2011年10月30日日曜日

【本】アルカナシカ

アルカナシカ 人はなぜ見えないものを見るのか
田口ランディ=著 角川学芸出版(2011)





●Ⅱ-1 カントの亡霊と出会う

P32/2008712日 東京都千代田区永田町の星陵会館において
「トランスパーソナル学会 第八回学会大会 『信頼』への祈り」

この会の特徴といえば、学問領域に限定された学会ではなく、様々な学問の教会を超えた学際的な学会ということだろう。役員の顔ぶれを見ても、心理カウンセラー、僧侶、翻訳家、占星術研究家、と多種多様な人材で構成されている。

 私たちはトランスパーソナル(個を超える)という考えにそれを(*新たな時代の希望)を求めます。それは現代のさまざまな問題には、近現代の合理主義・科学主義、そして個人主義の限界が映し出されていると考えるからです。人種・性別・思想信条の違いなどを超えた人と人とのつながり、過去の世代や将来の世代とのつながり、人間と大自然とのつながり、そして、人間と人間を超えたものとのつながり。こうしたつながりを見失い、この利益と快楽を追い求めた結果、現代のさまざまな問題が生まれているのではないでしょうか。だとすれば<個を超えたつながり>の回復によってでしか、現代社会の矛盾は根本的に解決できないのではないか、と思えるのです。私たちはまた、個人の内面(心)と社会や環境とのつながりにも着目します。世界的な規模で広がる社会・環境の荒廃は、同時に、個人の内面で進行しているプロセスと一致していると考えるからです。

P34/トランスパーソナルの代表的な学者としては、フロイトの弟子だったロベルト・アサジオリ、日本では「至高体験」に焦点をあてたことで知られるアブラハム・マズロー、過呼吸によるホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフらがあげられる。現在インテグラル思想の提唱者として活躍するケン・ウィルバーは、かつてトランスパーソナル心理学界きっての論客であったが、彼はすでにトランスパーソナル運動との決別を宣言している。

(この心理学、運動の抱える問題は「科学的ではない」と判断されがちなこと)
なぜかと言うと、トランスパーソナルな体験の多くは、ふだんの状態とは違う意識状態、つまり変性意識状態のときに体験されることが多く、そのような特殊な意識状態における体験が、果たして現実なのか、それとも厳格なのか本人には区別がつかないからである。

●Ⅱ-2 ファンタジーと変性意識

P43/2009330日の「ファンタジーと変性意識」という鼎談
「神話やファンタジー・エイリアンアブダクション・臨死体験・シャーマニズム・宗教・犯罪・社会的な事件。上記のような切り口から、神話的元型を取り出し、それはなぜ、変性意識状態で顕現するのか、どんな意味が隠されているのか。なぜ私たちにはファンタジーが必要なのか、について考えて生きたいと思います。」(田口ランディ)
○プレゼンター&鼎談者
田口ランディ(作家、本学会理事)
鏡リュウジ(心理占星術研究家、本学会理事)
蛭川立(明治大学准教授、人類学)

蛭川立-『彼岸の時間』(春秋社)の著者であり、自ら世界各国のシャーマンを訪ね歩き、アヤワスカやマジックマッシュルームなどの幻覚植物による変性意識状態を体験、フィールドワークを積み重ねてきた気鋭の文化人類学者である。

(鼎談の内容を蛭川がトランスパーソナル学会のニュースレターに)

・鏡さんは、劇的な変性意識体験を語らなかった。異なる意識状態、異なるリアリティは、日常的と思っている意識状態のすぐ隣にあって、ちょっと意識をスライドさせるだけでそちらのリアリティにアクセスすることが可能だ、というのである。まったく正論であって、ウィリアム・ジェームズがすでに百年前に『宗教的経験の諸相』の中で語っている通りである。

P45/鏡さんと私(*蛭川)は、UFOやエイリアンが、地球外から飛来してきた知的生命体という説には懐疑的で、むしろ、それらが元型の投影であるとするユング的な、オーソドックスな解釈に近い立場であった。

P45/ランディさんが、そもそも「『便器そのもの』なんて、見ることが出来るの?」と問いかけた。この「便器そのもの」は、異なるレベルで解釈できる。
1)美醜の判断というフィルターを通した、便器の通常の知覚像
2)美醜の判断というフィルターを通す以前の、便器の純粋な知覚像
3)知覚像の向こう側にある、便器という物質自体
という階層に分けてみるとき、メキシコでランディさんが体験したのは(2)の知覚像だったといえる。単純化していえば、これは現象学で言う「事象そのもの」である。メカニズムは不詳だが、サイケデリックすには、こういう「判断停止」を引き起こす作用があるらしい。ただし、美醜の判断が停止しているはずの「純粋経験」は、無味乾燥な灰色の経験であってもいいはずなのだが、なぜか輝くばかりに美しかったりもする。

