2010年10月22日金曜日

聖書入門(新約聖書)-4「ペトロ」

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『イエスの弟子、ペトロ』目次
●(復習)神との関係の回復
12人の弟子たち
●一番弟子ペトロ
●ペトロ=シモン=ケファ=岩
●ベトサイダ出身の無学な漁師、ペトロ
●カトリックのはじまりであるところのペトロ
●イエスの一番そばに置かれた弟子たち。ペトロ・ヤコブ・ヨハネ
●(余談―ルーテル話)手の無いイエスの像。ゲッセマネの切り絵
●ペトロによる最初の信仰告白―マタイ1616
●天の国の鍵の権能
●イエスによって「岩」とされる。イエスの働きかけによって弟子となる。
●ペトロの三度の裏切り
●イエスの最期―復活
●ペトロを赦すイエス

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●(復習)神との関係の回復

前回はイエスの働き
旧約から待望されてきたメシア、
それ以上にイエスの救いの出来事、
イエスがそこにおられるところに始まっている。また、御言葉が語られる中に起こってくる。
それは「神の支配」=「神の国」。神の御心がそこに起こる。

それはなにか「癒し」の項で話したが、ポイントは「罪の赦し」だ。
それは「神との関係が回復される」ということです。

もともと神の御心によってつくられた人間が、
そこから離れて生きることの空しさ、苦しさ、労苦、そこに私達の問題の所在。罪。
そうした罪が赦されることは神との関係が回復されて生きること。
イエスを通じてそれが成された。
によってつくられ、愛によって再び生かされる。という事ですね。

だから病気や障害を癒すこともそうだが、単にそれが大事なのではない、
それ以上に、この神との関係の回復のなかで人々が生きるようになる。
そのことによって神を讃美し、イエスに従うことが起こされる。

これからの授業でもイエスの働きについては話していきますが、
要点としてはそうしたポイントを捉えていて欲しい

12人の弟子たち
さて、今日は、イエスと人々が出会っていく、
そこで最初に起こされたこと。弟子、たちが
弟子達が召されてくる
召しだされて、呼び出されてくる。

イエスの弟子は何人いたか?12
この12人の弟子が、特に、後に使徒と呼ばれます。
この12人が特に名を呼ばれ、イエスのそばに置かれて旅した人たち、
ただ、弟子はこの12人だけではない。他にもいる。
恐らく―、十字架の出来事までしたがったものは少ないが、それでも12人以上はいたと。
例えばルカ24章の・エマオの途上
その出会った二人は12人の弟子ではない人たちだった。
70人の弟子を派遣したということもありましたので―

まぁしかしそうした沢山のなかで特に12人が名を覚えられていて、
イエスの一番近くにいたと知られているという事ですね。

その12人が、どこに勘定されているか、福音書に幾つかあるが、
マタイを見ましょう。

マタイ10
・十二人を選ぶ
○イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気やわずらいをいやすためであった。
十二使徒の名は次の通りである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ―

福音書の最初の3つ、共観福音書、同じように記している箇所のことを平行箇所という。
この12人の弟子が名を上げられているところ、平行箇所 マルコ313-19 ルカ612-16
じっくり読むと、名前が合わない…。微妙なところがあるが、まぁとにかく12人いる。

●一番弟子ペトロ

その中で今読んだ箇所だと、2節のところにこうある。
「まず(プロートス)ペトロ」とある。
いわば一番弟子。
実際にペトロを弟子として召しだしたところが書かれています(後で見ます。)
順から言って最初かなともいえるが、ヨハネによれば違う。
だから順番がどうかは分からないが、
このペトロと呼ばれる人がイエスの一番弟子といってよい。それくらい重要人物

その重要さは幾つかのことでわかる。
恐らく、まぁ、このペトロほどはっきりと名を上げて、弟子の存在として新約の福音に繰り返し登場する、役割を負った人は他にいないということ。
実際にイエスが特別な場面で数名の弟子をおくときには必ずペトロの名がある。
そして、聖書のなかで、このイエスとのやり取りがあるが、非常な重要な役を担っている。
ある意味では弟子の代表格といって良い。

そして、このイエス様がご自身が、宣教していかれた後の時代。
十字架、復活、昇天の後。
弟子達が聖霊を与えられ宣教するが、その教会の中心の役割を担ったのもまたペトロでした。
「柱」のうちのひとり。そうしたことを考え合わせて重要な人物と。

*ペトロの重要さ
・くりかえし福音に名を挙げて出てくる。
・イエスが特別な場面に数名でいるときには必ずペトロの名がある。
・イエス亡き後の宣教においても中心的な「柱」としての役割を担う。

