2010年10月15日金曜日

聖書入門(新約聖書)-3「イエスの働き」

5限(152)

『イエスのはたらき』目次

●前回の復習「イエスとは誰か」
●ルカ福音書のメッセージ「神は小さな者、虐げられた者、貧しい者、弱い者に、その眼を注がれる」
●イエスの働き―イエスの宣教
●神の国が近づいた―イスラエルの復興への期待
●苦難の歴史―復興の期待=平和・正義・公平の実現
●イスラエル人の罪―神から離れた(まざりあった)―裁きとしての苦難
●正しい信仰の回復

●一つ目の約束―神はメシアを与える―もう一つの約束―新しい約束としてのイエス
●インマヌエル預言●メシアの預言●イスラエルの復興の預言
●イスラエル人の望んだ神の国の実現と、イエスの実現する神の国の違い
●イエスの実現する神の国―「見えない、しかし人々の間に実現する」―神の支配

●イエスの宣教―1.教え 2.御国の福音 3.癒す
●癒しより大切な「罪の赦し」=神との関係正常化
●新しい神との関係=新しい生き方に変えられていくこと。これがイエスの宣教の御業
●(次週)イエスによって変えられた人としての弟子、ペトロ。

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●前回の復習「イエスとは誰か」

前回イエスとは誰かと、いうことではなしをしましたが。
イエスの誕生の物語は2つの福音書にしか=マタイ、ルカ
前回は主にマタイのことを。
東方の占星術の学者が来たと伝えられている。新しい王の誕生。
これは詩篇を通して学んだように古くから預言されていたこと。
新しい王としてのイエス。預言の中ではイスラエルの王ですが
『世界の王が王にひれ伏す』とあるように
世界に対する王権を持っている。
それをマタイ福音書は預言の成就と。

このことはどういう広がりを持つか。
旧約、ユダヤで信じられたことを超えるものということがイエスの生涯を通してあかされる。
少なくとも王としてのイエスの姿がマタイによって示されていると。
これがメシア、ということ。救い主を示していることでもある。

待望のメシアがお生まれになられた、と。
それがマタイの最初の家系図によっても証をされている。

●ルカ福音書のメッセージ「神は小さな者、虐げられた者、貧しい者、弱い者に、その眼を注がれる」

ルカは少し違った形で記している。ルカには王様たちがイエスを礼拝しに来るとは出ていない。
ルカの2章には―まず印象的なのは、ルカが世界史の出来事としてローマの皇帝アウグストゥスからの勅令
キリニウスが総督であった時の人口調査、ヨセフトマリアが登録をするためにベツレヘムに帰ってきた。そこでマリアに月が満ちて―イエスはで生まれたと記している。
マリアはこの男の子を飼い葉桶に入れる。

ルカのポイントは『世界史との接点』
しかしそのように描きながら、誰の眼にも留まらぬような所イエスはうまれた、と。
居場所のない、泊まるところもない。
これはルカが、「イエスはどのような人であるか」を示すためにとったやり方。
つまり、イエスは勿論神として著される、メシアでもあるが、
それは、「脚光を浴びて生まれたわけでもなく、人の目にもとまらぬような場で生まれた」
つまり神様はそのような場所にイエスをうまれるようにされた。
神は小さな者、虐げられた者、貧しい者、弱い者に、その眼を注がれる、ということ

王としての誕生を記すマタイ、
一方ルカにおいては神の意志の働きを示している。

そのことは羊飼いがやってくるという、という。
マタイは占星術の学者―ルカでは羊飼い
羊飼いはもともとユダヤは遊牧民でしたから、出自をあらわす。
この当時は本当に貧しい者としての意味合い。夜通し起きて、羊の群れを世話する。厳しい労働条件。貧しいものの働きとされていた。ここにも貧しいものに、最初に「喜びの出来事」を告げる。
ルカの視点。神の働きがどこに向かうかということ。

同じベツレヘムで生まれたことを告げているが、伝えるための情報が、違う情報を大事なこととしてあらわしている。

マタイにとっての読者は、ユダヤ人たち。この人たちに、「約束されていた預言」が成就したことを、それが正に起こったことを記録した。
ルカはユダヤ教を知らない人に対して、
「イエスがどのように生まれたか、神の眼差しはどこに向いていたのか、誰に喜びがつたえられるようにしたのか」を伝えようとした。

ここまでが前回の続きです。
それではきょうは「イエスの働き」を。

宣教という形で表しますが。イエスがどのような働きをしたか。
宣教はだいたい30歳の頃に始められた。と言われている。

●イエスの働き―イエスの宣教

実際にはマルコ福音書を。
新約61ページ。
イエスの働きの始まりから福音書を起こしている。
そのはじめには、洗礼者ヨハネについて記されている。
このことは後にまた話します。

