2011年4月13日水曜日

認知心理学-1 認知心理学とは何か

5限 認知心理学-1 上田 252教室

今日は一回目なので導入編。シラバスにも書きましたが何をするのか、と。

*去年後期の学習心理学のぎっちりだった教室に比べると
252だし余裕があっていい感じ

*レジュメ配布
昨年度学習心理学をとった方ならどういう進め方かは分かると思いますが、
半分くらいは初回の人もいるはずなので事務的なことから。

●副読本
「認知心理学ワークショップ」(早稲田大学出版部)実験の種本
*先生も書いているっぽい=「買っていただけるとわずかに嬉しい」



「認知心理学キーワード」 
大学院を考える人は、キーワードを押さえることは初歩ですので。



●学習のポイント
どんな学問でも「業界用語」を正しく使えなければならない。
=専門用語、学術用語は最低限押さえていなくてはならない。

・情報処理の基本
言葉が使われる文脈を理解する
心理学的な考え方を身につける。

ある主張がどのような根拠(実験結果や理論的背景)を元に述べられているだろうか?

「人間は脳みその3%しか使っていない」
→数字が入ると一見科学的な装いになる。
しかし、まずここでいう「脳みそ」って何かと言うところから突っ込みを入れてほしい。

「目は脳の延長です、手は脳の延長です」という言い回しをよくいいますが
脳の神経細胞は約100億―シナプス結合
(一個の神経細胞から10-1000の結合があるといわれている)
まぁ突っ込みどころはたくさんあるよね、というはなし(無駄な回り道をしましたが-)
文脈に基づいた判断をすることを目指してください。

●ノートのとり方
・「写経」しないこと
「」つきであることからも分かるように本当の写経のことではありません
*そらそーだ

・気がついたところのみをノートに取る
こういったことは会社に入ってからより重要度が増すはずです。

進め方に関しては以上です。
では本編。
*2枚目のレジュメ

●認知心理学への道
・1人称/2人称/3人称の心理学
・心理学の流れ
・情報処理的人間観
・認知心理学の特徴
・現代の認知科学

認知心理学的な考え方は、色々なところに入り込んでいるのでなじみもあるかと思うが、
その考え方がどう出てきたか、現在どのように生かされているかを歴史的に考える

では視点の話から
○・1人称/2人称/3人称の心理学
どんな心理学にもそれを学びたい動機があるでしょう。
人称、は文法用語ですが、
人の心を分かりたいと言った時の人称とはなにか。

例えば対人関係のトラブルにおいて、1人称的とは、自分をどうにかしたい、自分を分かりたいと思うとき

2人称とは、問題となっている相手を知りたい。
3人称的とは、一般的な、神的な視点から知りたい。
動物園に行って動物を眺めるように知りたい。

そのような形で整理することが出来る。

人 によっては(東邦大学の渡辺先生)
発達的観点から見ると、
 まず、ラカン的な意味での鏡像段階を経て自我のめばえ、そこから2人称的、
そこから振り 返って「私をどうこうしているあなたはない?」から
「あなたって?」といったり「人間ってなんだろう」と言ったり、という説がある。
ま、ともかく3つに分けて考えられる。

この3つの視点を行き来しながら理解していくわけだが、
心理学と言うと、主に使う視点は決まっている。
臨床系ではない心理学の場合は、「3人称的視点」が中心。
そのきっかけはどこかと言うと

○心理学の誕生
1879年―ヴントが世界で初めての心理学実験室をライプツィヒ大学にひらく
 このときの心理学は「3人称的」

そもそも「人を理解しよう」とした時に心理学を勉強すれば良いのか?
それは定かじゃない。心理学を勉強しないと分からない、ってことはない。
逆に、心のある種の側面に鈍感することは大いにある。
これは経済学を勉強すれば金持ちになるのが正しいか否かと同様の問題。

厚めの心理学史の本をみると、7割くらいは哲学の内容です。
心理学として独立したのは
・1879年Wundtはライプツィヒ大学にはじめて心理学実験室を開設 から
言い換えるなら、実験によって分かるような心について研究する、ということ。
ヴントと言う人は、これを「生理学的心理学」と呼んだ