ペトロについてみましょう。
ヨハネ135
・最初の弟子達
○その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
シモン・ペトロの兄弟のアンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモン(*ペトロのこと)と会って、「私達はメシア―『油を注がれたもの」という意味
ケファ
 
ここをみると、ペトロが順番で最初ではないという事が分かるが、

イエスは最初洗礼者ヨハネと、
そのときヨハネの弟子達がイエスの元に来る。
ヨハネが「神の小羊」と言ったから、ヨハネの弟子がイエスに従った。

●ペトロ=シモン=ケファ=岩

シモンという名を持っているが、
ペトロというのはギリシャ語の名前なんです。ペトロスという。
当時の世界でギリシア語で名乗る時はペトロ。
シモン・ペトロと呼ばれるが、アラム語では「ケファ」(岩という意味)
名前はシモンともペトロともケファとも呼ばれるということ。
恐らくケファはそうそう出てこない。
そもそもこの新約はギリシア語で書かれていますから普通はペトロ。
実際のイエスとの関係ではアラム語で話していたでしょう。
アラム語とは当時の口語のヘブライ語と思ってください。
このケファはペトロと同じ意味を持った言葉=

実際にヨハネ福音書によれば、イエスからケファと呼ぶといわれた、と。
事の次第は明瞭ではないが、マタイ16章を見ると少し(ここは後で見ます)違った様子が。

●ベトサイダ出身の無学な漁師、ペトロ

このヨハネを見ていますから、もうすこし先まで見ましょう。
ヨハネ144
○フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

ペトロの出身地、はベトサイダという町。

聖書の後ろを見ると地図がある。この地図はNo6の地図(新約時代のパレスチナ)
前回も少し言いましたが、ガリラヤ湖畔でイエスは宣教されたと。
そのガリラヤの北にベトサイダがあるのが分かる。ガリラヤ湖沿岸の出身。

何をしていた人なの?
マタイ418
・四人の漁師を弟子にする
○イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。

つまりペトロは漁師であったんですね。どうやら網で漁をすると。釣竿ではないみたいですね。

○イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」といわれた。

大胆ですねぇ。生きたまま人間を捕らえる、という。

この箇所で二組の漁師だった兄弟がイエスの弟子となった様子が描かれています。
で、漁師だったということは要するに特別な人ではないという意味です。特別とは、宗教とは律法学者だったとか、サドカイ派だったということ。そうではなくごく一般の人だったという事です。

使徒言行録413節 219P
○議員や他のものたちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、またイエスと一緒にいたものであるということも分かった。

ここでは「無学」と。しかしこれは普通のこと、普通の人です。学問をする人のほうが普通ではない人。ようするに律法学者になるという事です。いまみたいに学校があるわけではないので。
全く無学であると。そして漁師さん。

イエスの弟子になるという事は特別かと思いきや、ごく普通の人がイエスによって弟子にされているというところが、ポイントです

●カトリックのはじまりであるところのペトロ

このペトロは結婚をしていたのか?ご存知でしょうか。
いま牧師はだいたい結婚しているという、結婚していい状況ですが。
しかしペトロの系譜を大事にするカトリック。(ローマの主教座のはじまり=教皇)
カトリックの神父は結婚をしないと。一番始まりのペトロは?
どうやら結婚をしている。それはマルコ福音書で

マルコ129
・多くの病人をいやす
○すぐに、一向は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、―

「しゅうとめ」ということはシモンには結婚相手の母がいたという事ですね。
このことはパウロとの違い
プロテスタントでは「パウロさんパウロさん」といいますからプロテスタントはパウロかと
しかしパウロは結婚していないんです。

第一コリント93
・使徒の権利
○わたしたちを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。私達には、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

ここにはパウロが結婚していないという事が。
ペトロは漁師で無学で、結婚していた。ベトサイダ出身、家はカファルナウムにある。
というような様子が、ペトロの履歴書的な事項ですね。

●イエスの一番そばに置かれた弟子たち

で、この。
ペトロはですね、最初にも言ったが色々な場面でイエスの一番近くに置かれている事が分かる。
例えば、マルコ521節以下少し長い物語になっていますが
・ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
会堂長の娘ヤイロが亡くなって、悲しんでいる様子、35節以下に、そこに行って、ヤイロの娘を蘇らせる。すると少女が12歳、起き上がって歩き出すという癒しの出来事。
そこにいたのは3人の弟子。
37
ペトロ、ヤコブ、ヨハネ
この3人がイエスと共にそこに行き、癒しを行われたと。

