4限 江川 151教室
(補講のお知らせ―12月27日(火)2限目)
1週間空きましたので、復習と前回の話残しをひとつ
・ルネサンスの舞台(復習)
中世西ヨーロッパ(ラテン文化圏)・ローマカトリック教会体制
においては古代ギリシア文化(当然ギリシア文化)はどのように摂取されていったか。
⇒ラテン語化されて導入されていた。(スコラ学におけるアリストテレスなど)
ルネサンス期になると古代ギリシア文化が直接導入されるようになる。
・ここが大きな違い。
この背景にあったのは-
オスマン・トルコが中世末期に台頭
西進してビザンツ帝国の危機⇒西ヨーロッパに救援を要請
そのためにビザンツ使節団がくる。
・このビザンツ使節団がポイントでしたね。
ここで来たのがビザンツの学者達。
前回お話したのがクリュソロラス(1355年~1415年)
こうした政治的状況が地中海を揺るがす中でビザンツの学者がやってくることで、
古典ギリシア語を教授する。
ペトラルカやボッカッチョら人文主義者の関心は古典古代文化だったよね。
古代ギリシアのものはラテン語化されたものしか触れられなかったところに
古典ギリシア語を教えてくれる人がやってきた。
これを積極的に摂取していくことになる。
・
ゲミストゥス(1438年の使節団)
(新プラトン主義哲学者)
このような世界の見方がルネサンス人に大きな影響を与える。
この人が使節団で来たときに、政治的な使命をもってやってくるだけでも大変なことだが
この人がプラトンについての講義がフィレンツェで行われる。
・ここでプラトンがイタリアに入ってくるというのは重要。
ここでプラトンから非常に大きな影響を受けたのは
(当時のフィレンツェを牛耳っていたメディチ家の)
コジモ・デ・メディチ-当時のフィレンツェの最高権力者(フィレンツェの父)
この人が聴講をしていて大変感銘を受けた。
コジモはプラトンがアカデメイアを作ったのにならって
プラトン学院(1449)をつくる。
ここがルネサンスの思想界の中心となっていく
で、オスマントルコによって
1453年、ビザンツ帝国は滅亡してしまうことになり-(中世の終りともみなされる)
これはヨーロッパの歴史の転換点でありますが、
こうなると、イタリアには、ビザンツからの亡命者が押し寄せてくることになる
人も来るし、ギリシャ語写本もさらにくる、と。
(イタリア商人もコンスタンティノープルへ)
ということで、
ここでお伝えしたかったのは
・ルネサンスの発展は西ヨーロッパだけに限っては考えられない。
ここまでで、ひとつ中世末期、地中海世界のお話を区切らせていただきたいと思います。
●
そうしましたらいよいよ
これまでルネサンス開花の前提について話をしていきましたが、
ルネサンスとはそもそも何か、という。
ルネサンス精神について考えて行きたいと思います。
*レジュメ・資料2枚配布
世界と人間の発見~ルネサンスにおける人間像と世界観の転換~
ブルクハルト(1818~1897)⇒ルネサンスとは“世界と人間の発見”の時代
具体的に、ルネサンス人が世界・人間を
どのようにこれまでとは違った捉え方で見ていたか、を考えていきたい。
1.ルネサンスにおける人間観:ルネサンスにおける「個人」の発展とは
ブルクハルト-個人主義の発展
個人主義、いろいろあるが、
共通していえるのは「私」という個人が中心になって考えられると。
これは具体的にどういうことか、ということが問題になりますね。
まず、ルネサンス人は個人をどうとらえたのか。
ブルクハルトはこの点について、
「中世では、自己を種族、国民、党派、団体、家族としてのみ、
あるいはその他何らかの一般的な形を通して認識していた。」と言っている。
つまり、常に何らかの集団の一員として捉えていた。
「しかし、ルネサンスにおいてはこのベールが風の奥に吹き払われ、
人間が精神的な個人となり、人間が個人として認識されるようになった」
(ルネサンスの「個人の発展」の章)
ルネサンス人が自分を個人としてとらえるようになってきた、と。
それはどのようなものだったのか。
ペトラルカを思い出してみてください。
彼においては、人間とは、ということよりも
自分自身を知るということへの意識が芽生えていた。
じゃあそれが本格的なルネサンス期にどのようにして知ろうとするのか
また、何故知ろうとするのか、これが問題になってきますね。
そこで、自分についての認識をルネサンス人はどのようにして行うか
1)「自己」・「私」の認識による人間探求:観察と描写による認識
自分というものから人間を探求するのはペトラルカの精神でもありましたが、
ルネサンス人と言うのはちょっとやり方をかえてきます。
例えば、みなさん自分とは何かと探求する際にどういった方法をとりますか?
