今日は宗教改革記念日、ですね。では出席を
*久々このクラスの出席に間に合った…
前回はマテリアリズム(物質主義)という観点から見えてくる世界について。
まぁボクの授業はこちらから答を差し上げるというようなものではなにのですが
答は皆さんがどこかからかさがしてくる、と
今日は
(7)ニヒリズムと宗教
です。
ニヒリズムとはなんでしょうねぇ?
(学生)ニヒリズムはテロリズムに通じるということを聞いたことがあるのですが、個人主義的な―
(学生)虚無主義
「虚無主義」なにか内向きな感じのする言葉ですねぇ。
僕は自分の中にこれがあったという感じは全くないんですよ。
それは僕の生育歴によるものかと思いますが。
*えー?まじでか。自分はそればっかの時期があったな。
しかし時代の性格としてそういうものがある、ということは分かっているのですが、
牧師になったばかりに読んだ本で「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)のなかの
主人公の心理状態としての「からっぽ」 という表現。
虚無主義とその空っぽが同一かどうかはむつかしいですが
なにか、「からっぽな自分」というものを見る、というのは内向きな感じ。
多分虚無主義においては
「内を見ても外を見ても空っぽ」なのかと思いますが。
空っぽ、空しさ、とか、そうした気分、感じ方が
現代の中に、私たちの中に巣食っているということでしょうか
後期の初めの授業に、「新新宗教」の回で、この空っぽ感についてお話したかと思いますが、
オウム真理教―僕はそのころ阿佐ヶ谷に住んでいたものですから、
象のかぶりもので選挙活動をしている人たちをよく見て、駅前には修行場もあったりして、
阿佐ヶ谷、荻窪辺りはキリスト教人口が高いところでもあるのですが、ルーテルも、聖公会も―、
大きなお寺もありますねぇ
その頃、オウムに入信した人のインタビュー記事が宝島かなにかに載っていたのですが
まだ、事件として扱われる以前ですね。
その記事に―(先生の朗読を拾い書き)
「昨年四月、私は小児病棟の看護師として働きだした、人間関係にも恵まれて充実感もあった、しかしどうしようもない寂しさがこみ上げてくる。気晴らしで遊んでも楽しいのは一瞬で、そのあと空しさが私を襲う、どうして他の人が楽しいと思うことに空しさを覚えるのか。小さい頃から感じていたが年々強くなる。心は不安になって追い込まれていく。布団をかぶって泣いていた。その当時交際していた男性がきっかけでオウムを知ることになって、入信。私がさびしかったのは「すべてが無常である」ということを小さい頃から感じいたに違いない」
この人はなにか、お金とか人間関係に困っていた、という事ではないですね。
むしろ充実している、ように見える。なのに空しい
それが、オウムと出会って「無常」として理解される。
それが自分の中の心の色、を作っていた、というか。
私は無常と彼女の空しさとは違うものと思いますが、
そのような言葉で心理状態をつかまえる、と。
そこに「教え」というものがあった、宗教が無常という言葉を教えているんですね。
実際に、この方のことだけではなくて、調査があって、新新宗教のことを話した際にもいいましたが
こうしたことが大きな入信の動機、となっている現代の特性。
だから、きっと、この人だけに特別なことではなくて、現代の若い人というか、その中にある一つの気分と。
仏教の言葉ですね「無常」世界の捉え方。
情がないということとは違いますよ。(無情ではない)
常なる物がない、と。すべてはかわっていく、と。
生きることはまた四苦八苦ですね。
なぜか
無常であると言う事を真理と受け取れず執着してしまうからだ、と。
物にも、人にも、自分にも。
この常ならざることに我慢ができない、そこに苦しみが起こる。
また、聖徳太子の頃から言われる事ですが、世間虚仮(せけんこけ)と
この世のことは全てかりそめ、と。これも無常の世界観です。
【辞書―世間虚仮、唯物是真】
現象世界は仮のもので、ただ仏の世界のみが真実であるという意。