マルコ92
・イエスの姿が変わる
これは変貌と呼ばれますが、白く輝く。福音書で変貌の出来事=特別の示し。
イエスの旅においては、ここからはっきりと十字架にエルサレムに向かうポイント
そこに神の御心が示されている、ということ。
ここにはエリヤとモーセがいると。この二人とイエスが話をしている。
エリヤは預言の象徴、モーセは律法の象徴
ここに居合わせるのも、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人なんです。

さらにイエスの生涯の大事なポイントにペトロが同席している、
マルコ14
いよいよ十字架の直前。いくつかの重要な出来事。
最後の晩餐(過越しの食事)それに続いて、そこでやり取りが合って、ペトロの名があげられて

32節から食事のあとにゲッセマネの園で祈られる。
ゲッセマネの祈り
これはイエスの祈りにおいても、十字架の直前、特別な祈りとして知られている。

(余談)
本館、チャペル前の入り口、そこの階段のボルト、ちょっと広い場所、
そこに2つの大事なもの。
ひとつは手のないイエスの像。木彫。うちの神学校で大事にされています。
どうして手がないのかそれは分からないが、それに対して色々考えをめぐらせたある方が、素敵な詩を作られたんです。どこで読めるか、ある本の最初に
ディアコニア入門―カドワキセイコとイシイマサミ(先生のお父さんか)
この詩を書かれたのが直純先生で

そのイエス像の向こう側に切り絵があります。
その絵にゲッセマネの祈りが、牧師だった小島先生が
古くからこのゲッセマネの園での祈りは十字架ほどではないですが、キリスト教美術で描かれる大事なシーンです。これとピエタ(十字架からおろされた亡骸をマリアが抱きしめる)
この3点は良く描かれた場面です。
このゲッセマネの園でもペトロ・ヤコブ・ヨハネが。

過越しの食事の準備に当たるところもルカには出てくる、そこでもペトロが大事な役を。
とまぁ色んなところでペトロは繰り返しイエスの身近にかれていた。

●最初の信仰告白 マタイ1616

さらにイエスとのやりとりで重要だったのは、ここにでてきます。
マタイ福音書にもありますが、何故マタイかというと、1616節と暗記しやすいからです。

マタイ1616
○イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことをあらわしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。

これがイエスの対する。最初の正しい信仰告白、といっていい。
メシアと描かれていますから、つまりこれはキリスト。
あなたはキリストだと告白している最初がペトロの信仰告白なんです

バルヨナのバルというのはだれだれの子、つまりヨナの子という意味です。

●天の国の鍵

天の国の鍵」ここがポイントです。
名を呼ばれて、「この岩の上に教会をたてる」と。鍵の権能をもらっている。
教会を代表して「あなたが赦す」と言われたら天でも赦されると。
「ペトロの座」の重要さ、その起源がこのマタイ16章に。

●イエスによって「岩」とされる。イエスの働きかけによって弟子となる。

大事なのはペトロがイエスによって「岩」とされたと。
何でか?
漁師で無学で普通なのに。特別な修行を積んだ訳でも無い、特に頭の良い訳でも無い。

マタイのこの出来事のあと21節から、
イエスは自分の死を予告します。死と復活を弟子達に言う。
しかしこれを聞いたペトロは何というか。
イエスの言うことを理解せずになんと諌め始めるんです。
「そんなことがあってはなりません」と。
ペトロはイエスをメシアと信じているんです。当時の人は神の国としてのイスラエルの復興を信じていた。ペトロは素直にイエスがイスラエルの新しい王になると信じているんです。
つまりペトロはイエスが言うところのメシアの内実を理解していないんです。
そしてイエスは言います。
「サタン下がれ」と。さっき褒められたと思ったら、上げられて落とされて大変ですね。

しかしこの事の意味は、それほどペトロは普通の人であったと。
それでもイエスには大事にされて傍に置かれ、お前の上に教会を建てようとまで言われる。

これは一体どういうことか。

ここにイエスの弟子となるということがどういうことなのか、
私達が知らされていると思います
イエスの弟子となるという事は、ものすごく頭が良い、或いは信仰深いということではなく
ごく普通のひとだ、ということが示されている。
そんなものだと。しかしイエスのほうが愛していて、大事にしている。
岩と呼ばれる確かさは本人のうちにあるのではなく、イエスが関わることの中にある
イエスの働きかけの中に与えられたもの、ということです。
自分自身の素質とか訓練とかそうしたものによる確かさは一つもない、間違ってばかり。
しかし神のほうが捕らえてくださって、「おまえを確かなものにする」と。

