laing)この本の重さを測りたいならば、非常に正確に測ることができます。しかし、あなたが私にこの本を思いと感じますかと効くなら、あるいは私にその本を渡して、「どのくらい重いと感じますか」と聞くなら、部屋の温度とか私の体調とかによって違うでしょう。重いと感じるかもしれないし軽いと感じるかもしれません。でも、このとき、その重さの感覚を測ることはできません。本の重さを測ることはできるけれども、その本の重さをどう感じるかは測ることができないのです。すべてのことがそうです。

●ハーバート・サイモン(19162001

・ハーバートは人工知能のパイオニアのひとりだ。彼を心理学者の中で一躍有名にしたのは、1957年にアレン・ニューウェルとともに設計したチェスプログラムであった。

・(Simon)私たちは20世紀のはじめに内観が経験したような不幸な事態をもう一度繰り返すわけにはいきません。当時、内観の中身はどの研究室にいるかによって違っていました。ですから、私たちは、共有できる客観的なデータを生み出す必要性にたいへん気を配っています。

・(Cohen)私がインタヴューした人々の何人かは、自分にとって心理学はそれについて書いたときに生きたものになるのだと言いました。作家のEM・フォースターが「自分がかいた言葉を見るまで、自分が何を考えるかどうしてわかるのか」と言っているんですが、それに近いかもしれません。
*外在化

EM・フォースター(Edward Morgan Forster 18791970 イギリス)『インドへの道』『ハワーズ・エンド』
異なる価値観をもつもの同士が接触することで巻き起こる出来事について描いた作品が多い
「善でもあり悪でもあるもの」に対する深い認識。どの登場人物も二重、三重のかおっを持っていて、しかも小説は明確な結論を示してくれない。

●バラス・スキナー(190490)第一版1977

・バラス・スキナーは1990年にこの世を去った。彼はおそらく、ほんとうに世界中の読者に影響をおよぼした最後の心理学者だろう。

・彼は「行動修正」のいくつかの手法の発展に寄与した。スキナー学派の条件付けの健全な原則に基づく「行動修正」は、アメリカでは精神分析とほとんど同じくらい一般的になっている。今でも非行少年少女、知的障害者、自閉症の子ども、そのタ行動に何らかの問題があると考えられる人々に対して用いられている。(略)『ウォールデン・ツー』の中でスキナーは、完全で調和の取れた社会を描いた。この新しいユートピアをを実現するには、スキナーを有名にしたもの、すなわち条件付けと強化を使わなければならなかった。彼は常に社会改革者の面をもっていたのだった。
*ヤマギシ会の発端の鳥小屋の話を思い出す

・自伝『我が人生の顛末』(1976

・人間機械論

・(スキナーボックス)最初スキナーは、そのラットがレバーの方にちょっとでも動いたら報酬を与えた。次に、レバーから30cm以内に近づいたらエサを与え、継いでそれを15cm以内に縮めた。少しずつ、少しずつ、ラットをレバーに近づけ、とうとうそのすぐそばに来たときにだけ報酬を与えるようにした。
 しかしラットがしなければならないのは、これだけではなかった。スキナーはレバーを押さなければえさがもらえないことをラットに覚えさせたのだった。スキナーの行動の「形成」は緻密で、非常に興味深いプロセスである。最終的にその動物にさせたい行動に近づく一要素ごとに、報酬を与えていく。それはまるで正確に計画された複雑なダンスのようだ

・(「プロジェクト・ピジョン」)彼は優れた調教師たちが何世紀もやってきたことを、きわめて分析的な方法で行った。

・スキナーは1929年にハーバード大学に入学した時、すでにパブロフとJB・ワトソンを読んでいた。実験の背後にある考え方ではワトソンに影響を受けたが、より直接的な影響を受けたのはパブロフからであった。スキナーは反射について研究し始めた。インタビューの中で彼は、いかにしてそれに満足できなくなったかを説明している。オペラントの概念は反射への批判から生じた。しかし、スキナーのオペラントと反射の区別<訳注 反射は自動的反応、オペラントは自発的行動>は、容易に曖昧にされてしまう。特に、彼の研究の社会的な応用に関心を持つ人には、両者の違いは覆い隠されてしまう。主な違いは、オペラント条件付けにおいては特定の行動が生み出す結果を調べ、それを利用するという事である。『科学と人間行動』においてスキナーは、以下のように説明している。