聖徳太子の語として天寿国繍帳銘(てんじゅこくしゅちょうめい)に記される。
仏教の世界は、この世界からある意味では断ち切ると言う事での解脱
それによって救いを得ていく、と。だから第一義的にはこの世界を否定的に見ている、と。
*んー、無常即否定、じゃないだろう?そこは前提というか、足場、というか。
そうした無常観は日本人の中には比較的古くからあったということですね。
また、こうしたものと、「移り変わり」を肯定的に受け止める日本人の心性は調和しやすい。
(気候と人びとの性質の関係の話)
ある種の楽天的な気分だったものが、厭世的なものとして広がっていくのは鎌倉仏教から、ですね。
これは戦国、という世界の中で。
戦争がひろがる、武器を取る農民、農地が荒れる、血縁を超えた争い
いままでたしかなことと思われてきた共同体の崩壊、
また天変地異から、飢饉が多くおきた時期でもありました。
武家社会の勃興と没落
平家物語、驕れるものは久しからず―末法思想の浸透
はかなさ、もののあわれというものと無常観とが日本人の精神性に広まっていく
この、時代の大きな変化の中に私たちが投げ出されるという経験をする時に
確かさが感じられない中で、無常を実感していく、と。
○
こうした大きな変動において内面が揺り動かされるということは世界史にも例がみられる
例えば、西ローマ帝国の崩壊もそうです。
アウグスティヌスはその前夜の人ですね。
そういう時代だからこその、深い内面への洞察、また彼の神学的な考察の深まりが生まれたのではないか
不確かであるというのは世界の問題なのだけれども、
自分の奥底に確かさを感じられない、ということを、
彼は「原罪」という罪の問題として捉えていきます。
たしかなものを求める欲望が激しい人でもありました。
そしてそれが女性へ向くということがありました、またマニ教に向くことも。
そして最終的には、アンブロシウスの説教に出会って、そこに自分の救いの道を見出すことになった。
世界の大きな変動の時期です。
*原罪
また、中世末、近代前夜
そこで大きな試練を受けて新しいものを生み出そうとした人がマルティン・ルターです。
彼が戦った問題は「死の恐怖」でした。
当時はペストの大流行、飢饉があり、非常に死が身近なものであった。
社会そのものは新しい産業、資本主義のおこり、
それまでのおおきなキリスト教的な世界の支配が、しだいに地方地方の独立の気運に包まれる
激動の時代、でした。
ルターは、確かさを求めた。そして修道院に入る。
毎日が昨日と変わらない明日という形で続くならば生まれなかった不安なのではないでしょうか。
*そういや今日世界の人口が70億人になるらしい、とニュースで見た。
また、日本においては明治維新
第二次大戦後
70年代、90年代
2001年、9.11
2011年、3.11
*ここでそう並べるか…
大きな社会の変化、自然も含めて、私たちに激動の時代を提示する、と。
こういう次代に私たちは生きている、と。
その時代時代に確かさを失わせるようなものがあって、また無常なるものがあると。
そこに虚無というものもあるのかもしれない。
そうした気分、が、現代の状況かもしれません。
(私は(最近はみませんが)あのポポポポーンのCMを見るたびに胸がキュッとするようなものを感じましたが)
3.11以降の絆、つながりという感覚、
改めて求められてきている。
なにか、たしかなものを求めていくというときに
「人と人とのつながり」あるいは「人と自然のつながり」
何か自分たちが失ってきてしまったものを確かめたいという思いが今非常に大きくなってきていると。
3.11以降世界は変わるという風に言われましたね。
僕はまぁそんなに楽観的にはみていなくて、それをも押し流す流れというものがあると思いますが
しかし、変えるきっかけ、にはなるんじゃないかと思っています。
自分たちが何をえらびとっていくのか、を自覚しない限り変わっていかない。
しかし私たちは時代の大きな変化の中で何かを求めつつ、
