2011年9月19日月曜日

哲学と論理-1「言葉を通して考える1」


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後期は基礎知識より考えるという事を中心にした授業にしていきます。

・先生の自己紹介-Drの論文の真っ最中、「論文と文献とパソコンの三位一体状態で」
・学生各人の自己紹介も
 
●第1回 言葉を通して考えるということ

1.言葉を通して見えてくる世界:否定という無限の可能性
文章を書くという事、言葉を共有するという事。
言葉を通してしか見えてこない世界。

①否定のない世界=茫々としたのっぺりした世界(人事の世界)
→何の関心も持たずに世界を眺めた時、世界は何の否定も持たない。
もし、否定という事が一切ない世界(思考実験的に)いたとしたら、
恐らくそれは「私」には全く関係のない世界ではなか。
何の関心も無く世界を見ているときには、ほとんどわたしには意味はないだろう
世界はなんの訴えかけもないだろうし、世界は何の否定も持たない。
ではその世界が意味のある世界になる、というのはどういうことか

②「ない」という否定を通して、茫々としたのっぺりした世界が一変する
→否定を通して、そこにないものを見ることが出来る。
例)あれ、机がない
  あれ、ここ更地になっている、ここにはなにがあったんだっけ?
キーワードとしての「居心地の悪さ」
*動因
-「私」はそもそも「否定」に満ちている、というか、その「否定」が願望を生む、ということか。  

③「否定」という無限の可能性:「ない」物を探すと無数に「ない」ものが現れる
→例えば、この教室にないもの、山、川、イヌ、猫、象、キリン、ハリウッドスター、宇宙人


否定(「ない」)に言葉を添えることで、何が「ない」かが確定される。
→自分がどんな「ない」に捕らわれていたかがはっきりする。
→他者ともそれを共有できる。

『コンビニエンスストア 夜歩ク』(『lives』川口晴美)、の詩の話。「これじゃない、これじゃない」。
「これじゃなかったんだな」という気づき。
「何かが足りない、何かが欲しい」-世界を自分の視点から見ることが出来る。
しかし「何がないか」と言葉にすることで初めて具体的に動くことができる、と。
「否定」という無限の可能性の世界

「何がないか」を言葉にしなかったらどうなんだろうか。言葉にして限定することでうまれる違和感

2.「考えている」と言える基準:考えているのか、自動機械なのか
「ヘウレーカ」を敏感にキャッチする。

①外的な刺激に反応しているだけでは「考えている」とはいえない
オリジナリティ、創意工夫

②チンパンジーが檻の上にあるバナナを、箱を重ねて取ったらどうか:考えている?
→「考えている」の基準≠単なる刺激に対する反射
チンパンジーのアイちゃん
学習心理学的な意味での「洞察」

③「もしかして」の世界への飛躍:現実世界から可能世界へ
→色んな可能性を試してみる、その可能性から現実から飛躍していればいるほど、人は「考えている」と言いたくなる。
→フェロモン入りのインクをたどる蟻には、可能性の世界はひらかれていない。ただ現実のインクをたどるだけ。

*種、レベルでの試行錯誤、進化、は「考えている」といいえるか?
あるいは、逆に進化の歴史をみて、インテリジェントデザイン的な、神が考えているとしか思えない、ということになっちゃうのでは?

④現実べったりの反応の世界からは、「考える」ことは出てこない

⑤現実から、可能世界(もしかしての世界)へ舞い上がり、現実世界へと着地させる翼→<ことば>
こうなってみて、考えている、と言えるのではないか。
それはありえないよ、の世界に羽ばたいて-、新しいアイデア

*正反対のものとしての典型的な「反省」という考え方。
もしかしたら、の世界への思考を強化する要素はこの世界にあるのか?

カントの自由:法則的に落ちていく、原因-結果の枠組みから飛び出すことこそ、自由だ、と。
考えることには、「現実から身を引きはがすこと」が必要なのではないか。
*地に足のついた考え方、というのは矛盾しているんだろうか?

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自分一人の力で、自分を(奴隷のような捕らわれから逃れることを)見つけられないことは明らかだ。弟息子として癒やされるより、兄息子として癒されることのほうがわたしを怖じけさせる。ここにいたって、自分で自分を贖うことが不可能であることを突きつけられたことで、いまこそわたしは、イエスがニコデモで言われた次の言葉の意味を理解する。「『あなたがたは新たに(上から)生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(ヨハネ37節)
 
確かに、自分自身で起こし得ないことが、起こらねばならない。わたしは下から新たに生まれることはできない。自分の持てる強さで、自分の思いで、自分の心理学的洞察でそれを実現することはできない。わたしはこのことに、一つの疑いも差し挟まない。というのは、わたしは過去、自分の抱いた不満を自分で癒やそうとひたすら努力しては失敗し、……また失敗し、……そして失敗してきた。ついには、まったくの感情的な破綻ぎりぎりのところまで来て、体の激しい消耗を招いた
 わたしは上からのものでしか癒やされない。神が手を差し伸べてくださらなければ、それは起きない。わたしにとって不可能なことも、神には可能だ「神はなんでもできるからだ」(マルコ1027節)

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3.ことばの箱庭
言葉が担う箱庭的役割。
①ある一個の存在に出会う時、私たちの前には、可能性の世界がひろがっている。
→一匹のイヌからどこまで可能性の翼(ことば)をどこまで広げられるか

例えば、チョークから、いかに現実から離れたことを考えられるか、の話

例)【イヌ】が【犬小屋】に【寝ている】
  【猫】が【こたつ】で【丸くなる】
  【鳥】が【伝染の上】で【鳴いている】
パーツを組み替えれば、いくらでも可能性の世界がひろがる。(言葉によって)
*アクエリアスの、本田、石川、北島のCM

②可能な組み合わせを試してみる時、現実のものを使うわけには行かない。
→模型、図面、絵、最も手軽な代替物、それが「言葉」

ことばで箱庭を作る:可能性の世界だから、いろんな箱庭が出来る。
色んな箱庭を作れる-東京タワーで宇宙旅行、とか。

④文字言語や音声言語をもった動物は、飛躍的に可能世界を広げられる。
自在に組み合わせが出来るパーツを持ち歩いているようなもの。

⑤「ことば」がなければ可能性はない:可能世界で戯れさせてくれるものが「ことば」
→:世界を分節化するもの=ことば
積み木に代わるようなにかを持っていなければ。
私たちも、私を突き動かしてくるものに従って動かざるを得ないこともある。
環境から突き動かされたもので。

分節化-言葉でパーツに切り離す、その後また結び付けられる

⑥否定性は、現実と可能性とのギャップから生まれる
現実べったりの世界と可能性の世界の間に存在しているギャップが「ない」という感覚なのではないか。

*これは勝手に出てくるものではないか。世界は常に人間に、動物に否定する存在として現れる。
*再び「否定に言葉を添えなくても?」
また、言葉がついたことで、不本意ながら納得せざるを得なくなる、とかも。

「ない」という度に、可能性の世界に一瞬だけ飛んでいるんだけど、しかし多くの凡人はそれだけで終わってしまう。そこであきらめずに考えられた時に、考えた、と。
「ない」を確定してくれる言葉

⑦ことばがなければ考えられない:「ことば」は可能性の世界へと飛翔させてくれる翼
*行動は?良くニュースで使われる犯罪の動機「むしゃくしゃして」

さて、来週は、
無限に可能な世界に飛び立てる私たちだが、可能性だけの世界に行ったときにどうなるのか?
答えを先取りすると「行き詰ってしまう」

*体が考える、

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