 「先行刺激を特定しなくても、あるいは特定できなくても、行動に事象を随伴させることは可能である。われわれは、ハトが首を上に伸ばすような動きを誘発するように環境を変えてはいない。一定の単一の刺激がこの動きに先行していることを示すのは多分不可能に違いない。この種の動きが刺激による統制を受けている可能性はあるが、その関係は誘発によるのではない。それゆえ、反応という用語は必ずしも妥当とはいえないが、非常に良く使われる用語となっているので、以下の議論においても用いることにする」
 「一つの反応が既に起こってしまった後で、それを予測したりコントロールしたり出来ないのは当然のことである。予測できるのは、将来それと似た反応が起こるだろうということだけである。したがって、科学の予測の単位は、一回の反応ではなく、反応のクラスである。オペラントという用語はこのクラスを記述するために用いられる。この用語は行動が環境にオペレートし(=働きかけ)結果をもたらすという事実を強調するものである。行動の結果が、どういう反応を似たものとみなすかの特徴を規定している」

・人間はかつて、地球が宇宙の中心であるとかんがえるほど傲慢であった。人々は地球をこの中心的地位から追い出すコペルニクスの考えに激しく抵抗した。人間は内観によって知ることができる感情や意図や目的をもち、それによって物事を行っていると主張するのも、同様に人間の驕りである。『自由と尊厳を超えて』の中でスキナーはそうした驕りの愚かさを端的に示すため、ヴォルテールの言葉を引用している。『カンディード』の著者ヴォルテールは次のように言う。「自分が望むことができるとき、自分にとっての自由があるが、自分が望むことを望まないではいられない」自分が何を望むかを制御する自由はないのだ。
*フロイト「精神分析入門」の、天動説→進化論→無意識の発見への人間が中心から疎外されていく流れ

 これが要点である。スキナーは、行為とは内部の感情や意図から説明することが出来ず、過去の歴史から説明すべきものだと主張した。この歴史も外的な行為の一つである。自分が何かを望むのは、過去に自分に起こったことのせいである。自分の過去の行為の結果が今の反応のパターンを形づくっている。もっとはっきり言えば、今の反応のパターンを決定している。自分に選択の余地はない。自分はかくかくしかじかと感じたから、あるいはかくかくしかじかと考えたからこれを行ったというのは、正確ではない。スキナーは、人間の行動にこうした内部の儀式が伴うこともあるのは認めているが、それは付帯現象、副産物に過ぎないという。意識の流れ、きわめて人間的な観念や印章や気分の本流は、人生の本質、すなわち行動には関係がないのだ。

・スキナーは「自由だと感じる」ということの意味について、人間は思い違いをしてきたのだと主張した。それは恍惚とした神秘的な内部の状態ではない。人は避けたいと思う状況から逃れた時に自由だと感じるのだと彼は言う。自由とは苦しい状況を回避することである。『自由と尊厳を超えて』において、彼は次のように書いている(p.37

 「(略)それは人間が自由を愛するから行われるのではない。それらは、個人にとって、そしてそれゆえ種にとって、さまざまな脅威を縮減するのに有益であることが進化の過程で明らかになった行動形態に過ぎないのである。

・人が子ども時代の歴史に発する焼けつくような望みをもっているとき、その人はそれをもつことを本当に望んでいるのではない。それをしないという決定権をもつ内なる自分は、心の中には住んでいない。子ども時代の歴史、子ども時代の強化が、今の自分をつくっている。それを認めることは人を無力にしてしまうため、私たちは認めたがらないけれども。
 
 スキナーは、人々がこれを認めない理由のひとつは、もし社会が知的に設計されているなら、人々は自分の行為について名声を得ることも非難されることもなくなるという点だと考える。人は何にも価しない事になる。ふつう、私たちはすぐれた行いやすぐれた精神を称賛するが、スキナーから見れば、称賛すべきものは何もない。行いや精神は、強化の随伴性の帰結である。スキナーは、このような考え方は魂の宿らないものに聞こえることを気にしない。かれは、この自由で自立した人間とやらは、地球を破壊し、仲間の人間を殺戮し、建設的な平和の中で暮らせるという兆しすら見せていないではないかと、もっともな反論をするのだ。