哲学的な探求、「考える」ということはありますよね。論理的に考えていく。
また、現代でも行われているような、自分をじっくりと見つめる、表現するということの
絵や文章によるかたち。
→観察と描写
これによってルネサンス人は自分をみつめた。
ブルクハルト言うところの「発見」
それは観察して見出されていく、と。
さぁ、じゃあ観察と描写がどのようにしてルネサンス人が自己観察をしたか。
これは今の私たちにも違和感がないような方法かと思いますが
a)自伝による自己観察
実はルネサンスというのは自伝が大流行した時代なんですよね。
主流となった文学スタイル。
自伝とはなにか?
「私」を主語にして、個人の経験が語られること。
(ブログとかね、自分のことを語ろうとすることについて
私は「どうして?」と思ってしまうのですが。)
ルネサンス人の場合は「自分が何ものなのか」という
自己省察にたいする意識があった。
これはアウグスティヌスの「告白」のようなスタイル。
これはキリスト教者としての枠組みのもとで
ペトラルカも自分自身を知ることがテーマの人ですから、主体としての「I」がある。
「後世の人に」という著書、未完成ですが自叙伝を書いています。晩年に。
そういう風にして、ルネサンスに関わりがある人は自分のことについて語っている。
ルネサンス期になると、そういったスタイルがより一般的になる。
統計によりますと、フィレンツェで、発見されている日記の類は100点ほどが現存している。
(日記、日誌、回想録を含んだ上での自伝というカテゴリー)
ですのでルネサンス期に主流となった特徴的な文学スタイルということになります。
ルネサンス人はどうして自伝を書こうと思ったのか。
そこで、今日ご紹介したいのが(私はこの人が好きです!)
ジェロラモ・カルダーノ(1501-1576)(『カルダーノ自伝』)
この人は百科全書的奇人といわれたりもする。(数学、哲学、占星術、賭博)
彼は非常にルネサンス人らしいひと
全ての分野で卓越した才能を発揮し、またそれらが統合されている
その自伝のおもしろさ、としては
「恥ずかしながら」ということを赤裸々に描いているところ。
「恥ずかしながら」ということを赤裸々に描いているところ。
また自分のことを非常に客観的に描いている
(足が甲高で靴選びに苦労するという話、
禿が好きな女性もいます、の話
しばらく自伝拾い読みがあって―)
カルダーノが自伝を執筆した動機は⇒「真理への愛」
「真実の知識を得ることほど、人間が学ぶあらゆる事がらで素晴らしいものはない」
と言っています。
すなわちこれは真理への愛である、と。
彼自身は「作為的ではなく、赤裸々に書いている」と自ら言っている。
これは、自己観察による人間の探求(真実の探求)
自分を徹底的に観察することで人間を表現する
面白いのは自伝の構成で、
時系列順ではなく、トピック別に書いている。
時系列順ではなく、トピック別に書いている。
ルネサンス人の人間の描き方、自己観察の仕方として-
良いところばかり見ている訳ではない。長所も短所もあるよ、と。
善悪を含んだ人間(人生)のあり様
b)肖像画と自画像
このようなジャンルが出てくるのもルネサンス期のこと
肖像画というのは、ある個人の姿を描いた絵。
これは依頼を受けて描かれることが多かった。
それまでは、キリスト教の聖人などが描かれることはあったが
いわゆる普通の人が描かれるのはルネサンス以降のこと。
このような依頼が生まれるというのは、個人の意識の高まり-
ラファエロ「アテネの学堂」
・自画像
自分自身を題材にする。
自己を観察・描写の対象としている。
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