2011年12月6日火曜日

近世史との対話-9 万能人/ルネサンスにおける世界観


4 江川 151教室

レジュメ:世界と人間の発見~ルネサンスにおける人間像と世界観の転換~

(復習)
ルネサンス人、論理的な探求と言うよりも、真実を見極めるために対象の観察と描写
その例として、自伝(カルダーノ)と肖像画、自画像
これはルネサンス期に本格的に出てくるスタイル。
カルダーの自伝にはよくでていたが「ありのままの自分をとらえる-真理への愛」
そういった指向がルネサンス人にはあった

今日はルネサンス人の典型的なタイプを、
その人たちがなにを求めていたのか、世界観の話にいきたいと。

1‐(2)万能人~独創性を持った個人としてのルネサンス的人間観~

a)万能人とは何か

万能人(ウォーモ・ウニヴェルザーレ=(直訳的には)普遍的な人間)
このような表現をしたのは、やはりブルクハルト
彼がこの語でなにを表しているかというと、
「最もルネサンス的に完成されている人間の類型(タイプ)」

どういう人が万能人なのか。
先週紹介したカルダーノ、この人はそうです。
どうしてか。
カルダーノのキャッチコピー「百科全書的奇人」
いろんなことをやっていますでしょ。
でもそれだけでは多彩な趣味ということにしかならない。そうではない。
いろいろな分野に精通していて、各分野において洗練された業績を残している。
かつ、いろいろな分野に関わっているということが、一体化、統合されている人物。

ブルクハルトによると
あらゆる領域で新しく、且つ完成されたものを創造し、
その上なお、人間としてもこの上なく偉大な印象を与えるような人

ルネサンス期に活躍した人をよく見てみると、ひとつのことだけやっている訳ではないという特徴
それは、今でもそういう人いますよね、
しかし現代では、いろんなことが専門化、細分化されているという感じがしませんか。

b)ルネサンス最大の万能人レオナルド・ダ・ヴィンチ

参考:『ルネサンスと地中海』P68 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」天才の蒼ざめた肌
(トスカーナのヴィンチ村に、父の館で庶子として生まれる。14歳で村を出て生涯戻らず。
 死ぬまで独身、女性の影はほとんどなし、少年愛、壮年期までは社交的
 対話者をはねつける。自分だけの備忘録(左右反転の鏡文字)、真理の究明への歓び
 絵画「モナリザ」「最後の晩餐」彫刻「騎馬像」音楽-リュート演奏
 科学者-自然と人間の観察記録、地質学、人体解剖学、飛行機の試作)
 
トスカーナ、デカメロンの話でも出ましたが、フィレンツェ郊外にあります。

まずもって画家として有名ですよね。しかし彫刻も、建築も、また音楽も。
3限でもルターがリュートって話が出たな。

芸術的な才能に恵まれていた、と。
その一方で、科学者でもある。実際に制作を行う技術者でもある。
この前都市国家の話をしましたが、ミラノはスフォルツァ家が支配権を握っていましたが
レオナルドはこのスフォルツァの軍事技術者として大砲や武器の設計を行っていた。
ですから、まずイタリアの主要都市を遍歴しながら活躍していた、と。

この人、晩年はイタリアでは迎えていませんね。
ルネサンスをイタリア以外に広げるきっかけをレオナルドは伝えていきました。
フランソワ1世に招かれフランスに亡くなるまで滞在していました。
フランスというと、文化的には
(ミシュレーが書いていましたね)中世のゴシックの宝庫のようなところがある
そこに、彼はフランスのルネサンスが花開くきっかけをもたらした。

彼自身は名声にどこまで執着したいたかはわかりませんが、当時から有名な人でした。

・真理の探求・究明に喜びを見出す

この万能人の項でお伝えしたいのは、
「彼らが何でそんなにいろんなことをやろうとしたか」ということ
彼らが求めていたものは何か、が今日のテーマです。

私たちの感覚ですと、レオナルドの高い芸術性、高度な科学性を持っている。
皆さんどうでしょうか、芸術と科学はマッチするでしょうか?
*右脳と左脳っぽいな

彼の活動の中ではこのような分野というものは分けられていない。
そうした活動においては何が求められていたのか。

カルダーノが言っていましたね「自伝を書くことは真理への愛だ」と。
今回の参考書の中にも「真理の究明だけに歓びを」とありますね。

共通して出てくる「真理の探究
万能人のさまざまな活動の一体性というのは、
全ては真理の探究のためということ。

その真理の探究とはどういうことか。
これは、違う言葉で言うと
「世界や人間をなるべく正確にとらえよう」ということじゃないか、と。
ここが今日からの問題になるところですが。
これは、近代的な意味では自然科学的にどうこう、
文学でも自然主義的なありのままの姿、とか。
ここでいわれているのはそういうことか?
どうも違うようだ、と。
何か近代とは違うものが求められている。
彼らはなにを求めていたのか

