2011年9月28日水曜日

英専2-Depression and the Body

1限 151 *8:59着 
Depression and the Body: The Biological Basis of Faith and Reality


・第3章から

「エネルギープロセス」
例えば患者さんが「自信がもてるようになりました」などと言ったとき、
本当にそうかどうかわからない、
そういうときに、ローウェンは「エネルギープロセス」を見ていけば、と言っている

depressiondisappointment
抑うつ、という言葉は、今は「風邪」のように使われていますが、
例えば「(大)うつ病」と「抑うつ状態」もごっちゃに使われていますし―

この違いは
フロイトの『悲哀とメランコリー』の違いとも重なってきますし、
エネルギー状態を見なくては、いけない、ということとも関係しています。

・正常な人に起きている抑うつ状態に、
 どの程度、病的な物が含まれているか、を見ていかなきゃいけない。
―なにが正常(問題ない)なのか、病的

「抑うつ反応」=動けなくなる (意欲の減退)
The depresssion reaction immobilizes a person.

「なぜ」と問えるのは「神経症レベル」ですよね。
人格障害になると「なぜ」とは問えないですから。

うつの重い人になると、その人から出てくる「エネルギー」を感じない
(目の前で手をふるアクション)「どうしたの」という感じ。

RESONANCE―反響、心に響くこと。
うつの人と一緒にいておこる、こちらの感じ、「レゾナンス」

うつ―対象に向かうべきエネルギーがこもってしまっているので、
実際の病的な状態の人といて、反応はなくとも
「対象としての人」は必要だ、と。
(この本では5章のメカニズムの説明とともに出てきます)

・治療者が「どこに話しかけていくのか」という感覚。
/彼女自身に正面から話しかけるわけではないんですよね。
/彼女の中の「エネルギーや機能」に話しかけられるようになると
「どう話しかければいいのか?」とそんなにはならないんですよ。
対面してはいますが「クライエントの中にあるものにむかって話す」感覚。
(もともとフロイトは寝椅子の後ろからはじまりましたが)
感覚からすると「彼女の中から発せれらるもの」を言葉にする感覚。
「もやっとするものはなんだろうか」とか「もやっとする奥にあるもの」に向かって話す感覚。

病的な段階が理論的にわかることと、
そのような段階の人にどのように話しかけるのかはまた別のこと。

・うつのひとの「自我の状態」がどうなっているのか

920
○ピニーの図式アメリカ精神医学会の会長だった人で―)
発達と問題処理の心の機能と行動が一つになったものなのですが
・ストレス症候発達図式
自分が落ち込んだ時に、どうやって回復していこう(解決技術)―と抑うつの人はなっていない。

1.問題→(問題解決技術)→解決 ―Skill
2.葛藤→(ego 適応)→解消
3.葛藤→(ego 不適応)不安→症候
4.葛藤→(egoが機能しない)→危機

発達段階は1から4にくる。問題解決は、4から1へさかのぼっていく方向で。

何かおこると解決しようとして、発達していこうとするわけですよね。
段々「問題」が「葛藤」にいくのは-解決できない問題。
すると妥協で解決するということで自我の力のバリエーションが増えていく
(この発達の背景にはNeed-Feedの関係がありますよね。)
すぐには解決できないから、そこに「時間・空間」をもっとあげられるような、がまんして
私たちは、ゆっくり解決していけるようになる。
例えば-三角関係とか
・合理化、知性化

ま、ともかく
「こころが発達すると抑圧(抑制)を憶えていく」と。
抑圧してしばらくがまんできるなら、それはそれでOKな「適応機制」だと。
(こういうのをフロイト先生は一杯研究したんですね。自我が大好きですから)
色々なかたちで自我egoが育っている。
Need-Feedの間の距離を持たせよう
―行動化、はNeedFeedの間を「待てない」

・社会に出るとすぐに解決できる問題ばかりではない、
という所が、自我の発達が必要な所以
*どんなにソーシャルスキルをトレーニングで身につけたとして、
 それですべてに対応できるわけではない

・「情緒の問題なのか」「スキルの問題なのか」
(コーチング
スキルを磨くことと、自分のニードを見ることを平行してやる
スキルがあれば、外に出て行けて、そこで「葛藤」を得られる、ということもある。
コーチングだと、「持てる適応機制は全部つかえ」という形でとにかく上へ(問題解決技術へ)ということになりますので―

自我は適応的に使われるときと、そうでないときがある。
たとえば合理化だってそう。適応規制になるときもある。

○ピニーに戻ると、
葛藤が「不適応」になって、「不安」が生まれる。
その不安をずっと持っていられるか?
わたしたちは、 
「不安」を
「症候」(症状)(例えば、手を洗わずにはいられなくなったり、眠れなくなったり)
を生む機制を持っている。
(自分で症状をもてずに、それを「子どもが、旦那がおかしい」という形で他者を症状にして、自身の不安を軽減する、ということもある)
現代人には、(自分に)症状をおけないという問題があるといわれている。
・あるいみでは症状をもてれば解決の糸口がつかめる。
・「症状があれば他のことができるんですよ」という意味で簡単に無くせない、ということでもある(過呼吸とか、爪噛みとか)必要以上に不安を感じないために。なので日常でそれをなくそうということばかりに走るのではなく、例えば話が出来る安全空間で不安については話しなさい、と。それ以外のところでは症状とともに、ということでも―。
・症状をとってしまって、能力が発揮できなくなるということもある(あまり外には出ないですけどね)
(ベートーヴェンの話)
「症状を取ろう」というのは医者の発想で、心理士はそこにはいないんですよね。

症状のシフト―良い症状に変えていくということ。

しかし、そのような意味での症状がない、これまでつかってきた適応機制がぜんぶ機能しない、ということになると、「人間は危機に陥る」とピニーは言う。
(つまり、葛藤と危機のあいだに「自我の働き」がない)

・適応機制の無効化
ここは震災対応でもだいじなことですね。家を失う、大事な人を失う、危機=パニック状態
それ(適応機制の無効化)が常態化してしまっているのが抑うつで。

自我の育ちが弱くって、対応する力がない、ぷつんと切れる、ことも-

・「危機」から葛藤の解消に向かうには、
一般的な原理として「症候」(症状)が表れる事が必要になってくる。

・ローウェンが言うような、「体がつながる」(grounding)という事は、
ある意味ではクライエント本人にとって、
問題が(症状をともなうこともありつつ)「明確化」する、ということ。

ローウェン―「実感する、ということは身体反応をともなうことだ」
理屈で言っているけどそれを「身体で感じているの?」と
ライヒはあまり言葉を信じなかったひとでもあって
非言語的な部分での解釈、介入、に注力した。

*ライヒ『性格分析』
ライヒ、は人を描くことに力をそそぐ(フロイトが理論に走るのとは違った意味で)

先生の事例たとえ
「なんとなく話しに行っていいですか」というクライエントがいて-
(以前、急に行くのを止めてしまったので、先生に悪いから行きます、という本人の理由)
「悪い」というのは、「私」(中村)に悪いということでしょう
―要は、自分で「症状」が作れない。つまり、自分自身の葛藤には触れたくない。
*なんか示唆に富んだ話だなー

・ローウェンは(上のピニーの図の)4のラインを強調するということがあるのかもしれない
というのは、彼は重い精神病の人を見ていましたからね。

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