しかしつかめないときに見出されるものとしての虚無感
私はよくわかりませんが、最近のコミックや、なにかにもそうしたテーマがありませんかね
*そりゃやっぱ『自殺島』だろー
私は古いと言われるかもしれませんが宮崎駿のアニメの中に―
虚無との戦い、ということ
(ナウシカ、千と千尋の話がしばし)
●
ニヒリズム、と言ってしまうと、哲学の中の言葉として扱われますが
ニーチェのね。しかしそうやって限定してしまうと、
キリスト教の土台のない私たちとは無縁の問題か?となりかねませんが
そうではありません。
現代の大きな時代の変化
グローバリズム(アメリカナイズ)のなかの自由主義、資本主義の世界
それが人間社会の多くを被うような時代、そこには宗教とか、伝統的な社会を超えて
現代的な都市的な均一な空間が現れる。
人間の欲望を駆り立てる社会、消費社会の根幹ですね
生産者としての視点が追いやられがちな
また、個人の豊かさ、にばかり目が向きがちな
結婚ということも必要ではないと思われるような(3.11で少し変わってきているようですが)
繋がりが奪われ、人間が個に分断されて。無縁社会、孤族という表現がメディアでありましたね。
3.11で変わってきていると入っても、ぼくはこの流れは簡単には覆らないと思っています。
そう考えると大きなチャレンジの時代に生かされている、と。
僕がうまれた昭和30年代はまだまだ古きよき、というような時代でした。
物を売る人が家の前にきていましたね、豆腐屋さん、氷屋さん
いろんな年代の子達と石蹴りをして遊んだ時代ですよ。
失われてしまったつながり、断ち切られる、競争社会に押し込まれる、というような。
その反動としての「ゆとり世代」というようなことがありましたが―
この授業、前期は、「人間とは」「生きる意味とは」というようなことをやりましたが、
そのときに、意味というものは、関係の中に見出される、というお話をしましたね。
自分ひとりの中を見ていても、生きる意味などというものは見出されない。
誰かにとっての掛け替えのない自分となって見えてくるもの。生きることの確かさを受け取っていく。
誰かの子供であるとか、誰かの親であるとか、誰かの親友であるとか、恋人とか夫婦とか
そういったつながりをつくることのなかで、掛け替えのない結びつきの中で生きがいを見出す、と。
勿論、大きな社会の中での意味、というものもあるのですが。
そうした繋がりが失われると、私たちは意味を喪失する、と。
*これが納得できない、ということではないのだが、
どうもこの便宜的な感じに抵抗をおぼえる自分もいる。
人を無闇に殺さないための、人間が生き延びていくための、文化としての「つながり」
この「つながり」が現実的に役に立っていることは分かる。多分それが治療的にはたらく時もある。
けれど、そもそものところ何のためのつながりなのか、ということに確たるものは無い、
という所が自分の前提になっている。
あ、だから便宜的で良いのだけれど、そこを無視して話が進むことに抵抗を感じている。
多分、それを便宜的である、と認識していることは
意味を与えてくれるものである「つながり」が同時に苦しみを与えるものでもある、
ということを乗り越える上で役に立つということになるんじゃないだろうか。
なんか発想が虚無感っぽいな、というか安全確保の感じ、あるいはしり込みの感じ、言い訳の感じ
私たちは、僕が言えば(まぁ聖書が言えば)ということですが、
一人ひとりの違い、ということ、能力、条件の違いはあるが
一人一人掛け替えのない存在として神様に生かされている。
神様との関係の中に確かさが与えられる。
しかし神様は見えないものだから、必ず人をとおしてその繋がりがあたえられる。
そうした人との繋がりが断ち切られるほどに、私たちは意味を見出しにくくなる。
これが、まぁ、現代の私たちのある種の気分をつくってしまっていますね。
*神の与える掛け替えのなさ、を拒否したくなる心持ち、逃げたくなる感じ、重い感じ
ってのも神から背こうとしているという意味での「原罪」にあたるものなんだろうか?
