2010年7月6日火曜日

神学通論-13 復習/宗教改革期の神学/グノーシス

(目次)
○レポートについての復習
1.「神学」の4分野
2.神学と宗教学の違い
3.オリゲネス「諸原理について」序文

○宗教改革期におこる神学の対象の変化
○グノーシス
 

1.「神学」の4分野


前提として
「神学」という言葉の持つ多義性をよく認識していることが大切だ。
広い意味での神学は伝統的に4つの分野に分かれていた。

①聖書神学

②歴史神学

③組織神学

④実践神学


○聖書神学

・聖書神学=日本では「聖書学」という呼び方が平行して使われている。
これは、聖書そのものの研究。
古代の文献としての、「聖書そのもの」の研究とその内容はかなり重なる。
本文の確定やなにやら。
アリストテレスやプラトンの本文研究とやってることはほぼ同じ。
 
日本での聖書神学=聖書学、実際は同じものなのに…?
神学校では聖書神学、国立大学では「神」を入れること出来ないので聖書学
国立大学では京大だけが例外的に「キリスト教学科」と

新約聖書神学であれば、新約に見られる特徴的な思想、ものの見方を抽出して研究する。
例えば、組織神学で言われているような「神学そのもの」が聖書の中にあるわけではない
旧約で言うと、オリエントの民族の中で、「契約」という観念がある。
神と、民が、契約を結ぶ。「約束」を取り交わす。
詩篇を見ると、契約更新をする。再確認する、という。詩篇に反映されている。
というようなことを旧約聖書神学でやる。

○実践神学

牧会カウンセリングや―
教会の人たちの魂のケア。
実際には通常のカウンセリングと技術的には相当部分重なる。目的や意図は異なるが。
説教学、説教の構成。

・宣教学
これまでの欧米の伝統的な神学では余り成されてこなかった。
近現代で本格的に取り組まれるようになった。
中世欧州では名目的には皆キリスト教徒だったわけで。
そうすると、宣教学は人々の間に教会の福音を浸透させるか、というもの
マーケットリサーチと相当重なる部分あるわけです。
・人が居るところでやる。
・どんな人(社会階層、人種、文化)
教会のおかれた状況で最も効果的な働きかけはなにか?ということ。

繰り返しになるが、
伝統的な神学とは神についての体系的包括的学問的な研究。

○歴史神学 

これは教会の歴史、教会のの制度の歴史。信仰の歴史。分野は広い。
「良いサマリア人のたとえ」、その歴史を跡付けるとか。
奴隷制に対してキリスト教はどう取り組んだか、とか

歴史神学で、出てくる初代教会という言葉。5世紀までの教会を指す。

歴史神学で言う、十二使徒の教会は「原始教会
early churchを初代教会と訳したツケが―
こういう紛らわしい言葉遣いが沢山ある

○組織神学

教義学(教会の信仰の系統的体系的考察)と
倫理学(考察されたキリスト教信仰をどう人間の生活に生かすか。)
に大きく二つ分けられる。

組織神学とは、キリスト教信仰を学問的な一貫性をもって体系的、包括的に記述しようとするもの


組織神学=狭義の意味での、本来の意味での「神学」

systematic theologyの訳語
具体的には教義学というタイトルで書かれているものが組織神学の著作。
それと、一体のものですが、キリスト教倫理も組織神学の分野に入ります。
教理(教会の公の信仰)と倫理といってもよいですが、本来的には一体のものです。

教義学があつかっているもの
教義、ところがどういう訳か dogmatics
・教義学
教義学で扱うのは教理だから本来「教理学」のほうが実際に即しているが、
教会の信仰を体系的包括的に取り扱う分野を教義学という習慣になっている。

教義と教理の違い

教会の公式の教え=教理
その中でもとくに重要な意味を持っている
・三位一体論
・キリスト論
この2つをとくにさして特に「教義」と呼ぶ 
という使い分けがだんだん定着してきた。
ドイツでの用法は曖昧。
こうした言葉遣いについて混乱しないようにしておく必要がある。
多くの場合こうした基礎的な言葉は、説明なしにいきなり出てくるから。

2.神学と宗教学の違い

最初に、神学、を神学そのものが、どういう意図を持っているかを認識するために、
よく似た学問分野との比較が有効だ。

よく似た「宗教学」(「宗教哲学」も)
これらは既に確立した学問分野。どこの国でも行われる重要な分野。

宗教学との神学との違い。
宗教学は広い意味での社会学の一分野。
社会学は人間社会を色んな側面から観察して、
その社会現象をまぁ学問的にとらえようとする分野=社会学
この学的探求の対象が、社会。