・(Cohen)マクレランド教授は、あなたの世代の心理学者は宗教や原理主義の道徳に対する反発として、心理学の分野に入った場合が多いんじゃないかと述べました。これはあなたにあてはまりますか。

Skinner)僕はその世代じゃないよ。それは一世代か二世代前の話だろう。1890年代に心理学の世界に入った人は、牧師や牧師への道を学んだものが多かった。それは確かにそうだと思うよ。ワトソンにもそういう面はあったと思うし、僕にもそういう面が少しはあったかもしれない。僕は長老派の信徒として育てられたけど、大学に入るまでに宗教には見切りをつけていた。僕は幽霊への恐怖心を克服しようとしていたジェレミー・ベンサムとは違うと思うよ。ベンサムは乳母から聞いた幽霊話のせいでお化けが怖かったらしいが。うん、やっぱり僕にはマクレランド教授の洞察は当てはまらないな。

・(Skinnerパブロフは生命体(organism)ではなく器官(organ)に注目する心理学者だった。それに、彼は自律神経系ならびに反射実験がうまくいく唯一の線に取り組んでいた。彼が唾液腺に行き当たったのは驚くべき偶然だった。実験に用いることが出来る別の腺を見出すのは非常に難しい。たとえば脚の屈折について筋標本を使おうと頑張っても、パブロフの反射の研究にはならないと思った。今でもそう思わない。涙を使うのは無理だ。胃液の分泌を使うことは可能かもしれない。(略)

Skinner)フロイトは非常に重要な発見をしたと思うし、他の人々によってなされた発見に注意を向けたと思う。そのおかげで僕たちは変化した。僕たちはもはや、気まぐれな偶然を信じない。たとえば、君が約束を忘れたとしたら、それには理由がある。彼は必ずしもいつも正しい理由を挙げたわけではないと思うが、僕は彼の決定論を受け入れている。彼の大きな誤りは、心の装置と呼ぶものを作り出したことだと思う。ドイツの意志心理学から生まれたすばらしい創作だが、それは悲劇的だった。もし彼が、自我、超自我、イドという三つのパーソナリティに頼らずに事実を体系化していたら、心の地形学や地理学、意識、前意識、無意識に頼らなかったら、もっとずっと前進していただろう。でも、そんなに注目もされなかっただろうね。

・(Cohen)心の装置に関するあなたのご意見は、ヨーロッパの心理学者などによるもう一つの批判、すなわち、あなたの研究は思考よりも行動に目をむけるアメリカ心理学の傾向の極端なものだと言う批判につながるように思われます。このような批判は正当だと思われますか。

Skinner)それはおそらく、アメリカ人がヨーロッパからここに移動してきたという特殊な環境の副産物なんだろうね。ここでは行動することが出来る。どこにでも行くことが出来る。
 (略)認知心理学は無知への注意喚起だからね。それは、生物の内部になんらかの説明的な実体、すなわち思考や推論や直感に関係した物事をおいている。僕はこうした内的な思考プロセスに起因する行動の環境的な表れに到達したい。そうするとき一歩前進することになる。人が何を考えているかによって行動を説明するなら、その思考を説明しなければなんらないからだ。そうすると、全く新たな問題を抱えることになる。

・(Skinner僕は、長期的に見ると、人は自由でもなく責任もないと思う。だけど、僕は人々がこれまでに感じたことのないような自由を感じる世界を望んでいる。人々が嫌悪による統制ではなく肯定的な強化を受ける世界、人々がこれまでよりも多くを成し遂げる世界を望んでいる。

・(Cohen)感情が副産物だというのと同じように、あなたは意識も副産物だと主張していらっしゃるように見受けられます。覚知(アウェアネス)は社会によって私たちに課せられるのだとおっしゃいましたね。