だとしたら、それは背負って生きていく、ということで、まぁ良いってことなのか。
でもねぇ。
これ、必要なのかな。神が掛け替えのない存在として作ったって前提。
それが無くなること即ニヒリズムってことになるんだろうか。
もうちょっと人間の感覚、としての、意味を喪失することの恐怖、というか
恐怖じゃなくてもいいんだけど、ヤバイなって感じで、踏みとどまるってことは無理なのか。
あるいは、そこで踏みとどまれない場合の、保険としての、セーフティネットとしての神なのか。
(そういう状況を称してフランクルは「ヌージェニック神経症」という概念を作ったのか。
・ヌージェニック神経症[訳注 実存的葛藤から生じる状態]
(Frankl)一般に神経症のおよそ20%はヌージェニックと考えることができる。セラピストは、患者が直面している実存的問題を理解し、人生の目的と意味へと患者を導くことによって問題の克服を手助けしなければならない。(『心理学者、心理学を語る』)
フランクルが言うような
「生き延びる理由や目標をもっている人は、生き延びる確率が最も高かった」
「宗教は意味への意志の一つの形態」(『心理学者、心理学を語る』)
というのは、それはもうそうなんだと思う、納得もいく。
その理由や目標があらかじめ設定されている、という意味での神の機能にはうまくなじめないのだけれど、
それに対して、人間は神から背くという原罪を負っている、っていう一つ入り組んでいるところが
自分にとってのキリスト教の魅力というか、まぁ惹かれるところなんだろうな。
西欧ではですね、ニヒリズムが改めてクローズアップされるのはニーチェですが
彼は何を言ったのか。
神は死んだ、とこう言ったと。
この言い方はあまり正しくなくて「神は死んでいる」です。
こういう言葉によって何を表したか。
近代のある種の終り、ですね。
近代が作ってきたのは、その前の中世からの大きな転換の時代です。
キリスト教的世界からいかに人間の自立的な歩みをするか、と言うのが近代ですね。
西欧の近代の人間の自立、は、しかし背後に神を抱えていたんですね。
*対神恐怖(岸田秀)
そこからの脱出も一つの営みでしたが、そこには相手としての神はいつもあった。そしてそれが近代を支えてきました。
デカルトというひとがね、コギト、精神的な自我というものを世界の足場にしたんです。
世界は神様が作られたと教えられてきた、
しかし、そこでの疑い得ない自分の足場を求めざるをえない。
そうしてたどりついたのが、考えている、疑っているという自分、つまり精神的な自我、です。
考えている限り、考えている自分がいるということは、論理的にたしかだ、と。
つまり考える自分、が足場になるのが近代的自我の出発点です。
でも、そうすると、考えている自分の確かさはわかるが、世界の存在は自明ではなくなる。
そこでデカルトが取り入れたのは、神の存在証明であり、そこから世界の確かさを導くわけですが
近代的自我の背後にそーっと神様がもちだされていた、ということです。
唯一の神があるという事が人間の生きることの
普遍性、永遠性、絶対性
そういう価値を保証するもの、なんですね。
ヘーゲルは、人間の精神と言うものの自己運動の中で絶対精神にたどりつく、と。
今は私たちの知っていることは限られているでしょ
しかし少しずつ分かるようになるじゃないかと。真理が
やがてその精神は「絶対的な真理に到達する」。これはつまり神になるということです。
近代と言うのはこうした真理をどうしたらひとが見出されるのか、ということへの格闘の歴史、と。
すこしさかのぼりますが、カント。
カントも、神の有無は人間が扱える問題ではないが、
しかし神が無ければ困る、と言った。それは倫理の領域で困る。如何に生きるかということ。
これは善を求めて生きる。そこでは善が自明でないと倫理が成り立たない。
そういう私たちにとって必要な神。
どうしてか。神の裁きがないと、正直ものがバカを見る世界になってしまうから。
倫理の成り立ちに神は必要。つまり
「善の基準」がないと人間は生きていけないということを表しているんですよね。
近代と言うのはそうしたあゆみ、
人間の新しい歩みをつくるなかで、
ずっと神の問題を引きずっている(まぁこの表現が正しいかどうかは問題ですが)
まぁともかくそういうこと。
その果てにニーチェが言ったこととしての「神は死んでいる」
神を想定していることそのものが間違っている、と。
不条理なものは不条理だと。
絶対の真理なんてない。どこかにあると思っているのか?そんなものはない、と。
あるのはなにか。
あるのは一人ひとりが自分の都合にあうように認識している世界。
私が見ている世界と、○○君が見ている世界は違う、人間が違うんですから。
見ている世界が違う=皆自分の中での意味づけに基づいて世界を認識している訳だから、
その果てに、真理の世界として、みんなの世界認識が一致するのか?