ヴントのもう一つの構想は「民族学的心理学」。
しかしいまではこれを研究する人は無い。
というのは現在の心理学の枠組みに入る余地が無いからです。
現代人の観点からすると「民族学的-」は心理学ではないもの。
認められるようになったのは「生理学的-」だけだった。

では、いったいどうやってアプローチしたのか。
それが「意識の流れ」です

意識の流れ
こころは幅広いものですね。
・初期の心理学においては「意識」「意識の流れ」が主な研究対象
・内観法
・反応時間
・「記憶」「記憶」といった心の動きは研究不可能だと思われていた
・すぐに、これらの領域にまで研究対象を拡大

こころ-英語で言うと?mind heart,あるいはsoul
またフロイトの意識-無意識

しかしヴントの時代の心理学は「意識」がメインの相手だった。
じゃあどこからどこまでが意識なんでしょうか?
たとえば「意識がなかった」「意識不明」「あの人のことを意識している」
みな違う意味合いがあるに違いない、と。

ここでいう意識は「consciousness
「意識が高い」というような意味での「意識」は含まれていない。
主に、今「意識が飛んでいない」と言う意味での意識。
その分かりやすい、典型的な対象が
「意識の流れ」stream of consciousness (William James)ヴントと同時代人

今、みなさんはわたしの声を意識しているはずです、
また、太ももの裏側に圧力を感じているはずです。
また、肌を通じて暑い寒いと感じている、

色んな意識が流れていると、それを捕まえようと言うのが大きな興味の中心でした。
何故これが意識されるかと言うと、哲学の流れが続いた上でのこと。
それをすべてはいえないが、当時の心理学は意識を研究対象とした。

では、それをどうやってみる?言い換えると実験でどう捕らえられたか。
ヴントがは「内観法」と「反応時間」で捉えられるとした。
その結果、意識のありようをデータ化できるとした。
そして物理学にも負けないような、心についての科学的な取り扱いが出来るとした。

ヴントのセンスでは、内観法や反応時間で捉えられないものは
生理学的心理学の対象外とした。そしてその補償としての「民族学的心理学」構想。

では、この意識の流れ、何をしていたのか。
プロジェクターの光の点何色?「緑」
(先生、手を挙げさせて、「何秒かかる?」)
こういった実験をヴントはしていました。
(「パ」に対する反応―手を挙げる)

光よりも音に対するほうが早いと言われています。(0.140秒くらいあれば)
これは処理に使う脳の複雑さが関連していると言われています。

この一連の流れをさして「意識の流れ」と言っていました。
そういう研究をしていましたが、ヴント的には心理学的に扱えないとしていた
「記憶」「思考」にもすぐに取り組みは始まる。

ところが、1879年、当時の世界の最先進国と言えば、ドイツ(プロシア)ですね。
日本からも勿論ドイツに勉強に行ったと、森鴎外と一緒ですね。

さぁところが、そうした最先端のドイツの心理学、意識の流れの研究は行き詰る

主に何で行き詰るか、「内観」で行き詰った
いま反応時間のような課題をしましたが、
内観を使った「今見えているのは緑です」「四角です」という言語的な記述。
(ここでの内観療法の内観では無く、introspectionのこと。)

こちらがどうもまずいと。ウソをつかないと言う前提をまもったにせよ。
思ったことを口にする、だけで心がつかめるのかという疑問が出てきた
なぜ駄目なのか。
もちろん本当にそういう意識状態を確認できないからという根本的疑問はあるが
うまく言語化できない意識はどうでしょう。
わたし達はある程度以上は感覚を言葉には変換できない。
(携帯電話から響く緊急地震速報の音を口で説明できるか?)

また、「ソムリエの言葉遣い」
ソムリエとわたし達は舌が根本的に違うか?
機能的にはほとんど違いがない。では何が違うかと言うと、
「舌の感覚を適切に言語化する能力」それを身につけた人がソムリエ。

じゃあそういうレベルに達すればOK?
でも完全じゃない。曖昧さがある。
また、無心像思考と言うような
イメージすら良く分からないが、
なにか心的なものを仮定しないと説明できない行動もある。

また、もう一つ、内観は「今起こっていることを言語化してください」というとすると
言語化しようとするという意識も含んでしまう
それは言語化の対象の意識とうまく分離できているのか?
客観的なのかを考え出すと、もうどうにもならない。