イエスの宣教の始まりは、1章の145節。
○ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」といわれた
(これは大事な言葉!!!!)
イエスの宣教の「第一声」といってもよいかもしれません

●神の国が近づいた―イスラエルの復興への期待

福音=喜びのメッセージ、それがどう伝えられた?
神の国が近づいた」という言い方ですね。
神の国とは何か、これが大事なポイントです。
マタイのところで、「王様だ」と話しましたが、
もともと神の国、とはイスラエルのことを指しました。

ユダヤ、といったり、イスラエルといったりするが、
これは国の名前としては同じと思ってください。厳密には時代場所で違いが、同じことです。
そう、ご理解ください。
ついでにいうと、ヘブライという言い方。これもイスラエルの民族、またその言葉を指す。

もともとは「神の国」ということは、イスラエルの国のことを指していた。
だから、神の国が近づいたとは、当時これを聞くと自分たちの国の復興がなされる、という事が期待される。当時はローマ支配下にあった。しかし神の国だという自分たちの自負。そうした約束を自分たちは担っている、と思っているユダヤの民。
ローマの支配下にあることは屈辱的。こんなはずじゃない。
それに対しこの言葉は人々に、イスラエルの復興がもうすぐ実現する、と思わせた

●(復習)サウル―ダビデ―ソロモン―分裂

前回か前々回に、北イスラエル王国、南ユダ王国、
初めはサウル王、紀元前11世紀、最初の王。次いでダビデ王。(少年時代は紅顔の美少年、羊飼い、素敵な人。そして実際に神の愛を受けて、サウルの次の王に。しかしダビデも色んな間違いをした。しかし悔い改めて、大きな栄(さかえ)が与えられる。その次がソロモン。彼はダビデを継ぐもの、このとき一番栄えたといわれている。「ソロモンのさかえ」。しかしこの後、王国が2つに分かれる。
北イスラエル王国、南ユダ王国。北は紀元前8世紀、アッシリア、南はバビロニアに前6世紀に。
それ以来独立の国を持っていない。わけです。
=これは苦難の歴史です。
その間に繰り返し、夢を見たのが、サウル、ダビデ、ソロモンの時代。
そしてダビデのような王が与えられることが望み。これが待望のメシア。メシア待望

●苦難の歴史―復興の期待=平和・正義・公平の実現

自分たちから神様の祝福が世界に広がっていく、と。民の父祖としてのアブラハムが与えられ、
イスラエルをかしらに世界の祝福が約束されている。にもかかわらず苦難の歴史。
いずれメシアがくる。神の国を復興される。と信じ待望してきた、といっていい。
そのことを見てみましょう。

イザヤ書9章、この期待が良く表れている。
5節から読みます。(旧1244
○ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。
その名は「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。

偉大な王が表れ、平和、正義の実現。という約束。
神の国が近づく=イスラエルの復興=平和や正義や公平の実現。
そのことのために新しい=メシアが与えられる

●イスラエル人の罪―神から離れた(まざりあった)―裁きとしての苦難

イスラエルの人は何故独立を失ったか。
預言者が伝えたことは、それは自分たちの罪の問題。
「神から離れてしまったから」
神との約束どおりに生活していればそんな事もなかったのかもしれない。
カナンの場に王国が与えられたが、ユダヤ人が来る前に農耕の民がいました。
彼らは独自の宗教を持っていました。
ヨシュア記や士師記を見ていくと、この農耕民族を次々に滅ぼしてイスラエルはおこった、と。
そういう書き方で、イスラエルが神の国と印象付ける書き方をしている。
しかし実際に神の民が他民族を皆殺しにするとはおこりうるようなことでしょうかか?
現在の考古学的にはもうすこし平和的に入って行ったろうと考えられています。
平和的に、とはつまり、「まざりあう」ということです。
これは律法で固く禁じられていた。許されていない。
しかし現実はそうでは無かった。
そこで起こるのは「背信」です。
農耕民には「バール神」がありました。
そこに半遊牧の民のユダヤ人が入ってくる。
そこでもともとあった文化宗教を内に抱えることになった。
そのようなあり方に、裁きが語られ、厳しい導きを求める形で預言者が語る。
この苦難は裁きの出来事として語られた
だから預言者は人々から嫌われるんです。

●正しい信仰の回復

で、そうした中で、求められたのは「正しい信仰の回復
それをどうしたら自分のものに?課題。うまくいかない。
前回も話しましたが、旧約と新約の間の時期、マカバイ記、独立運動、指導者は信仰深い人、その時に民衆と共に戦ったのがパリサイ派の人。この人たちはいつも民衆の中に入り律法を教え、神の国をもう一度取り戻そう。というありかた。サドカイ派は現実主義、実際の緩やかな自治の権益を守る。神殿を守る。ことを考えていた。
(パリサイ派とサドカイ派の違い)