まぁ変わった分野で動物社会学など派生的に論ずることはあるが。
中心は人間が建設した社会。
しかし大変広いから、社会と言うブランチはその下に広い沢山の分野を抱えている。
そうした、政治学、社会学の一分野だが、観察する分野が政治だと。
政治学の専門家が政治家になるとは限らず、政治家が政治学を知らぬこともある。
政治を科学的にとらえようという学問。

宗教学、宗教を社会学的な方法、手法で観察しようと言う分野。
宗教、という漠然としたものは無く、実際には個々の宗教がある。
宗教学も踏み込めば、個別の宗教をあつかったり。

比較宗教学として、例えば、イスラム教とキリスト教を観察し、
その二つの宗教形態を比較考察するという手法。
宗教学と言うのは一般的に言えば、宗教と言う現象を科学的に考察する分野。

宗教学においてキリスト教が対象になると、
その研究対象は神学が対象としているものと同じ。
しかし神学と宗教学はまったく違う学問分野。

宗教学は、宗教学としてのキリスト教の考察はあくまで一つの社会現象の一つとして。
一つの人間の社会で成立する現象の一端としてのキリスト教に注目するわけですから!
宗教学者が宗教的な人間であるかは何も関係が無い。彼に要求されるのは客観的に、
まぁ、偏見なく、学問的な手続きに従ってきちっと考察できるか、という一点に関わってくる。敬虔か否か、宗教を鼻から信じているかどうかは関係が無い。どっかの宗教にのめりこんでいないほうが良い。あまり、特定の宗教にのめりこんでいると、彼の語っていることに客観的な疑義が生ずる可能性が。

宗教学は一つの社会現象として宗教をとらえる。
=価値観問われない。価値観は棚上げ。客観的に考察しようと言うのが宗教学。
多くの場合比較宗教学へと拡張され。
キリスト教の理解のために、イスラム教徒比較すると特徴が良く浮かび上がるという事はまぁありえるわけで。類似した現象と比較することでよく分かる。

キリスト・ユダヤ・イスラム
これは共通して旧約聖書を何らかの形で重要視している。
コーランを読まれたことありますか?
だいぶ前に岩波から三巻本で。
旧約でおなじみの人物が沢山。
一番良く出てくるのはアブラハムで
マリア、イエスも預言者として出てくる。
ムハンマドがその預言者の系列に連なる。(最終的な権威として。)
そうしたところで比較すると各宗教の特徴が浮かび上がるという事がある。

繰り返しになるが一つの人間が作り出した、社会的現象としての個々の宗教を客観的に考察しようという 学問分野ですから。だから価値観を持ち込むことはしない。比較宗教学にしても、どれが一番よいのか、などということはやらないのです。

・宗教哲学
これは哲学の分野であります。
こうなると、第一義的対象が個々の現象ではなく、
様々な現象の中に見えてくる、「本質」に、注目する。
例えば、宗教学が、様々な宗教を観察することで、一定の結論が出る。
その結論をながめ、宗教の本質とは、そもそも信仰とはなにか?
ということを考察していく。

まさしく宗教哲学は哲学そのものであります。
この場合、宗教哲学は、宗教学の成果を前提にしている。
宗教学の無いところには宗教哲学はありえない。
なぜなら、
伝統的にアリストテレスの学問体系
アリストテレスの「自然学」
自然観察に基づいた、この世界にある、あらゆる営みを考察しよう。
アリストテレスの関心は大変広く、
アレクサンドロス大王の家庭教師だったこともあり、
各地の特徴的な植物をアリストテレスに送っていたなどと言う逸話もあり、
アリストテレスの著作としても「自然学」がある

この自然学、の後に置かれた学問「形而上学metaphyisics」=哲学
自然学で蓄積されたデータをもとに、事柄の本質を見ていこうとする。
たまたま自然学も形而上学もアリストテレスの 全著作が日本語訳されています。
(偽作とされているものも含めて)簡単に手に入れるには岩波文庫で個別のタイトルが―。

自然学で得られたデータをもとに、事柄の本質をとらえる。
自然学の後で=メタフィジカ=形而上学
現にあるものとして考察するのではなく、
そのデータの中に、貫かれている事柄の本質とは何か?をやる。


例えば美しい自然。美しい花、美しい音楽。
これは観察の結果、ですね。
そうすると、自然学区、宗教学も同じだが、
観察された結果をを情報化して蓄積する。
「美そのもの」はなにか?

信仰者であることに共通するもの、
信ずるとはなにか?
宗教哲学の分野に入ってくる。
そうすると「信の構造」というようなタイトルの著作がありますと
これは宗教哲学の著作という事がわかりますね?