 さて、しかし、ランディさんの発言を受けて、鏡さんはいきなり「ここにお集まりの皆さんの中で、カントの霊をおろすことが出来るひとがいたら、呼んでください!」と呼びかけた。
(略)
 われわれは、便器の知覚像を経験することはできるが、その背後にある(かもしれない)「便器自体」を扱うことはできない、というのがカントの立場である。さらに、神様や霊界のように、直接経験することができないものについては、理性の対象としては扱わないことにしようという制限を設けた。(もっとも、神様がいないと道徳というもの根拠がなくなってしまうので、そういう理由で神様のことを考えるのは必要なのだという)ところが同じ時代のスウェーデンボルグという人は、霊界を見てきたと主張した。もしそうだとすると、霊界などという超自然敵領域は(空想することはできても)見たり聞いたりすることは出来ないのだから、そういう理由で扱わないことにしよう、という前提が崩れてしまう。

・カントは、人間には持って生まれた知的な能力があり、それはりんごが木から落ちるのを見て万有引力を発見するような能力であり、結果が正しいかどうかも理性で判断できるのであるからして、形而上学的な志向を始める前に、その知的な能力(理性)が扱える範囲を設定しようではないか、と考えた。それを吟味したのが「純粋理性批判」である。

 さらに、カントはそれまでと180度違った認識論を提唱する。これぞまさに近代の礎となった認識論である。カント以前は「リンゴがあるからそれを受け入れている」と考えられていたのだが、カントは「人間はリンゴ自体を認識することはできない。あなたがそう見るからそれはそのような林檎なのだ」と説いたのだ。現代においてはあたりまえのことだが、人間の認識が世界を構成していることに気づいた最初の人間がカントなのである。
人間の認識が現象を構成する=コペルニクス的転回

●Ⅱ-3 視霊者の夢

P51/カントのスウェーデンボルグ批判の書『視霊者の夢』
-学問においては扱わないのが「賢明である」

P53/私は、カントも私と同じような視霊者のリアリティに圧倒されたのだと思いました。

●Ⅲ-1 黄金のトイレは現実か非現実か?

P62/ 杉山明(AKIRA)『神の肉テオナナカトル』(幻覚キノコによる体験をもとにした著作)
(田口ランディとの共著)『オラ!メヒコ』(角川文庫)
ウアウトラのマジックマッシュルーム

P71/ 階段を降りて家の裏へと向かう。そして、あの汚いトイレの前にたって、壊れかけた扉を開けたとき、目を疑った。トイレはありのままに汚かった。汚いことに変わりはなかった。何一つ変化していなかったにもかかわらず、そのトイレは神々しさで光り輝いていたのである。トイレは汚れているにもかかわらず高貴で神聖なものとして私には感じられたのだ。その神聖さたるや、わたしが体験したすべての神聖を足しても足元にも及ばないほどの神聖さだった。というか、私は生まれて初めて神聖とはどういうことなのかわかった。こういうことなのである。このような感情、感覚を私に与える物が神聖なのである。つまり私はこれまで神聖なものを診たことが無かったのである。そして、最初に接した神聖さをもつものが、メキシコの田舎の糞まみれになったトイレだったのである。
(略)
目に見えるものは何一つ変化していない。それなのに、どうしてこんあに美しいと感じてしまうのか。

P75/説明することは可能だ。マジックマッシュルームに含まれる幻覚成分シロシビンが脳に作用して私の視覚をゆがめた。それによって、世界が光り輝いて見えた。いまわのきわにいる人間はときとして多幸感に包まれて世界が優しく光り輝いて見えるという。脳は人間を苦しみから救うために快感物質をだすのだそうだ。だとすれば、私はなぜ、いつも幸せな状態で生きることができないのか。脳が認識した世界が現実なら、私の脳はなぜいつも快楽物質を出さないのか。私はなぜ好き好んで汚い檻の中で生きられているのだろうか。常識や既成概念や刷り込みによって、どれほどの神秘と美と幸福が失われてることか。この世を覆っている人間の間違った認識から解き放たれて、美しさや神秘を選択して生きる方がよりより人生ではないのか・・・・・・。