そんなものは無い、と言っているのがニーチェです。
だから絶対的な善もないし、一人ひとりの都合のよさがあるだけで
そこでは力のある物が基準をつくる、と。
その時の強者が、自分の善いを実現するために決まりを作っている。と。
悪人だろうとなんだろうと、強い者が勝つんです。そして世界をつくっている。
いうなれば、強ければ善い、という事なんです。それが世界だ、と言うのがニーチェの世界観です。
神など無いのだから、それが私たちの生きている世界だから。
そうして彼はキリスト教批判を行います。彼は牧師の息子ですがね。
そしてルサンチマンという言葉で宗教を言い表します。
ルサンチマン、つまり、負け犬の遠吠え、ということですね。そのくやしさの感情
だから、強いものが勝つんじゃ困る弱い物が、宗教を作ったと。
宗教は弱者のルサンチマンだ、と。
弱いものは殺せというのが強い物の理屈です
「小さき者を大事にせよ」というのはそれに対するルサンチマン、と。
ニーチェはそういうことで
じゃあどうするんだ、と。どう生きるんだ、と。
そこで持ち出されたのが「超人」です。超人になる、と。
そういう無常なるものを引き受けて生きることの決断をする。
これがニーチェのニヒリズムの中に生きる答えなんですね。
すごいなぁと思いますがね、
しかしニーチェは発狂してしまいましたね。
わたしたちは人間なんだから超人にはなれないですよ。
*超人、というから、人間には無理ということになるかもしれないが、
それは短絡的ではないか?
例えば「自己超越」ということはしかしあってもよいのではないか。
V.E.フランクル:「自己超越とは、人の存在が何か他のものや他の人に向けられていることを意味する。人間であるということは、実現すべき意味を得ようとすることだ。たとえば、誰かを愛したり大義のために身を尽くしたりするとき、人はことばの最良の意味で本来の自分になる。意味を見出す動機づけがあると僕は言い続けているんだよ。」(『心理学者、心理学を語る』)
しかしこのニヒリズムは神を否定したこと中でおこったことでした。
しかしキリスト教においては、神無きニヒリズムではないのです。
「神があるところでのニヒリズム」、これは北森嘉蔵が言った事ですが
これは、だから「神なきニヒリズム」より深い絶望ですが、
そこでたった一つ見出される光としてのキリストの十字架
20世紀に生きた神学者、ディートリッヒ・ボンヘッファー
彼はナチスドイツの時代に一度は海外に逃げますが、ドイツにもどり地下活動を行います。
そして45年の解放直前に処刑をされてしまった人です。
20世紀の神学者の中でもひとつの、深い、神学思想を持った人と
彼は「神なしに、神の前で、神とともにいきる」と、こういうんですね。
ボンヘッファーのことは興味を持っていただけたら、本を読んでいただければとおもいますが
(江藤先生はボンヘッファーの専門です)
神無しという、深い現実をみながら、自分は神の前で、神はいないけど、神とともにいきるんだ、と。
これはニヒリズムを行きぬく一つの信仰の姿として着目をしたいところと思います。
その根拠にあるのもキリストですね。
十字架上で「エリエリレマサバクタニ」と叫ぶという事は、神はいないということです
しかしそこは神の前であり、神がいたもう、という出来事であったという事と思いますが(まぁこれ以上行くと神学のクラスになりますからここでは踏み込みませんが―)
そうした私たちの寄る辺の無さ、
そこで必要とされるものとしての宗教と言う事をぼくは考えますが
(宗教はなくならない、なぜなら必要とされているから)
そこでキリストというものがあらためて大事になるということが僕の答えですが。
*必要である、ということと、キリストの掛け替えのなさ、ということがどうも腑に落ちないな。
必要とされているのは必ずしも宗教、という事ではないのだろう。
意味を与えてくれるものなら、まぁ
仕事でも家族でも自助グループでも趣味のサークルでも良いんだと思う。
或いはカウンセリング、とか精神分析でも。
意味を与えてくれる、という意味でもそうだろうし、まぁ意味を見出す手助けをする、とか。
じゃあ何故「宗教」が求められているといえるのだろうか?
一番奥の、一番行き詰った先の悩みの光として機能するのは宗教だけだ、
という意味なんだろうか?
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