2.ルネサンスにおける世界観:「自然」の捉え方にみるルネサンスの世界観

ここでは自然をキーワードに考えてみたいと思います。

1)視覚芸術における「自然」の捉え方

絵画や彫刻など目で見ることのできる芸術-視覚芸術
ルネサンスと言えばこれという感じですよね。ルネサンスをよくあらわしているもの。
ここで捉えられていうのは何か。

ルネサンス、人間の発見、世界の発見と言われますが
自然の発見」という風にもいわれます。
これは人間は外界のありのままの姿をとらえよう、ということ。
視覚芸術でこれをやろうとすると?
ここにかいてあるように写実性

1-a) 徹底した写実性(「自然の模倣」)

自然をなるべく正確に模倣する。
あるがままに忠実に映し出す。人間や風景、動植物など
ルネサンスの肖像画、自画像を先週プリントでお配りしましたね。
「人間らしいな」という印象。とても生き生きとした人間らしさ。写実的。
ヴァザーリも「写実性」ということを評価していますね。
「本物と見間違うほどの写実性」と。
彼によるとブラマンティーノの鳥の絵、
あまりにも生き生きとしていたので、馬が鳥を蹴飛ばそうとしたというような逸話。
また、「本物以上の本物らしさ」とも。
同時代のルネサンス人においても、視覚芸術への評価があった。

写実性ということでいうと、近現代においても一つの手法としてある訳ですが
ルネサンス人にとっての写実性とはいかなるものだったか。
ここはちがうんじゃないですか、という話なのですが。

自然、人や人をとりまく外界のありのままの姿、
その自然を捉えようとしている。
ここで意識されている「自然」とはどのようなものか。

今でもルネサンス芸術のファンというのは多くいるわけですが、
どのように見られているのか。
近代のリアリズム-醜さからなにから捉えていくということもある訳ですが
この時代の芸術をみて見る方はなにをかんじているんでしょうね。
(ちょっとカルダーノはおいておいて)
生き生きとした、ということまた、美しいということを思うのではないでしょうか。
ルネサンス人によって描かれている人間、ダビデ像などを見ても調和が取れている。
美しくて理想的、というところがあるのではないでしょうか。
そこに見るものがひきつけられると。

ということになると-
「あるがままの自然」ということから話をはじめましたが
「あるべき自然」(あるであろう、あるはずだという自然)ということになるのではないでしょうか。
これは近代的な意味の「あるがまま」ということとは違うのではないか。

よく「美人」というのはどうして美人だと思うか、という話がありましたが、
TVで見たのですが―)
美のポイントはなんだと思います(時代によって基準はまぁ異なるのですが)
そこでいわれていたのは、パーツがどうこうではなく、バランスということでしたね。

1-b) 「あるべき自然」の探求

(で、話は戻って)
ルネサンス人にとっての美ということですが、
あるべき自然ということをあらわす場合に彼らが見ようとしたものは
美的な問題に留まらない。
ここには、ルネサンス人が持っていた、当時のある世界観が深く関わっている。
自然、美しくて調和的な世界が描く中で、真実の世界を見ようとしたんじゃないか。
そこに彼らの独特の世界観があったんじゃないか、と。

それが、次の項目で出てくる
以前にもゲミストゥスの講義、コジモ・デ・メディチの学校の話で触れましたが-

2)新プラトン主義・ヘルメス的世界観

この二つには共通したところがあって、そこに注意しながら聞いていただきたいのですが

2-a) ルネサンスにおける新プラトン主義の復興とヘルメス思想の流行

新プラトン主義がルネサンスで復興され大流行する。(プラトン・ブーム)
この拠点がコジモのつくったプラトン学院。文献が集められ研究される。

ここで、新プラトン主義について簡単に(私は哲学が専門ではないのですが)ご説明すると
これは古代ギリシアのプラトン哲学の新たな解釈ですよね。
新プラトン主義を打ち出したのはプロティノス(204-270です。
 
プロティノスはローマでプラトンの哲学の新解釈を教授していたのですが
プラトンがもちろんベースになっていたのですが、
プラトンのイデア論というものがありましたね。
物事には本質の世界があって、私たちが接しているのはその影だ、と
簡単にいうとこういうことですよね。
個々の目に見える事物は「イデアの影」であって不完全な模倣