だから自分自身をみればいつだって情けないし、間違える。
この間違えるということはこんなところにも表れる。
マタイ1422
○それからすぐ、イエスは弟子達を強いて船に乗せ、
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子達のところに行かれた。弟子達は、イエスが湖上を歩いて折られるのを見て、「幽霊だ」といっておびえ、恐怖の余り叫び声をあげた。
ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスのほうへ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、

これが私達の信仰の姿なんですよ。
これで大丈夫と思いきやすぐ沈みかける。
だけどそういう私達をイエスはガッと捕まえて下さると示されている

しかしペトロは大胆だけどおっちょこちょい。まぁ私達を見るようですねぇ。
そういう弱さ愚かさ、しかしペトロが弟子の代表と言うのは意味深い。
だからこの人自身を見れば何という事はない。
しかしイエスのほうがその人を捕らえ歩ませてくださる。

●ペトロの裏切り

マタイ2631
○今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく。
「三度わたしのことを知らないと言うだろう」

これがペトロの裏切りの予告。そういわれてペトロは
○「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

緊迫している状況。しかしペトロは大胆にも覚悟を言う。

実際にイエスが捕らえられる場面。
ヨハネ181節から
ユダの裏切り、兵士に捕らえられる。その時に、抵抗したのか、逃げさったのか、逃げさるんですが最終的に、最後の抵抗10
○シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。

イエスはペトロをたしなめた。ペトロはここでは非常に勇ましい。強いペトロと言うイメージも無くは無いが、それでも「知らない」と言ってしまう。

ヨハネ1817
○門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」
25
シモン・ペトロは立って火に当たっていた。人々が「お前もあの弟子の一人ではないのか」と言うと
26
「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」
鶏が鳴いた。

これはヨハネを読みましたが他の福音書にも共通してある箇所です。
これほどの一番弟子であったペトロ、後には教会の柱になる人。本当に大事な人だがペトロはイエスを裏切ったということがはっきりと描かれている。
人間としての弱さが良く表れている。このことはどの福音書にも描かれているから疑いえない事実でしょう。そいて、マタイ
マタイ2675
○ペトロは、「鶏が無く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われた
激しく泣いた。

自分の決心、信仰を強く持っているつもりが、しかし自分は弱かった。打ち砕かれる
そういう弱い人間。
この後イエスがピラトのもとで裁判を受け、刑がきまるなかでは傍にはいられない、
遠く逃げさるしかなかった。

●イエスの最期―復活

その、ペトロがしかし、その後どうしたか。
十字架の後、昼の12時頃、最後の場面が出てきますけれど、イエスが息を引き取られ、金曜日のこと。その夕から安息日が始まる。急いで十字架からおろして葬りが成される。女達はそばにいる。母マリア、マグダラのマリア。弟子達12人はそばにはいない。弟子の一人として言われているアリマタヤのヨセフが遺体を引き取る。しかし彼は旅にともにいた人ではない。
この弟子達が再度登場するのは復活の場面です。

ヨハネ20
・復活する
○週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に言った。そして、墓から石が取り除けてあるのを見た。そこでシモン・ペトロのところへ、またイエスが愛しておられたもう独りの弟子のところへ走っていって彼らに告げた。「主が墓から取り去られた。どこにおかれているのか、私達にはわかりません。」

気になりますねこのもうひとりの弟子が。これはヨハネのことと言われています。弟子達のなかで一番年若いヨハネのこと、と言われている。競走するとペトロよりも早かったと。
もう一人の弟子が先についていて

○身をかがめて中をのぞくと 彼はなかには入らなかった。

この大事な場面、マグダラのマリア、ヨハネがいる、この二人のほうがペトロよりも先に墓を見ている。しかしペトロは中に入って空の墓を確認する大事な役を。

ヨハネ2115
ペトロが復活されたイエスとあって直接話している。
○食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが「はい、主よ、私があなたを愛しているということは、あなたがご存知です。」というと、
三度目にイエスが
悲しくなった。
そして言った。
「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。
私の羊を飼いなさい

●ペトロを赦すイエス

ここで三度同じ問をしている。この三度は「イエスを知らない」といった三度。
ペトロとイエスの関係の回復。
ペトロにとってはずっと気になっていること。イエスの復活は喜びでしょうが、ペトロにとっての大きな問題は裏切り、この自分の罪深さ、これはそのまま残っている。
嬉しいが…、しかし私の罪は?
このやり取りのなかで恐らくペトロはイエスの許しを受け取ったろう。そしてそれ以上に大事な役割をおっていく。「羊を飼う

裏切りにもかかわらず、イエスは愛して用いられる。
そうした神の働きこそが、ケファの、ペトロの固さ、なんです。信仰の歩みの強さ。

今日は、ここまでです。ありがとうございます。
他の弟子のことについては来週お話を。


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