*M この本においては追求されない点だが、何故著者が「このトイレを」あるいは「糞まみれのトイレを」美しいと思ったのか、ということの理由を追求しても良かったのではないか。すべての物が美しく見えていたということではなく、「このトイレが美しく見えた」ということの解明に向かったとしたら、心理療法的な筋道で面白い。

(略)
だが、私は自分が「感覚によって呪縛された奴隷」であることを、あの夜にはっきりと認識するに至った。私は支配されている。私は実はもっと自由なのだ。人は意識によって構造化されていないものを認識するのは困難である。だが、困難であるということに気づくべきだと思った。私たちは意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭でいきているのだ・・・・・・ということに。

*M 岸田秀の幻想論―現実そのものを見ることは出来なくとも、その幻想があるということに気づくべきだということ。フロイトの治療論、自我が無意識的に防衛機制をはたらかせているということ、あるいは、エスは自ずから浮上しようとするもので、超自我もまた無意識的に人間の行動を規制する、ということに気づくのは治療的な働きをする、ということ。
また、ルターの「奴隷意志論」あるいは決定論的なもの、の中で「自由」に生きるという事。

●Ⅲ-3 認知の限界

P89/スウェーデンボルグルター派のキリスト教徒だった。ちなみに、カントの両親も敬虔なルター派の信徒であり、カントはルター派の影響を強く受けている。
 北欧諸国のキリスト教への改宗は18世紀で、ヨーロッパの中では最も遅かった。まさにスウェーデンボルグの生きた時代に、スウェーデンボルグの生きた時代に、スウェーデンの国教はルター派となり、国民のほとんどがルター派に改宗したという。ちなみに北欧諸国はすべてルター派である。では、いったいルター派とはどんな教派なのだろうか。
 ルター派の創始者はドイツ人のマルティン・ルター。元アウグスティヌス派の修道院の修道士だった。彼は徹底的に修道院の戒律を守り修行に専念した結果、修行や善行をいくらがんばってやったところで救済にいたることはない、という確信に至った人である。当時、カトリック教会の腐敗振りはひどかった。教会は聖書すら信者に読ませることなく、怪しげな秘儀を与えたり、救済を約束して(免罪符)お金をだまし取ったりしていた。その堕落ぶりに怒り、教会を糾弾し、宗教改革の口火を切ったのがマルティン・ルターだった。このルター派の考え方が日本人の私にはなかなか理解しがたい。
(略―奴隷意志論の説明があって)
つまり、人間は神に関して言えば「必然的無知」なのである、と。

●Ⅳ-1 狂っているのは誰か

(体験の強度、の話。体験が彼、を捕まえてしまう。体験において主導権は自分にはない。)
ひとたび体験が始まると、そこには自力は存在しない体験によって連れ去られてしまうのだ。だから体験は圧倒的で暴力的な力をもつ。体験の扉は危険とみなされる。体験は科学的根拠のうえに経たない。それゆえ体験にもとづくものは推論よりも低く見られるようになったのだ。推論には理論的な段階を踏んだ根拠があるが、体験は問答無用である。自我のコントロールが効かない。だから危険なのだ。
(そして、神の存在にもまた根拠はなく、宗教も体験である、という話)

●Ⅳ-2 体験と認識

P110/(鏡リュウジ)ここでぼくはやはりユングを思い出します。ユングはしばしは「経験論者」として自らを位置づけますがその意味は通常のものとは異なります。
ユングは、「強度のある」体験を重視したのです。それが事実ではないとしても、それはともかく、心のレベルでは事実なのだから、そのまま大事にしよう、としました。それが例外的な、客観的な事実とは異なる「心的現実」であるということを自分の心の中で保持したままで、ということです。
こうした禁欲者としてのユングという側面がぼくにとって自分を「奔放な天才ぶり」に落ちることを、オカルトの世界に関わる中での一種の防波堤になっているような気がします。もっともユング本人ならぼくのこのような姿勢を知的臆病さだとか怠惰だといわれそうな気もしますが。

P112/私たちは体験から何を見出すか。そして、どのように他者と共有するか。現実混同されてしまうほどの強さを持った体験。心的事実とは思えないリアルな体験。そのような体験をする人間は枚挙にいとまがない。それはなぜか。なんのために?カントの苦言を握りしめ、そのことをいま、もう一度考えてみたいのだ。