Skinnerすべての行動は最初は無意識だ。どうして自分がそのように行動しているか認識しなくても行動する。しかし、「どうしてそれをしたの?」「次に何をするつもり?」と尋ねる言語コミュニティによって、自分の行動に気づかされることがある。抑圧された深層に意識的なものを追いやることによって無意識が生み出されるんじゃなくて、それが無意識の上に課されるんだ

・アイゼンクの研究から、人は条件付けのプロセスへの感受性の違いを遺伝的に受け継ぐという証拠が挙がっている。

・(スキナーの論では)どうしてわたし達が逃げるとともに怖いと感じるのかについては、説明がなされていない。

・スキナーは自伝で、自分に起こったほとんどすべてと思われる出来事を列挙した。それがさまざまなことを網羅しているに関わらず、そしてまた自分が感情をもっていることを彼が認めたという事実にもかかわらず、スキナーはこうした出来事によって自分がどう感じたかを記録することには躊躇したように思われる。お仕置きとして母親から石鹸水で口をすすがせられた時の気持ちさえ描かなかった。


●デボラ・タネン(1948-)

・『わかりあえる理由、分かり合えない理由』(Tannen, 1990

・タネンは外国語と言語学を専門とする異文化センターに所属している。(略)私はたいてい、それぞれの心理学者の個性を感じ取ってもらうために、彼らが働いている部屋の装飾に言及する。たとえばフレイヴルはピアジェの写真を飾り、フランクルは自分の写真を飾っていた。しかし、タネンの部屋には何かを物語るような物が一切なく、その狭いオフィスからは何も知ることが出来なかった。

・彼女は言語の心理学的ダイナミクス、男女が互いに話をするときのパターンを調べた。その初めての著作には、自分の最初の結婚生活で経験した例が多く使われている。彼女は学士号を取った後アメリカを離れ、ギリシャ人と結婚した。著作の一つでは、トイレットペーパーがホルダーから反対向きに出てきたときに彼がいかに怒ったかというユーモラスな出来事が紹介されている。

・タネンは社会的な新現象を発見した。男性は人に道を尋ねるのを嫌うのである。おそらく、人に聞くのは、他人に依存しなければならないことを示し、男性的イメージを傷つけるからなのであろう。

・彼女は西洋文化がいかに論オスを奨励するかについての研究を始めた。西洋人は論争を解決しようとはせず、言葉の攻撃やそれを受け流すことにやっきになっていると彼女は言う。

・『愛しているからこそ言うの』(Tannen, 2003)娘がつくる感謝祭の食事にことごく小言が出る母親の話-「あなたを愛しているから言うの」

・(Tannen)(コンテクスト言語学)日常生活の中の言語の様式化を行うもので、文学の作品分析に良く似た考え方です。毎日の会話の中で小説の分析をしているようなものでした。私はジェンダーと言語、コミュニケーションスタイルについて、ロバート・レイコフから学びました。そのコミュニケーションスタイルをわたしが後から会話スタイルに発展させたんです。私たちは講義室に黒板をたくさん持ち込んで、電話の会話を書き起こしました。そこから人々が会話を終える時の様式を引き出すことができました。この研究は、人々が会話の終りをどのように始めるかに関する「しめくくりの始まり」という論文になりました。私は、このようにして日常のことを分析できるということに心をひきつけられたのです。

(Tannen)(「論争」について)ええ、ええ。それに私はユダヤ人ですから、タルムード[訳注 ユダヤ教の教訓集]の伝統を知っていますよ。論争は思考の方法のひとつであり、穴をつつくのは探究の方法の一つだという見方がありますよね。

・(Tannen)『どうして男はそんな言い方、なんで女はあんな話し方』(1994)この本のときは参加者にテープレコーダーを渡して、一週間ずっと身につけてもらいました。職場で言ったことをすべて記録して、私が書き起こしたんです。4人の女性に自分達のことばを記録してもらいましたから、私の記録したものの中で一番意識的な会話になりました。たいていは、人々がしゃべったこと、私が観察したこと、読んだこと、経験したことをただ拾い上げています。

・(Tannen)何を研究しても、まさにそれを研究しているという理由で比率をゆがませることになります。顕微鏡の下に置くという事は、それを拡大してみるという事です。ただ、標本を顕微鏡から外したときに、全体像の中に正しく戻せるのが望ましいですね。