しかしどちらも自分たちの国をどう守るのか、を。
民族と信仰の守り方の違い。サドカイ派もそのようにしないと滅ぼされてしまうと考えたからそうしていた。
いずれにせよ、まぁ
正しい信仰が失われている現実、をどう回復させるか、を共通に求めていた

●一つ目の約束―神はメシアを与える

神のほうはメシアが与えられることを約束していた。
だからユダヤの人の間にはそれを「待望する」ことが起こった。

●もう一つの約束―新しい約束

もう一つの約束
エレミア書、イザヤは前8世紀。エレミヤはバビロン捕囚の頃だから前6世紀。

エレミヤ書。3131節(旧1431
○見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導きだしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにも関わらす、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」といって教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

この預言、「新しい約束」の預言。
出エジプトの頃から大事にされてきた律法。
紙にかかれたものじゃない、そうじゃなくて心にそれを記す
自分の心にあるのだから良く分かるようになる。だから互いに教えあう必要もなくなるのだ。
それほど神と人が深く結び合うようになるのだ、とエレミヤは預言しました。
王国が失われたようなことは、その罪はもはや問わない。=罪の赦し。
しして「新しい約束」新しい契約。
この契約を結ぶもの、それがイエスなんですね。
新しい約束がイエスによって実現するといわれているから。

●インマヌエル預言

例えばイザヤ書714節。(旧1240
○見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。
災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。

インマヌエル預言
インマヌエル=神がともにいます という意味。
つまり、遠くではなく「ともに」いる。

マタイの福音書、
最初にヨセフに対して男の子が与えられるとの約束。
天使はこういう
マタイ120
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。そのこをイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから目覚めると―

●メシアの預言

これはイザヤ書のメシア預言の成就。エレミヤの新しい契約を結ぶ方ということでもある。
このメシアの預言は他にもあって
例えばそれは、
ダニエル書7
ダニエル書は預言書の中ではちょっと特別。黙示文学を持っている。つまり迫害の時代にそっとその信仰の内容を伝えるために書かれている。ストレートでない箇所がある。ですからこの7章も4頭の獣の幻。意味が分からなければ分からない。とにかく、そこで
7章13節。
○夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のようなものが天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。

人の子=メシア預言の中の一つの特別な者といってよい。
いわゆるダビデのような王様、人間の王が立てられる形とは違う。
つまり天から来るのだ。
天的な存在としての「人の子」
そうしたお方をイスラエルの人はメシアとして待望する。ということもあった。

●イスラエルの復興の預言

エゼキエル書37章
枯れた骨の復活
エゼキエルが神につれてこられると、そこは骨でいっぱい。だった。それが蘇るか。からからのシャレコウベ。
4節
○「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。

これは個人の死の蘇りではなく、イスラエルそのものの蘇る。信仰のかけらも見出すことの出来ない現状=枯れた骨。これがもう一度起こされるのか?蘇るのか?この預言は力強く復興を預言している。
イスラエルの復興の預言

●イスラエル人の望んだ神の国の実現と、イエスの実現する神の国の違い

天的なメシアが与えられて、
ディアスポラの民が集められて一つの大きな国が建てられるのだ、と。
イスラエルの人が直接望んだ神の国の実現はこういうことです。

そうした中で、イエスは「神の国は近づいた」と喜びのメッセージ。
そのことに備えるために「悔い改めよ」と。
しかし、後々はっきり分かるが、
イエスの実現する神の国、とユダヤの民の望んだ神の国には食い違いが起こります

●イエスの実現する神の国―「見えない、しかし人々の間に実現する」―神の支配

例えばルカ1720節 神の国がいつくるか、とパリサイ派の人が尋ねる。
・神の国が来る
○イエスは答えて言われた「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
イエスの実現する神の国、とユダヤの民の望んだ神の国には食い違いが起こる

イエスの考える神の国、「見えない、しかし人々の間に実現する。

「神の国」=ギリシア語では「バシレイア・トゥーセウー」
バシレイア=国と訳されるが、これはもともと「支配」の意。
神の国、と、神の支配の違い
神の支配、神の御心の実現。人々はその中で「平和、正義、公平」を実現するが、それはユダヤ人が思い描いたような「王国」とは違う形で「人々の間に実現をする」と考えて良いと思います。

●イエスの宣教―1.教え 2.御国の福音 3.癒す

どのようにしてそれが実現するのか。
イエスの宣教を少し見ましょう。
マタイ423
・おびただしい病人をいやす
○イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気やわずらいを癒された。

