2011年9月19日月曜日

人間・いのち・世界Ⅱ-1 宗教現象学(レーウ・オットー・エリアーデ)

1 151 *後期初日(だるい、そして学校が静かだ)


前期の、人間・いのち・世界Ⅰでは、大まかなガイダンスをしながら、
(実際には実存主義的な傾向が強いわたしの授業なのですが)
生きる意味とか、人間が人間として生きること、心の問題、身体の問題を
自然や環境とのかかわりの中で、
「私がわたしとなっていくこと」、結婚したり、家庭をもったりとか、
それをもとに家族、あるいは国家が形成されたり、
ということのヒントを差し上げながらやってきましたね。

そういったことを基礎におきながら、後期は宗教に少し焦点を当ててみたい。
前期もキリスト教として扱ってきましたが、後期は宗教そのものについて。

私が夏休みに読んだ本-『神様のカルテ』
(嵐の桜井君が主演している映画になった―)
今の医療の中で死を迎えることを考えさせられる本。
お医者さんが書いているんですよね。
実際にご自身が経験されたことを題材に-


なかなかいい小説でした。



80年代から90年代にかけての新新宗教のブーム。(「小さな神々」「心の時代」)
オウム真理教、幸福の科学、真如苑、統一教会
いくつかはカルトという風にも言われて社会問題にもなりましたが。
ところが日本の宗教事情は1995を境にガラッと変わっていきます。
(*あー、あの時中学の卒業式だったなー)
宗教を敬遠する風潮(宗教離れ)

しかし最近になって再びー
団塊の世代が死を意識するような年齢に-親の死、介護の問題
死が問題になるという事は「葬儀」「墓」の問題が。―お金がかかるといった問題。
・わたしは死をどのように向き合うのか。―お金とは関係のない問題-スピリチュアリティ
『わたしのお墓の前で泣かないでください』(千の風になって)
Youtubeでは『わたしはお墓にいます』という歌があるのですが-)

日本の宗教土壌
しかしお坊さんの中には「わたし達は死んだあとの事ですから」という方もいて-
病院なんかにいくと「まだ早い」といわれたりするような雰囲気。
*あー、そういうのはキリスト教の神父・牧師とはちょっと印象が違ったり
「宗教はよく死ぬことの予習」と
宗教がどのようにそこに関わるのか-スピリチュアルニーズ

日程と講義内容はこのプリントにあるとおりですがー

宗教ということを考える時にはいくつかアプローチがあります。
宗教現象学の立場
実際の宗教のありようを観察しながら考えていく手法
そうしたものを手がかりに今日は話を。

今でいうとまず出てくるのは-はじめる人がいる、ということですよね
「教祖」
で、そのヒトは何かを教えたに違いないわけで
「教義」
そこには何らかの活動
「宗教活動」
などが、一般に宗教というときに確認されがちなところですが-
しかし、まぁこれに当てはまらないものはたくさんあります(伝統宗教も含めて)
例えば神道に教義はあるのか?―無いと言える
アメリカで神道について書かれた本―「神道に教義はない、あるのは踊りだ、と」

宗教活動-幸福の科学も当初は集まりと言うものは無くって
-大川隆法の本を買った人は皆信者とカウントしていたと。
今はありますよ。駒込をおりて、聖学院高校に向かっていくところの右手の側に、
幸福の科学の教会がたっていて-今こういうものをつくっているんだなーと。
最近は政治的な運動も良くするようになっているようですが。
なので、教祖・教義・宗教活動というのは必ずしもこれがあるということでもない。



色んな宗教に対する研究。その中で、宗教現象学の研究のひとつに-
オランダの宗教学者-ファン・デル・レーウLeeuw1890-1950

この人、大変大事なことを言ってらっしゃるんですね。
宗教一般として共通項を見出すことは難しい- 
つまり「宗教一般なるものはない」―個々の宗教活動があるだけ
―ノミナリズム(唯名論)みなたいな事ですね


しかしその個々の宗教はただ別々というばかりではなく、
歴史的な産物なので影響しあうということがある。

例えば、
キリスト教はユダヤ教とは別のものですが、
それを母体に生まれてきたもので、伝統も引き継いでいる。
と、同時にイスラム教も同系列に挙げられますが別の宗教です。
ユダヤ教、キリスト教の影響の下にある。

ファン・デル・レーウによれば、
教祖・教義・活動がそろっているというのは限られたものでしかない。

教義を持たないということになると―わたしの専門は「教義学」ですが
教義―教え、信仰の内容がどのような体系を(一貫性を)持っているのか。
またどんな矛盾を抱えているか。その全体を見わたして、叙述をしているもの。
そうした分野を組織神学といいます。どんな組織=構造があるのかな、と。
例えば、「救い」ということの柱はなにか、とか。