具体的な情報を客観的なデータを
物理学と哲学の関係と同じ。

・神学とは
神学はそうした社会現象としてのキリスト教に関心を持つのではなく、
第一義的には、自分の信仰の反省、教会の信仰の自己吟味。
ですから、宗教学が比喩的に言えば、
外からキリスト教を客観的に考察しようとするのに対し、
神学は正しく信仰の「只中で」信仰を見ようとする。
 
宗教学、宗教哲学は信仰は場合によっては邪魔になる。
神学は信仰者としての営み。教会の信仰の批判的考察、自己吟味。
自分たちの信仰が独りよがりにならないように
聖書の啓示に忠実な態度をとっているか?そうしたところまでたどり着く、
自己吟味としての学問。

しかし「学」という言葉が使われているのは
何よりも、学問的規範にかなうものでないと、
学問的批判に耐えうるものでないとならない、と言う前提。
宗教学や宗教哲学は冷静な外からの観察
神学は宗教者としての信仰の、教会の信仰の自己吟味、
あるいは客観的に自己吟味しようとしていたところに成立した学問だ。
 
えー、どちらもしかし、
とっつく場所は、教会であり、教会の信仰、であるという事はとりあえず同じ。
神といっても我々の通常の認識を超えたものだから、
それを論ずることは出来ないから、
その神を信じてきた教会がどのような信仰を受け継いできたか、
どこの根拠があるか、そうした教会の信仰を手がかりにして、神について考察する。
ある意味では観察的な行為といっていい。
教会の信仰を手がかりに吟味していくのが神学だから。

社会学=宗教学は、観察している特定の宗教の真理性は棚上げするのです。
それは一旦置いて、彼らが何を信じているかを観察する。それが良い悪いはない。

しかし神学は教会の信仰の自己吟味なので、そこでは、神の啓示、つまりは聖書が、関わっていることが、正しく受け継がれているか、踏み込んだ発言をすることになる。自己吟味とはそういうこと。

ですから神学通論として、入門として、宗教学と神学の簡単な違いは
あくまで外側から観察する宗教学
教会の自己批判、批判的自己吟味として成立してきた神学。
言ってみれば信仰が前提になっている神学。

むろんですね。
時に、神学、例えば聖書学、歴史神学の分野で
信仰を持たない人が研究することあるのですが、
あまり楽しいこと無いだろうとわたしなどは思うのですが、
まぁあのー、
ここ「組織神学」になってくると、信仰なしに踏み込むのは難しくなるでしょう

歴史神学は「歴史」ですから宗教学と接するところもあるでしょう。
歴史家として優れていることが第一義的に必要。
(日本の)聖書神学、聖書学は、
「信仰をもちこまない」とガードをはっているものですからー
すこしそのガードがきつすぎる気もしますが。
聖書の個々の文書は何を言おうとしているか?
それは信仰にかかわってきますから、それ抜きにどこまで真に迫れるかは疑問です

と、言うようなところがまず最初にきちっと抑えておくべきところです。

先生黒板を消す

で、宗教学も宗教哲学も、学問分野としては新しいもの。社会学も新しい分野ですから。
社会学の研究が進んでいく中で、宗教に的を絞ったのが宗教学で、
それと比べると神学の成立はだいぶ早いのです、
起源2世紀、この時代に神学が教会の中で成立してくるのです。

弁証家、とよばれる一群の教徒たちが2世紀に起こってくる。
彼らは2重の課題を負っていた。

①対外的
②対内的

①地中海世界に教会が広がった時、教会は小さな存在。しかし既存のローマ帝国と軋轢が。ある場合には迫害、ある場合には住民の袋叩き。
そうした時に、外側に向かって、一体教会は何を信じているのか、教会の信仰とは何かを説明すると言う意図が生まれてくる。その役を果たした人を弁証家と
教会の立場の説明が必要になる。

②教会の中では、信仰の一致を保つと。

そういう課題を担って生きたひとが、
結果的に神学と呼んでよい独自な営みを形成していった。
4,5世紀と進むと、非常に優れた神学者たちが現れ、教会の神学が、非常に優れたものになっていった。当初は地中海世界はギリシャ文化圏だったのでギリシャ語を使った教徒たちの働きが圧倒的に多かったわけですが(新約は全てギリシャ語に見られるように)やがて、ラテン語を使う教父たちもあらわれ、ギリシャでもラテンでも教会の神学が整えられていった。

初代教会は5世紀までというのは、
今日キリスト教徒呼ぶときに我々がイメージする姿が、
この4,5世紀に最終的に固まったと。

第1-4回までの公会議によって教会の信仰の中心的なものが共有されるように、教会も整えられ、安定性を獲得し、地中海世界での市民権を、存在理由も獲得し、地中海世界の各地にたくさん教会が存在するようになる。違った背景をもちつつ尚教会が一体とはどういうことか?