1.教え
2.御国の福音を宣べ伝える(たとえをもって)
3.いやす
(この3点は大事ですからね)

1.教え

教えとは「権威ある教え」マルコ122
イエスは他の律法学者のようにではなく「権威あるもののように」
これはつまり「神の御意志を直接伝える
人々はイエスの語る言葉に出会っていく、動かされていく経験をした。

マタイ5
・山上の説教
律法がどのように教えれらていたかを、踏まえたうえでのイエスの解釈。
神様の御心は何か、を人々の心に届けていく。これがイエスの教えの様子。

2.御国の福音を宣べ伝える

どういうことか。イエスの「たとえ」のところで詳述するが
神の国とはこのようなものだと伝えている。「たとえ」をもって。
それは特定の場所とか統治機構とか言うことではなく、
そこに神がどのように人と結び合うのか、が直接的に語られる
さきほどいったように 「神の国=神の支配」
そのことをある意味で伝えようとしている。これが御国の福音

3.癒し

これは、神の国の福音をあらわす形で、マルコが特に書いているので
マルコを見ましょう。
マルコ2章 63ページ
・中風の人をいやす(屋根をはがして床をつりおろした話。
○数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
「あなたの罪は許される」
「中風の人に『あなたの罪は赦されると言うのと、『起きて、床を担いで歩け』

癒しの出来事が起こるんです。でも考えてください。
癒しを求めて友人たちがわざわざ連れてくる。ぎっしりでは入れない。屋根をはがして入れるんですからそれは大変だ。とにかくそうやってまで直して欲しいと思ってる。
人々の願いは「病気を治して欲しい」
しかしそれに対してイエスはなにをいったか
「あなたの罪は赦される」と言ったんです。

●癒しより大切な「罪の赦し」=神との関係正常化

この癒しに勝って大事に考えられているのが「罪の赦し」でないかと。
どっちが易しいのかの話。
罪の赦しのほうが、癒し、よりも難しいのだ。と

癒しは確かに奇跡なんです。そうなんですが、
この癒しは病気が治ることもそうだが、大事のなのは「罪の赦し」
これは悪いことをしたかどうかではなくて
「神様との関係がどうか」ということ。
神との関係が間違っている、絶たれている=罪
それが正しく繋がる=赦し

当時のイスラエルの中では
重い病気、それは皮膚の病、体の不自由、色んな障害、
それらは単に病気ではなく、罪の故、裁きだと考えられていた。だから病気の人を見ると罪を犯したからだと理解されていた。その人でなくても、親の因果、などがあったからと。
そういう当時の宗教のあり方。その病気を癒すということ、これは勿論大事なことですが、
神との関係がもう一度与えられること、に意味があると。
そしてイエスはそれを確かに実現された。
しかし本当のところは病気が治るか否かに関わらず。

そのことは聖書の色んな場所で見ることが出来ますが―
ルカ17
神の国は一来るのか、その直前にらい病の10人が癒される

1711
・重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
イエスはエルサレムに上る途中
サマリア人
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」

●新しい神との関係=新しい生き方に変えられていくこと。これがイエスの宣教の御業

救いの出来事、神との新たな関係の確認。救いの宣言を聞く。
それこそが病気の癒し以上に大切ということをこの箇所は伝えている。
多くの癒しの出来事、その中で癒されたものが感謝をし、或いは讃美し、イエスに従う、或いは帰っていく。神のことを喜びつたえる。
そうした、神との関係が正しくされて喜び、感謝をし―
そうしたこと全部がじつは「奇跡」なのだと言っていいと思います。
新しい神様との関係
新しい生き方に変えられていくこと。それがイエスの宣教の御業だ。癒しとはそういうこと。

それはイエスの存在そのものによって起こされていく
ルカ416107ページ
○イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしておたちになった

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために
主がわたしに油を注がれたからである。
主が私を遣わされたのは
囚われている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ―

「あなた方が耳にしたきょうここで実現した」
イエスがそこにおられること、あるいはその言葉。
そこに、神様の約束されていた事柄、それは神さまと人々との新しい結びつき
それによって正義・平和・公平の実現、病の癒しがおこる。神に新しい生き方を与えられる。
それがイエスの御言葉で実現するということが記されている。
その言葉によって変えられた人は沢山ある。

どんな風にイエスの言葉が力をもち、人を変えたのか、
ということについては更に続きにゆだねましょう。もう時間が来てしまいました。

最後にひとつだけ―、まぁ今日はいいかな。
ここまでにしましょう。

来週は22日。
イエスによって変えられた人としての弟子、ペトロ、のお話をしたいと思います。


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