・(Cohen)あなたはいつごろから、人々を変化させようという意志を持つようになったのですか。

Tannen)人々を変えることが私の自覚的な目標だったことがあるのかどうか分かりませんけど、人々の意識を高めたいと考えていました。ですから、学問の世界だけではなく、社会全体に対して発言したいといつから考えるようになったのかというご質問であれば、大学院時代にさかのぼるとお答えすることができます。仲間の院生にそんなことを言ったのを覚えていますし、その友達と、二人ともトークショーに出られたらいいねって話したこともあります。

・(Tannen)私がこれまで書いた本は、どれもその前の本から押し出されるようにして生まれました。

●ニコ・ティンバーゲン(190788)第一版1977

・ノーベル賞を受賞した心理学者は少ない。1972年、ニコ・ティンバーゲンは親しい友人である、コンラート・ローレンツ、カール・フォン・フリッシュとともに、この賞を受賞した。

・ティンバーテンは自然の生息環境の中で動物を観察する必要性を、いつも強調していた。
*レインの視点との類似点

・動物行動学者が指摘した基本的な点のひとつは、種のライフサイクル全体を調べるべきだということであった。そのすぐれた例は淡水魚のカワスズメの研究である。そしてそれはもちろん、観察が実験に先立つべきだと言うことを意味してもいた。当時(193040年代)、それは斬新なことだった。

・当時の正統的な見方は、すべては学習されるということであったが、ティンバーゲンとローレンツは多くのことが生得的であると主張した。

・観察は個人的な行為である。おそらく、多くの生命科学者が認める以上に個人的な行為であろう。観察についての研究がほとんどなされていないというのも皮肉である。観察を観察するというのはラッセル[訳注 イギリスの数学者・哲学者]のパラドックスのように聞こえるかもしれないが、けっしてパラドックスではない。いかなる鼓動科学の理念も、科学者が観察する時になにが起こるかという問題に直面しなければならない。

・(Tinbergen)(動物行動学の)理論的な枠組みを作り上げたのは、精神分析学者で動物学者で哲学者だったローレンツでした

・(Cohen)観察はきわめて重大な役割を果たすのでしょうか

Tinbergen)はい。先ほど述べたように私たちは実験もずいぶんおこないましたが、大部分の時間は、できるだけ干渉せずに辛抱強く動物達の行動を見ることに費やしました。見るというのはとても興味深いことでしたよ。というも常に解釈をしているんです。また、動物の行動をその環境で起こっていること-行動の原因と考えられるものにせよ、結果と考えられるものにせよ―と比較しているんです。たとえば、同種間の「ディスプレー」の結果とかね。メダワー、それにローレンツは、以来ずっと、こういう「創造的な観察」を、合理的な、まさしく不可欠の、科学的方法と位置づけています。私自身は、自然の実験と私が呼ぶものからも多くを学んできましたね。たとえば、環境の中のどのような出来事が動物の反応を誘発するのかといったことを観察します。厳密に言うとそれは相関にすぎませんが、ちょっとした仮説を立てることが出来る相関です。心理学は慌てて20世紀に足を踏み入れた時に観察の段階を飛ばしてしまったのだとよく言われます。はっきりとそういったのはアメリカのフランク・ビーチです。行動科学においてもう一度「インスピレーションに導かれた観察」を尊重すべきものにしたというのが、動物行動学の建設的な功績のひとつだと私は考えています。

・(Tinbergen)(観察の方法について)生まれながらの観察者でない学生にすぐれた観察能力を身につけさせようとするのは、非常に難しいんです。もちろん、いくつかの規則は伝えることが出来ますよ。「見出し語を使わず、動きそのものを記述せよ」とか、「その動物にこれこれのことをさせているのは何か自問せよ」とか、「これこれのことは生存の上でどんな価値があるのか考えよ」とかね。でも、行動の特定の側面に無意識に価値を付与するのが以下に個人的なことか、大学院生といっしょに観察するたびに思い知らされます。同じ場面を観察しているのに、二人の人間が非常に異なる物事を見るんです。
*心理アセスメント時の、検査、面接、観察ということが言われるが、観察はカウンセリングにおいても大事な要素のひとつだ。その方法というのはどのようなものか