そういう中で神学がうまれ、それが優れた段階まで達したのが4,5世紀のこと。
だいたい大筋で、神学の内容が大筋で決まったのが5世紀くらいのこと
なので歴史神学では5世紀を一区切りとし、初代教会と読んでいた。

今日我々が、キリスト教信仰を包括的体系的に纏め上げていく中で見えてくる、キリスト教信仰の姿は、4,5世紀の神学者の成果に乗っかっているような。

3.オリゲネス「諸原理について」序文

オリゲネスは3世紀最大の神学者。
今日組織神学というところの、そもそもの出発点。
キリスト教の歴史で、本格的に組織神学と呼べる、包括的な初めての神学的営み
しかし553年コンスタンティノポリスで異端宣告

残されている大部分はラテン語の翻訳
この「諸原理について」
目次を見れば分かるように、キリスト教神学の総体を体系的に提示しようと言う試み
それ以降の組織神学の書物は、教義学は、
だいたいまずオリゲネスの様式に従っていると言って良い。

○宗教改革期における神学の対象の変化。神→人間

4,5世紀にまとめられた神学体系は、神の側に傾斜したものだった。
教会が信じている神様はどういう方か?ということに構成の中心があった。
宗教改革時にこの構成が大きくぶれた。
教会の信仰の対象であるということよりも、それを信ずる人間に大きく関心が向いた。

それまでは神はどういうかたか?に神学の関心が大きく傾斜していた。
それがずっと続いてきたが、
宗教改革時に、関心が逆方向に、そのような神を信じている私自身とは何か。

ルターの「霊的危機」に大きく影響を受けているのですが。

神様については分かった、しかしこのわたしが救われるとはどういうことか
救われると言う確信はどこにあるのか、そもそもわたしは救われるのか。
関心は、救済されるべきわたしへと大きく振り子は揺れた。
それ以来、神学の構造に変化がおきた、といってよい。

神学そのものの、構造に変化が起こるようになった。
信仰二元論?
伝統的神学は神の側に、宗教改革は逆、人間の方に関心が傾斜。
わたしはどうしたら救われるか=神学の出発点に。
伝統的にはわたしを救ってくれる神様はどういうひと?
世界の救い主である神様はどういうひと?

宗教改革では
その神はわたしをどういう風に救ってくれるか?に傾斜。
これは相互に関連していることであるから、いつの時代でも、一方だけではないが。

どこが切り口になっているか、どこにピントがあっているか、
ということの合わせ方のズレというようなこと。
宗教改革時から神学の構造が少し変わってきた。
今日の神学はそうした、宗教改革での出来事を受けて、
つまりまぁ宗教改革で神学の構造に変化が起きたことを前提にして、
神学の営みが行われている。

神学は神と人とのかかわりを問題にしているわけで、
人間も、生身の人間が問題だ。
そしてこの生身の人間は時代状況によって、移り変わり行くもの。

神学的考察とは、例えばニュートンの万有引力の法則のように、未来永劫このままという訳ではない。生身の人間が変わっていけば、それを扱う神学もまた変わっていく
だから、繰り返し新たな再考察が必要な学問。
だからこれから人間のいる限り延々と続くのです。

自然科学の分野の1+1=というのは、ずっとそのままでよいのだが、
変わりいく人間にたいして説得力のあるものであり続けるには、神学の作業は―
繰り返し試みられなければならない分野。

歴史神学、聖書神学もそう。
例えばWW2のときの重大な発見。
死海文書(ベドウィンの少年が発見した)
ある分派が作り上げた文書。
とくにイザヤ書の古い写本があって、センセーション

もうひとつ、エジプトの○○(聞きそびれた)
コプト語でかかれた、ギリシャ文字を使って標記されたエジプト語。
グノーシスと呼ばれるグループの研究がその文書で進んで、
例えばその中に、実は日本語訳があるが、
講談社学術文庫から、トマス福音書というものが、
トマスという男が書いた福音書が、
いまの聖書の4福音書と比べると、
丁寧に読むと、何故そのトマス福音書が正典聖書から排除されたかが、
そのほかにも実はペテロ福音書やらなんやら数多くある。
そうした文書群を読むと、
教会はなぜこの4福音書を正典にしたか、他を排除したかよく分かる。
違うのです、これは。