人はなぜUFOを見るのか。

*このことへのアプローチのためにも、やはり、その前に、なぜトイレを美しいと感じたのか、ということの自己分析が欲しかったところ。

●Ⅴ-2 円盤との遭遇

(五月男さんの話-過酷な戦争末期、戦後の中国を潜り抜けて引き揚げ船で日本には戻ってきたが、母を母と思い出せない)
P138/記憶の玉が弾けた。
何も言葉が出なかった。あまりにも思いが溢れて放心した。
 そのときに、また、空にアレが浮かんでいたのだ。母親に抱きしめられながら、五月男さんは青空にぽつねんと浮かぶ光るお皿を眺めていた。そして、母親に向かって、それを指差すと、母親は指の先に浮かんでいる物体を見て頷いた。
「ああ、お空のお皿さんやね」

●Ⅵ-1 体験その後
P152/もう一人、UFOに乗ったという体験を持つ人を紹介する。
いまはすっかり有名人になってしまった木村秋則さんである。

P163/宇宙人たちが教えてくれるのは「意識の枠をはずすことだ」と、秋山(*秋山眞人)さんは言う。私たちは知らず知らずのうちに「これはできる、これはできない」と、意識で自分を制約して生きていると言うのだ。
「我々の内側には、どこかに、自分自身を制限しようとする意識が存在するんですね。そして、その自分自身を制限しようとする自分自身の意識、つまり自分自身との戦いこそが、我々に唯一許されている戦いなんです。実際、宇宙人たちはその戦いに勝ち続けてきたからこそ、あれだけの進歩を遂げ得たわけですよ」
私は頭を抱えた。
「ということは、私がスプーンを曲げられないのは、スプーンは曲がるわけがないという思い込みのせいなんでしょうか?心から曲がると思えば曲がるんでしょうか?」
「そうです」

言葉の翼の代わりに、こういった“体験の翼を求めるひともたくさんいるのだろうな。(S.ISHIIクラス)/オウム

●Ⅶ-1 洗脳と脱洗脳

P180/2009年に角川書店の「野生時代」誌上で、小説「マアジナル」の連載が始まった。UFOとの遭遇体験を題材に「人間は何故見えないものを見るのか」を物語の中で探っていく試みだった。
 連載にあたって、どうしても取材してみたい人物がいた。
脳機能学者の苫米地英人さんだ。(『洗脳原論』)

P182/人間は脳内の仮想空間でも臨場感を感じてしまう。脳の進化の結果、夢や映画や小説の世界でも心臓がどきどきしたり、うっとりしたり、嘆いたり、怒ったりすることが出来るようになった。それゆえ洗脳からも逃れられなくなったのだ。どっちみち生きている以上は何かに洗脳される。他人に洗脳されるくらいなら、いっそのこと自分で自分を洗脳してしまえ、・・・・・・というのが彼の洗脳論だった。

「なるほど!」」と私は苫米地理論にあっさりと洗脳された。そして、この不思議な男に会ってみたいと思ったのだ。

・(人間はいつも変性意識状態だ、UFOも幻覚だが世界はすべて幻覚だ、人間は想像力の中で感じる臨場感に対してもホメオスタシスを持っている、宗教はどうやって強烈な変性意識状態下で、神秘体験をさせるかに必死になっている、ってな話)

P186/私にかけていたのは「情報」という概念であった。

P188/東京大学大学院情報学環の西垣通『基礎情報学―生命から社会へ』(NTT出版)にはこう書かれている。

20世紀初頭以降、対象系を自足したものとしてとらえるのではなく、これを対象系と観測者との動的な関係としてとらえるという考え方が主流になった。物質とエネルギーのみに注目する古典物理学の19世紀的な世界観は棄却され、自然界を認知し、情報を取得する「生命活動」が新たに位置づけられたのである。物質とエネルギーにつぐ第三の存在である「情報」の出現は、こういう経緯といったいのものとして理解されなくてはならない。

(略)

原子の内部に存在する、素粒子という極限のミクロの世界に至ったとき、「観測者(人間)のみるという行為が素粒子の状態に影響を与えてしまう」という難題にぶち当たる。これを「観測問題」と言う。

*心理の世界の当たり前的なことが、物理学ではミクロの世界に行くまでおこらない、みたいな。でもここでの作法は、なにか参考になるのかも。

【辞書-素粒子】(elementary particle)物質の構造を分子・原子・原子核・と分けて階層的にみたとき、原子核の次にくる粒子をいう。光子・電子・クォークなど。また、現在では内部構造を持つことが分かっている陽子・中性子・中間子なども、歴史的経緯から素粒子と呼ばれることがある。
粒子と波動の二面性をもち、また不変のものでなく相互作用により相互に転換したり生成消滅したりする。基本的な属性として質量、電荷、スピンがあるほか-