・(Tinbergen)今では多くの心理学部が教員に動物学者を含んでいます。ここオックスフォード大学では、動物学と心理学は同じ建物を共有していますよ。そしてもちろん、動物行動学者が人間の行動を真剣に考えるようになっています。ローレンツもそうですし、言うまでもなく私の非常に優秀な弟子であるデズモンド・モリスもそうです。

・(Tinbergen)もちろん、ちょっとした偶発的な形ですけど、自分の子ども達を動物行動学者の目で見てしまうのは避けられませんでした。ファミリードクターが子ども達の診察に来た時、娘があくびをし始めてとまらなかったことがあります。医師が「ずいぶん疲れているようだね」といいましたから、私はひどくおびえているだけだと説明しなければなりませんでした。それは、軽いストレスの下におかれたときにどこかを引っかいたり、爪をかんだりするといったごくありふれた「転位行動」のひとつです。

・(Tinbergen)動物行動学が人間の研究においても今後一層影響力をもつようになるだろうとわたしが考える主な理由は、動物行動学が驚くべき「適応性」―生き物の特徴です―を注目の中心においていること、そして現在もこれから先も、人類を脅かすのは不適応だということです。ほとんどの人々は今も人間社会の進化を「進歩」と考えており、生存の恐ろしい不安定さに気づいていません。私たちの種は他の動物以上に不安定さに曝されています。多くの生物学者でさえ、楽観主義と自己満足と傲慢さの驚くべき組み合わせによって、人間には行動の許容性があるから社会で起こっている急速な変化に容易に対応できると考えていますが、それは非常に疑わしいのです。

●フィリップ・ジンバルド(1933-)

私が知る限り、ジンバルドは6歳のときから心理学者になるように運命づけられていた唯一の人物だ。インタビューの中で、彼は『ウェストサイド物語』も色あせて見えるようなニューヨークでの子ども時代を印象深く語ってくれた。彼はサウスブロンクスのギャング団の中で心理学者になった。

・彼は常に、集団行動やギャングの中で誰がリーダーになるのかに関心があった。まもなく社会心理学と認知的不協和理論を取り巻く議論に関わるようになった。

101110_学習心理学7_学習_行動の動機づけ から
認知的不協和
・フェスティンガーFestingerが提唱
認知的不協和=自分の持つ信念体系の不一致。
・不協和は心理的に不快であるので、人はそれを低減したり回避しようと試みる。

・刑務所(監獄)実験-ある集団が他の集団に対して力を持つという「状況の力」を示している。状況によっては人格は問題ではなくなる。-ジンバルドは、現在では訴訟に成りかねないため、こんな実験は出来ないだろうと嘆いている。ジンバルドは続いて内気さ(shyness)に関する詳細な研究を行い、APAの会長になった。

・(Zimbardo)(ニューヨークのウィラード・パーカー感染症病院に5歳半から6歳をちょっとすぎるまで半年間入院していた)僕は恐怖の心理学、否定の心理学を学びました。こうした子ども達が次々に死んでいることに気づきながら「だいじょうぶ、僕はいまここにいる。生き残るために何をしなくちゃいけないのか」と問いかけていました。他の子ども達との関係で言うと、彼らがいかに脅威か、いかに力を持っているか、いかに創造的かを学びました。それに、他の子ども達に好かれたくもなりました。僕はそのために物語を作りました。今でも覚えているものもありますよ。たとえば、これはベットじゃなくてボートだ、みんなでナイル川を下るところだって創造しました。これが、僕がリーダーになっていった出発点でしょうね。創造的なアイディアを思いつくことによってね。

・「しわのよったシーツの夢」-しわの寄ったシーツ、子ども-ベットにいる、きれいなシーツ-子どもが死んだということ。

・(Zimbardo)(スラムでの生活)大きな子達が理由もなくさんざん殴りたがっている時、やせっぽちの小さな子がどうやって路上で生き延びていけばいいのか。言いなりにならずに、危険な状況に陥らないように視ながら、どうやって力と折り合いをつければいいのか。こうしたスラム街の子ども達の多くはやがて逮捕されたり殺されたりしていきました。従順な子分からどうやって上っていけばいいのか。僕ははっきりと、ことを取り仕切るリーダーになりたいと思っていましたからね。