■■【復習】110509 教養としての哲学■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■イデア=真実在、本質、永遠不変の真理(理性で捉えられる)
:語源idein(見る)→ideinの派生語eidos(エイドス:姿・形)=存在と認識の根拠
:idea(見られたもの)感覚ではなくて理性によって見られたもの、それがイデアです
それが真理や真実在と。あるいは物事の本質。愛とは何か?愛とは○○だという、ものの本質ですね。

→存在者に形を与えるもの、認識の成立根拠、徳の本質(ソクラテス)
・さまざまなものが様々な形をとっているが、一体何がこのようなものに形を与えているんだろうか。
世界は最初混沌だったわけですよね。海が出来、山が出来するが、その海に形を与えたもの、
また、それを海だと山だと知ることが出来る根拠をイデアとプラトンは考えた。
またソクラテスの弟子ですので、アレテー、倫理の中心に来るものをイデアとして考えました。
存在、認識、倫理の究極の姿

例えば美しい花に、美しさをあたえ、また見るものに美しいと思わしめる根拠、それがいわばイデアです。
理性によって捉えられる、とは
例えば完璧な4回転ジャンプ、恐らくどの選手もその完璧をイメージすることは出来るだろうが、実際には難しい。しかし理性によって捉えられている4回転の完璧な姿はある。そういったものがプラトンのいうイデアにあたるものです。

○三角形のイデア
フリーハンドの三角形も三角形のイデアを「分有」していて-

■善のイデア(イデアのイデア)=多数のイデアを統一している最高のイデア
・善さそのもの、これをイデアのイデアとして考えます。
三角形、ボールペン、勇気のイデア、共通しているものは何か、
「完全さ」「完璧さ」(実際の世界には存在しなくとも)、
イデアといった時の共通点が完全さ。だから善のイデア、それが最高なもの。
そしてすべてのものはその善のイデアを目指す、と。何かわたし達のものは完璧なものを目指すと。
しかしそれはあくまで「X」として隠されている。
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では、新プラトン主義においてはどうなのか。
宇宙・世界の始原である「一者
一者の光が流出するところから、世界が生まれてくる
この世界には3つの段階がある。
①精神界 これがプラトンでいえば本質の世界。イデアの世界 
②霊魂界 まだ、ここには人間、私たちの感覚で捉えられるものはないです。 
③物質界 模倣するかたちで生まれてくる世界。ここが人間の感知できる世界。

こういうことになります。
ですから3つの段階、これは精神界が上位ということになります。
ということになると
物質界というのは「不完全だ」ということになります。
(模倣されたものを受け取っている世界だから)

しかしながら、不完全ではあるが、一者の光の流出から出てきているわけですよね
一者とのかかわりが全く無いということではない。かかわりはある。
故に、本質的な世界の神的な美を映し出す。
で、この流れが還流するということがあるわけですが、とりあえずそれは置いておいて

ここで言われていることのポイントは、
世界というのは、上位の世界~下位の世界、がある。
これは独立しつつも関係しあっている。
ですから、つながっている、バラバラではない、ということ。
つまり円環的

もう一点のポイントは、上位の世界と下位の世界は
照応している
互いに通じ合って、不完全ながらも、秩序的にと言うのか、同じものを持っている。

2-b) マクロコスモスとミクロコスモスの照応

上位世界と下位世界が照応しているというのは、言い替えてみると、
マクロコスモスとミクロコスモスが照応しているということ
巨視的と微視的
これは古代からよく哲学用語で使われるのですが
マクロコスモスとしての上位の世界
ミクロコスモスとしての下位の世界

ミクロコスモスが人間界、マクロコスモスが天上界
本質的なところが受けつがれている、ということがある。

分かります?
そうしますと-
ミクロコスモスは、人間や人間をとりまく外界ということですよね
マクロコスモスが、天上界として

「あるべき姿」を描き出すというのは、ミクロコスモスがマクロコスモスを映し出しているから。
イデアの影を通してイデアを想起
ミクロコスモスを通して、マクロコスモスの秩序がわかるんじゃないかということです。
えーー、ね。

(タクシーの運転手さんから聞いた宇宙の話)
どういう思想的なバックグラウンドかは分からないんですが
「宇宙は人のかたちをしています」というのですが、
色んな臓器が天体だと。
人間の身体的な成り立ちと宇宙の成り立ちは同じだ、と
(まぁ信憑性はおいておいてね)
で、地球の大変さはガンなんだ、と。

でね、このマクロコスモスとミクロコスモスの話なんですよね、
この運転手さんが言っていたのは。

(続きは次回)



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