P191/(苫米地)「でも、一般的に町の治療院とかで行われている気功はもっと単純なんだ。いわゆる気功と言う現象を施術者が強く強く確信することによって、患者を変性意識状態に入れてしまう。もちろん、不特定多数の他者を変性意識状態に巻き込むにはそれなりの強い確信が必要だから、そのために修行したりもする。とにかく、他者を変性意識状態に巻き込むためには自分が強い変性意識状態にいることが大切なんだ

「なるほど、つまり洗脳しようと思ったら、自分がまず洗脳されていなくてはダメなんですね」

「そうだよ。そして相手を同じ状態にシンクロさせていく。すると相手も変性意識に入り、患部が熱くなったり、痛みが治ったりする。それはほんとうに身体がそのように反応している。だから幻覚ではない。」

*なるほど、それはたしかに幻覚ではないし、他者を巻き込む変性意識状態、というのも分かる気がする。蛇ににらまれた蛙とかもある種そんなんかな

P194/自分が見ているものはすべて幻想なんだという事を理解すれば、人間は自由になれる
「なんとなく、苫米地さんが言っていることって、仏教と近いような・・・」
「そうだよ、ブッダが言っていたのはそういうことだ」
「ブッダ、ですか?つまりブッダはすべての洗脳から解かれた人。だから解脱なんですか?」
苫米地さんが、最も尊敬する人物はブッダだそうだ。


・内部表現の書き換え 強固な自分のこだわりや、思い込みを外す
*CBT

P200/苫米地さんのセミナーには、奇妙なダブルバインドがある。
「覚醒することで、自分の思うがままに生きよう。金も名誉も地位も思い通り・・・・」というような謳い文句で若者が集まる。しかし、そのなかで教えている内容は「世界はすべて幻想であり、君らは洗脳されている。まずは幻想から覚醒して、自分で幻想を創ろう」である。入り口は現世だが、実は出口はあの世なのである。それくらい次元が違う。彼らは、欲しいものを手に入れるために欲望を消しなさい、と言われていることに気がついているんだろうか?

P202/以前に苫米地さんと対談したときに、
「いったい、苫米地さんがほんとうに心から望んでいるものはなんなの?こんなに儲けて何するの?苫米地さんの野望ってなんなの?」
私の質問に、彼は真顔で答えた。
「人類を救済すること」
なぜか、これは冗談じゃないな、と思った。本気なんだ、と。
そのときふと思ったのだ。この人は彼の言うところの「内部表現を書き換え」ている。つまり、セミナーで彼を慕って集って来る若い男性たちに教えていることを身をもって実験しているようなところがあるのではないか。・・・断言は出来ない。私は苫米地さんではない。あくまで推測だ。

●Ⅷ-3 破壊と想像のシンボル

異端の数ゼロ-数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』(チャールズ・サイフェ=著、早川書房)
ゼロの誕生から、その概念がいかに現代物理学に脅威を与えているかをわかりやすく解説

 ゼロはバビロニアに生まれたのだ。でも、西洋はゼロを無視してきた。西洋の文化にとって無は不気味で拒絶すべきものだったのだ。アリストテレスはゼロを認めようとはしなかった。ゼロは神の存在も脅かす概念であるから、キリスト教文化圏においては危険な存在だった。

●Ⅷ‐4 さらなる無限の旅へ

もしシュレディンガーの言うように、この世のすべてのものは波動として存在し、私が見た瞬間にそこに形成され、見ていないときは存在しないのであれば、いったい生命とはなんなのか。かつて、ローエルが呟いたように、そのような世界の普遍性と私たち生命の多様性はどう統合されるというのか?
その答えが東洋思想の中にあるのなら、それを追ってみたい。
量子論から宗教へ、そして神話の世界へ
UFOと生命の神秘は、きっとどこかで絡まりあっているはずだ。


●参考文献(一部抜粋)
カント-世界の限界を経験することは可能か』熊野純彦 日本放送協会出版 2002
『こころの情報学』西垣通 ちくま新書 1999
『洗脳原論』 苫米地英人 春秋社 2000
『私は宇宙人とであった』秋山眞人 ごま書房 1997


(本作品は、角川学芸WEBマガジン(第39回~43回)連載の「不可知への冒険」を大幅に加筆・改稿し、改題したものです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