・(Zimbardo)もうひとつ、心理学者になるための訓練になったことがありました。両親の結婚生活が上手くいっていなくて、僕が母の愚痴の聞き役だったんです。幼い頃から、母の感情やストレスや無力感に向き合っていました。子どもが4人もいてお金がなく、父が失業していて。少し大きくなると僕は母の心理療法家みたいになりました。きっとだいじょうぶだよ、こんな風に考えてみたらって言っていました。(どのように心理学者になったかに対する答え)

・(Zimbardo)(認知的不協和の論文を読んで)行動主義ではすべてのことが非常に合理的です。ラットにたくさんエサを与えると、ラットは強くバーを押します。ところが、それと反対のことを示す不協和の理論が出てきたんです。報酬を与えれば与えるほど行動しなくなり、報酬を少なくすればするほど行動するようになるというんですから!すっかり夢中になってしまいました。僕は、不協和理論に基づく予測と、標準的なイェールの考え方を比較する学位論文を書きました。実験の結果は不協和理論の勝ちでしたよ。僕は不協和理論に魅了されました。

・(Cohen)どうやって状況の力を避ければいいのでしょう。

Zimbardo僕たちはみな、複数の状況の中で演じている役割の産物です。ある人が今、尋問者、拷問者であっても、美しい女性と十分な現金と一緒にパームスプリングスに送られれば、感覚的な喜びを楽しむ快楽主義者になるでしょう。
 拷問に関する僕の本をご存知ですか。僕たちは、以前にブラジルで拷問者だったり暗殺断の殺し屋だったりした、たくさんの人の面接調査を行いました。そこで引き出された僕たちの結論は、そのうちの誰も病的ではなく、きわめて強い状況的強化の結果だったというものでした。

●未完の結論
歴史的に見ると、心理学はかつてきわめて野心的であった1951年にイエール大学にはいったときにジンバルドが記しているように、すべての学習、すべての動機づけ、すべての人間の努力などを説明できる方程式をかけると本気で信じている行動科学者たちがいた。また、多くの心理学者が世界をよりよい方向に変化させたいと考えた。その野心は、こんにちいくらか弱まっているものの、完全に失われてはいない。

・学生なら誰でも知っているように、学術誌には、実験の結果が報告され、一定の相関が偶然に起こる確率100分の1以下あるいは20分の1以下であるならば、それは事実と言えるという約束がある。これは今でも重要な問題である。心理学では、予測に焦点が置かれていることを意味するからである

・心理学の方法はいぜんよりもずっと折衷的なものになった-そのことは1977年に私が必要性を主張したものである。

 しかし、心理学とはどのような科学なのかという疑問は、まだ完全には解決されていない。インタビューの中でも、レインやフランクルのような「ロマンチスト」が実験科学者に比べて今なお影響力を持っていることは明らかである。心理学はキノコのように急成長し、タコのように触手を伸ばしてきた。この25年間に私は、この議論はいつか解決することがあるのだろうかと、懐疑的に思い始めている。自己啓発の心理学、すなわち内なる自己を見つけてよりよき恋人、テニスプレーヤー、シェフ、人の親になる方法を教える心理学が流星をきわめているということは、これからもロマンチスト心理学の市場はなくならないだろうという事を示唆している。市場ということばを導入したくはないが、心理学は、あらゆる種類の人々が自分の商品を売りたがる知的なバザールである。この傾向はセラピーの分野ではいっそう顕著に見られる。ヴィクトール・フランクルは、ヒューマニスティック派のセラピスト、エイブラハム・マズローに対して少々相反する感情を抱いていた。マズローの至高体験に関する理論は今も影響力を保っている。マズローは「最初の包括的なビッグ・プロブレムは、善なる人を作ることである。私たちは人類をよりよくしなければならない。そうしなければ、種として絶滅してしまうだろう。絶滅まではしないにしても、緊張と不安の中で生きる種になることだろう」と記している。それに対する解決策はもちろん、マズローの方法に従うことだ。それは人を至高体験に導き、「自己実現」は言わずもがな、「完全啓発」の状態に導いてくれる。現在心理証券取引所ではスキナーの株価はかなり下がり、ジンバルドの株価が上がっている……