ということで内観が槍玉に上がる。
さぁそこで出てきたのが学習心理学のテーマであった「行動」と。

○行動主義
学習によって得られた行動について研究する。
じゃあその学習を理解しようと。
意識の流れだけじゃ駄目なんだというところから、行動が大事となった。

その一方でヴントの研究に対する批判、
この発想には意識をばらして考える傾向がある。
「光がついていると分かる0.1秒」「色の判断に0.3秒」この差を分離して考えていける。
あたかも意識いうものが化学式、または分子のように基本的構造に分解できるとする点で
要素主義、と呼ばれた。

○ゲシュタルト心理学
ここに対してゲシュタルト心理学から批判が起こる
(ゲシュタルト心理学とゲシュタルトセラピーは基本的には関係ない)

これはドイツの立場ですね。
・意識≠要素の足し合わせ
・「全体」としての性質が重要
(ヒヨコのミキサーの話)

「行動」と「全体性」、のふたつの観点からヴント的心理学は批判された。

学習心理学は現代まで発展してきているが、
ゲシュタルトの方は主な研究者がユダヤ人だったこともあり、
歴史的に不幸にもあまり発展していかなかった。

1945年までのあいだに、意識の研究が行動の研究に取って代わられることになる。

○情報処理的人間観
現代的な意味でのコンピュータ。
その発端は第二次大戦を機に研究され、実用化されたのは終戦時の1946年。
ですので、原爆の投下は手回し式計算機で投下位置を計算していた
ミサイルがどう飛ぶか、暗号の解読、などに用いるためにコンピュータの研究。
情報処理のために作られた。
早稲田の研究室も「電算室」をつくって
終戦後すぐから心理学教室においてコンピュータが用いられていた。
単にデータの計算だけでなく、もっと積極的に発想の元とする考えも出てきた。

「意識なんてわけの分からないものは置いておいて、目に見える行動を扱いましょう」と
その際に、ネズミのような真っ白のものの学習を見る。

そうなるといかにネズミに学習させられるか、と。
新行動主義以降1930年代においては「人間相手の研究は2流」という扱いにさえなってしまう。
それでいいのか?という行動主義への批判

そこにコンピュータの出現
そこから「情報処理的人間観」が現れる。

そしてこれが今日のメインイベント
ここにいたって「認知心理学の誕生」となるわけです。

○情報処理=認知心理学の基礎

・人間を情報処理を行う存在として考える
・人間の心的過程を「どのような情報が/どのように使われるのか」といった観点から捉える。

コンピュータ、何をしている?
計算をしている=情報処理、となっているが
計算とは何でしょうか?
入力されたデータを適切な形に出力する機会
→わたし達もそういうものです、というのがこの人間観

ある入力された記号を規則に基づいて別の形に変換すること。
その規則によって、足し算、掛け算、あるいは広い意味での関数、だったりする。
100円玉を入れて飲み物を出す、も計算の一種と捕らえられる。
「規則に基づいた変換」
こういう音が聞こえたら「あ」と出す。こういう光のサインはSOS。そういう形での情報処理。
わたし達がこころでやっていることも同様に捉えられるのではないか
情報処理的人間観

ここから認知心理学
メンタルプロセスも「どのような情報が」「どのように使われるのか」。
これを三人称的にとらえるのが認知心理学。なので「情報処理的心理学」ということも

なので認知心理学は、「対象」ではない。
一般に扱う記憶、意思決定、知覚、
これらを対象としてではなく情報処理の発想に基づいて扱う心理学。
なので応用が広い。

この発想で発達の過程を見る。
或いは、精神的に健康な時とそうでないときは情報処理の仕方はどう変わるか。
外からの人の言葉、世界の見方はどう歪むか、は認知心理学的発想の臨床心理学。
認知行動療法はこういうもの。

「わたしたちの色々のこころ、それを情報処理の観点から見るのが認知心理学。」
今日はこれを覚えて帰ってください。
そしてそのプロセスを心と呼んだり「認知」と呼んだりする。

さきほどの「光―手を挙げる」は、一連の情報処理過程

もしくは「鎌倉幕府が出来たのは?」―1192年
ではこの答が出るときにどのような過程が?

鼓膜が震えるところから適切なアウトプットまでのプロセスをたどるのが認知心理学。

言葉にすると短いですが、今後はこの発想に基づいて授業が進むことをかみ締めてほしい。