しかしそうした教義というものを持たない宗教―アボリジニのビデオを見ましたね。
色んな考えがごっちゃに、無秩序にあって、でもそれで良いんです。

宗教ならではの、神概念、概念って言っちゃいけないですね
神観念
概念というとはっきり定義付けられたということになりますが、
それぞれの宗教に通じるという事になると概念としては言いづらい。
神、神々、一者…、「神」とはっきり言われるものばかりでもない。
デュナミス」と言われるようなもの―
呪力とも言われるような、エネルギー

自然にも人間にも見られる、しかし何か自然を超えるような、超越的な。
非常にプリミティブな宗教において
「神」という事にしだいに収斂されて捉えられるようになった。
デュナミス、デュナミズムとも言われますね。
そういったものが力を、影響力を持って、世界や人間の生が支配されているという感じ方。
聖書の中にも出てくるそうした感じ方は―「占星術」
イエスの誕生を祝う、東方の三博士―占星術の学者―オリエントの宗教
星の動きの中に人間の人生、世界に影響を持つ力がひそんでいる、と。
天体の動きの中にデュナミスがあって、それが影響を及ぼしていく。

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復習―人間・いのち・世界Ⅰ-14
八百万の神、アニミズム的な信仰―人間、自然をすべて含み、包むような力をもつ。
デュナミスという言葉で語られることもありますが。多神教。
絶対的な存在に対する信仰よりも、ずっと「連続性」を大事にする信仰と言える。
例えば、ヒンドゥなどもそうですね。
そうした信仰、わたし達の生と死に深い力を及ぼすものとして信じられてきた
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【辞書】デュナミス(dynamisギリシア)
力・能力の意。ラテン語のpotentia)アリストテレスの哲学における重要な概念で、可能態と訳される。質料に内在し、発展して係争を実現しうる可能性。その現実化したものがエネルゲイア(現実態)



ルドルフ・オットー(ドイツの宗教学者、ルター派、1869-1937

【辞書】宗教の心理と歴史を主に扱い、宗教の本質を合理的哲学から区別した。宗教における理性以外の要素を重視、神の絶対他者性を「おののかせる秘儀とし、それに対する人間の根源的情動を、そこから逃れようとする「拒否」と、そこへ引き寄せられる「魅惑」との入り交じったものとして捉え、これらを総括して聖das Numinoseと呼んだ。「聖なるもの」は非合理的な宗教体験の哲学的・心理的分析の試みとして現代の宗教研究に大きな影響を及ぼした。
・主著「聖なるもの」(1917

信仰者の中にあるのは「聖なるものの体験」=ヌミノーゼ(das Numinose)
宗教心、宗教を信じる際に起こっている体験。
この聖なるもの体験には二つの種類がある。それが別々にではなく両方ある。
二つの種類というよりも、2つの性格といったほうが良いかもしれない
(日本語では秘儀と言われたりしますが
・戦慄すべき秘儀(おののかせる秘儀)
・魅惑する秘儀

二重の体験が宗教者の実存の中に起こっている、と。
壮大な山々を見たときにもこのような2種類の感情が―
戦慄すべき―被造物体験
魅惑する―法悦

宗教には具体的に対象があるわけではない。
仏像を目の前に置きつつも仏像を拝んでいるわけではない。

日本人で言うと、お伊勢参りの際の西行がこんな歌を残しています。

なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

「かたじけなさ」、荘厳な神社によって―
恵まれた」というような感覚ですよね。
これはオットーの聖なる者体験の一つの表現であるかな、と。


3番目に―
ミルチャ・エリアーデ(ルーマニア、1907-1986
【辞書】ルーマニア生まれの宗教史学者・文学者。インドに留学し、ヨーガを研究。第二次大戦後はシカゴ大学教授。神話・象徴・儀礼を通じて幅広く世界の宗教思想を研究。著「永遠回帰の神話」「シャーマニズム」など。 

同じように宗教現象学、そこで起こっている事柄、原初宗教の研究から
ヒエロファニー(顕現)つまり、聖なるものが現れる。「聖なるものの顕現
これが宗教を形づくっていると。
オットーが宗教者の体験、実存の側面を強く見ているのに対して、
「聖なるもの」が現れるという事があるんだと。

このヒエロファニー(顕現)によって、世界に秩序や調和がもたらされる
(ここに軸がおかれたaxis)世界にがおかれた、というような体験をする。
その調和が広がっているところがコスモス(人間の済む世界)、その外は⇔カオス。
顕現が起こって世界が作られた=もっとも調和の取れた状態(『光あれ』)
しかしそれが崩れてくる―人間が生まれたことによって。
なんか人間ってすげーなー
仏教で言うと、正法、像法、末法(三時思想、末法思想)
(教(教説)・行(実践)・証(結果)のそろっている正法の時代1000

コスモス→カオス。その時に大事なのが、顕現を再体験すること。
それによって秩序が改められてくる。
実際に説明に使われたものとして、
狩猟民族が狩をする、獲物がしとめられた=恵が与えられた。
ここに神が現された、祭壇をつくって獲物を屠る。神の顕現に対する祭り。

(終鈴)

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