心理学には研究対象の特性ゆえの固有の問題がある。心理学の研究対象(サブジェクト)は物的対象(オブジェクト)ではない。研究対象は主体(サブジェクト)、それも自由意志をもつ主体である。実験のを目的どおりに運ぶためには、ときとして研究対象者をだまさなければならない。研究対象者はしばしば何のための実験化を推測することが出来る。
(略)
 心理学者が自分のやっていること、それが意味することに確信をもてないのは、人間のこの複雑さの生である。だからこそ、心理学の哲学に関する新しい研究があまり行われていないのは、残念だといわざるを得ない。
 
 心理学に哲学的な研究が必要なのは、心理学が3つのレベルの行動と、それが相互にどう関連し合っているかを説明しなければならないからである。
①すべての人間に共通するレベル-人はなぜこのように行動するか
②なぜ一部の人々は、他の人々がしない行動をするのか。
③個人のレベル

ここ20年間に心理学の世界で起きた最も重要な変化は、行動主義が追放した「意識」の復活と発達心理学の隆盛であろう

心理学者は謙虚さを手にしがたいと言わなければならない。物理学者は銀河の神秘に畏敬の念を抱き、動物学者は必死で逃げるガゼルと全力で追うチータの姿に胸を打たれるかもしれないが、人間の行動に魅了されたり驚いたりする行動科学者というのはあまり聞いたことがない。最もそれに近いのは、多分ジンバルドだろう。謙虚さの欠如は、ハーバード大学の故デイヴィッド・マクレランドが提示した説得力のある論文を補強する。彼はどのような動機付けが人々を経済的に成功させるかに関心をもち、それをプロテスタントの勤労の倫理と結びつけた。また多くの心理学者が宗教心の強い親の下で育ちっていることに着目し、それへの反発として心理学者になったと主張した

・マクレランドは、重要な心理学者はみな人間の本性に関する正しい見方は自分のものだけだと人々を説得したがると、私に語った。たとえばワトソンとフロイトのどちらか一方が正しくなければならない。どちらも正しいという事は認められないのだ。

・本書の目的のひとつは、心理学者の心理を多少なりとも理解することである。アン・ロウ(Roe, 1953 )は、一連の研究を行った結果、心理学者は親と対立していることが多く、個人的な関係を放棄しない傾向があるということを明らかにした。多くの心理学者は20年たっても、ときには50年たっても、親への怒りを抱いている。彼らは、若い頃の無力感の補償として権力をこのむのかもしれない。危険を冒す勇気のある大学院生にとって、これは格好の博士論文のテーマとなるだろう。

 しかし、権力へのこの愛着には肯定的な面もある。多くの心理学者が世界をよりよくするために社会へ影響を及ぼしたいと考えているのは明らかでる。サンドラ・ベムとデボラ・タネンはこの点について極めて率直だ。男性の心理学者はそれほど率直ではない事が多いが、スキナーはいかに社会政策に影響を及ぼしたいと思っていたかをインタビューの中で語り、チョムスキーは政治活動家になった。ハーバート・サイモンも社会政策に影響を及ぼしたいと望み、フランクルはホロコーストをめぐる議論の中心にいた。(略)ジンバルドも政治的に活発に行動する。彼は明らかに、刑務所実験をめぐる政治的行動が気に入っている。アイゼンクは、他界する直前、よりよい食事が刑務所内の暴力を軽減するということを示唆する栄養学の追跡研究を拒んだ英国内務省は、科学的な結果に耳を貸したがらない政治家連中の例だと批判した。

科学は非個人的なものということになっている。しかし、心理学者にとって非個人的であるのは簡単ではない。人間の本性に関して心理学者が抱く考えは、まちがいなく一人の個人としてのその人に影響を及ぼしているはずである。たとえば私ならば、性が大きな動機づけ要因かつ至高体験のひとつであると主張しようとは思わない。神にかけてノーだ。私は、人類救済と古切手を集めるといった、もっと高次の欲求に動かされている。