グノーシスという運動

新約にも明らかにグノーシス的な運動が出てくる。
キリスト教に出現するグノーシス主義
キリスト教的グノーシス。

つまり、グノーシスというこれは「知恵」(辞書:認識)という意味。
具体的には神から、秘密の知識を与えられたものだけが救われることが出来る。
入会儀礼をするのだが、彼らから言わせると教会で語っていること、公然と語られていることは皆ウソなんです。
キリスト教的グノーシスの影響はヨハネにもパウロにもある。

A.グノーシス的キリスト教
B.キリスト教的グノーシス

グノーシスの神話は天からおりてきた救済者、救ってまた天に戻る。
ヨハネ福音書でもロゴスが到来し、帰還するという構造は同じ。

ですからパウロにもヨハネにもグノーシス的言葉遣いあるわけですが。
決定的な違いは、グノーシスは形あるものを信じていない。
霊的世界が全て、形あるものは、やがて滅びる、から。

ヨハネ福音書の場合、ヨハネの言葉遣いの場合、グノーシス的な言葉遣い、
まさにイエスが人間だと強調される、
復活の場面で魚を食うんです。

決定的なところで、イエスの肉体的側面が強調され現れてくる。
あれ、わざわざ魚を食うんですよね。
「このまま行ったらグノーシス」というまさにそのところでグノーシスをたたくんです。

こういった、判定を2,3,4世紀に教会は、
この判定基準が、オリゲネスの言い方をすれば、
「使徒たちから伝えられた、教会の信仰」ということ。これが判定基準。

そう、で*話がレポートに戻って

具体的に言うと、4,5世紀の神学者が持っていたセンス。
微妙な違いをかぎ分ける能力、それが非常に優れていたから、
4,5世紀、新約の文言最終確定(ヨハネ黙示録などやや流動的だった。)
たぶんまぁこの、どんな分野も大事だが
歴史神学(わたしがやってるから言うわけではないが)
使徒たちから受け継がれた信仰がどうなってったかを検証するプロセス

具体的にそれはどういうことか
それは序文に書かれている。
ほぼ半ページにわたって書かれているが、
それが教会に受け継がれている、重要な信仰、これが判定基準、
これがさらに凝縮されたのが「信条」代表的なものは使徒信条(ローマの教会で成立)
各地の教会で成立。

ほぼ間違いなく入るのが「父、子、聖霊」について
子―イエスの受難、死、復活
結局ここです。これがその後の教会の歩みの中で、
識別しなければならないことがあらわれているのがこの「子」のところ
とりわけ、受難、死、復活の部分が教会の信仰の要ですね。

そしてですね、教会が神学を形成するプロセスとして、

イエスが、生まれたという事、
苦難を受けた、
十字架で死んだ、
埋葬された、
復活した、

ここが明確に打ち出されていなかったり、曖昧だったり、否定するものは
教会は排除していった。
当時様々におこった、異端、
異なった考え方は総じて、イエスの誕生、受難、死、復活、と関わりがあったのです
何らかの形で曖昧にしたり、否定したりした。教会はとりわけそこにこだわりを。

ヘレニズム世界に蔓延していたのは、物質的なものに対する軽視、蔑視
それに対して教会は、形あるものとは、神がよく造ってくれた被造物、
この「神の良き被造物」という線を重んじた。これは相当強い姿勢で。

いずれにしても当時哲学をしていた人は
伝統的にギリシャ哲学の形成者は、肉体労働しない人でしたから、
奴隷がいて、考え事をしていればいい、
総じて「物」を軽視した。そうした伝統があった

教会はかたくなに「形あるもの」は「神が造ったかたちあるもの」
「身体の復活」という言い方もそう。
もともとの言い方はですね、
身体の復活=「肉体の再起」からだの蘇り、
復活=再び立ち上がる、のこと。
オリジナルなギリシャ語は実にビジュアルな単語。
アナスタシス アナはもう一度、スタシスは立つ、Stand again

ちょうどエゼキエル書の「枯れ木の骨の」というあのイメージそのものですね
ですからこのー、
教会は、まぁこういう言葉遣い「魂の救いが―」
このとき魂という言葉は、霊魂の肉体の、魂ではない。
魂と言うのは一人の人間のこと

創世記12章でアブラハムが「その地で得た人々」、
もともとの言い方は「アブラハムがその地で得た魂」これは人間のこと。
英語訳ではSoulsだが、魂の救い=人間の救い、なんです。
心が平安を取りもどす。もそうなんです
人間が本来のありようを取り戻す、という事なんです。

紀元90年の旧約の聖典成立が
パリサイはがさだめてー

(終鈴)

早めに課題を出すからよく準備するように 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