5限 152
『山上の説教』
【復習】
ルカ2章 シメオンの剣
マリアが信仰を自分のありようを引き受けていく
マリアの信仰は何に支えられているか。
後のイエスの教えとも密接な結びつきがあるが、
マリア、「マリアの賛歌」受胎告知の後
ルカ1章47節以下
○私の魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をあがめ―
あがめる=大きくするmagnify
magnificate=大きくする=主を大きくする(自分の心のなかで)
どうして大きくするのか?
取るに足らない自分のような者に目を注いで下さったから。
○権力のあるものをその座から引き摺り下ろし―
つまりこの世の慣わしでは富めるものが栄華を極める、貧しいものは報われないという不条理さを現実においては味わうが、しかし神の眼差しは違うという事を伝えている。
マリアは自分自身の生きるという事の中に新しい命が与えられる、と。
受け入れにくさもあったろうが、新しい命を宿すという出来事のなかで、
改めて生きることの掛け替えのなさと神の御業を深く受け止めたろうと考えられる。
「イエスがあなたに与えられた」ということを聞いた人ですから、
その中で、自分の中で何が起こっているのか、改めて神の命に対する働きを深く感じただろう。
マリアは、そういう意味で信仰の人間の中でのある種の模範とされている。
信仰を導く言葉を受け取っていくことに習いたい、と考えられるようになった。
マリアについてはここまでよいですか?では今日のところに行きましょう。
今日は「山上の説教(教え)」を
マタイ5章から7章まで。
この箇所は実際何故そう呼ばれるようになったのか。
イエスが山に登られたときに話されたから。
実は、「山上」となっているが、ルカにおいてはこの説教と平行する教えを記録しているが
少し違った形で表している。
後で確認しますが、ルカ6章。
ルカでは山から下りて平地で話されている。なので、同じ教えについての記録は「平地の説教」とも呼ばれる。
しかしマタイルカもともに共通のイエスの教えの資料を持っていて。それを元に。
これはマルコには無いんです。
以前の授業でガリラヤ伝道について、
「教え」「福音を延べ伝えること」「癒やし」という事での話しのなかで、
「教える」とはどういう意味かをやりましたが、
「教える」―これは律法を教える。シナゴーグ、諸会堂において。
ただしイエスは他の律法学者の用にではなく「権威ある教え」を教える。
律法がどのように神の御心をあらわすものなのか、改めてイエスが解き明かすという性格。
とくに山上の説教においては、人々が教えられていた律法の教えを、
「それはそのとおりだ、しかしわたしはこう教える」という形で解き明かしている。
これはひとつ特徴です。
出だしのところ。
すこし律法を離れて独特な教えが語られます。
始まりはこのようです。
マタイ5章3節
○
心の貧しい人々は幸いである、
天の国はその人たちのものである
悲しむ人々は幸いである、
その人たちはなぐさめられる
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ
義に飢え渇く人々は幸いである、
その人たちは満たされる
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみをうける
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
「幸いの教え」8つの幸いといわれ、「八福」の教え、とも言われる。
10節までのところ。
ですから、「山上の説教は八福の教えで始まる」ということですね
この祝福は、あ、「祝福」という言葉も特別ですね。
祝福というのは要するに、私たちが日常で言えば何か特別な賞を受けたりした際に与えられるものですよね
特別な栄誉のある人たちを祝福する。
しかし、この聖書で言う「祝福」はいわゆる、福を与えるということだが、
これは神の恵みがその人たちに与えられる、ということ。
あるいは神の平安、神の眼差し、神の省み、が与えられる。
そして、一般的な用法として考えれば尚そうだが、祝福を受ける人=恵まれた人、と
旧約で実際に神の祝福を受けたと、その恵みの形は「長生き」「財産が豊かに」「子孫繁栄」など。
私たちが考えるような「ご利益」によって神の恵みを見ている。
だから、一般に神が祝福されているということは人間的に豊かな状態。
そういう風に私たちは祝福の具体像を描いている。
しかしそういう思いでイエスの言葉を考えると、大変驚かされる、異質だという印象を受ける。
「心の貧しい人々は幸いだ」とこう言うんです。
これはどういう意味なのか、
あるいは「悲しむ人は幸い」とは?
こういうちょっと驚くような言葉でイエスが八福の教えを語られる。
私たちが祝福の意味さえ考えさせられるところ。
豊か、何か良い事、が祝福と考えれば
マタイのところでは「心の貧しい人」といっていますが、さてここでルカをみてみましょう
ルカ6章20節
○さて、イエスは目を上げ弟子たちをみて言われた
「貧しい人々は、幸いである
神の国はあなたがたのものである、
今飢えている人々は、幸いである
あなた方は満たされる
今ないている人々は、幸いである。―
しかし、富んでいるあなた方は、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている、と。
ルカにおいてははっきりと逆転が描かれる。
イエスの祝福の言葉は一般的な社会の中での評価をひっくり返すような逆説性を持っていることに気づかされる。
常識をひっくり返すように語られている。
そしてマタイよりもルカにある言葉のほうが非常にストレート。
マタイは「心の貧しい人」といいますが、これはものすごく精神的なことになるので
これはそもそもどういうことかと言うのが分かりにくいですね。
何が心の貧しさか、と。勿論マタイには彼の伝えたいことがある故にそう書いているのですが、
ルカのほうが伝えたいところが見えやすい。
ここにイエスの言葉のラディカルな姿を知らされる。
マタイにおいてよりもルカのほうが鮮明になっている。
何故悲しい人が、ないている人が、困っている人が幸いなのか、
具体的に、目の前にいるそのような人たちに向けて語られている。
その人たちに「あなたがたこそ」幸いなのだと宣言して行かれる。
ここにイエスの言葉の力がある。
悲しさ、辛さ、一般には神様からの祝福が無い、ことだと考えられてた―罪ゆえに。
それを逆転させたイエス。
ここはユダヤ教の指導者層には受け入れられない言葉。
それでもイエスは実際目の前にいる人に対して「幸いなのだ」と
「神に見放されたものではないのだ」と宣言している。
ここに言えるのラディカルな言葉の意味は
実際にはその祝福は、悲しんでいる人、なぐさめられるだろう、と言っている
この「約束」は大事なメッセージです。
もし空手形だったらどうしよう、不安になる所だが、約束するのは神様ですから。
約束が成る事が前提と。
ルカ21章5節
・神殿の崩壊を予告する
7節
・終末の徴
○そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とかいうが、ついて言ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、いわれた。「民は民に、国は国に―
これは、まぁ終末の予言なのですが、これはつまり「約束」なんです。
何の約束?救いの約束です。
でも実際にその事が起こるときに何が?戦争、暴動、迫害、家族の間でも分裂が、殺される。
ちっとも救いのようでない。
イエス曰く、救いの前の厳しい状況。
つまり神を信じて生きていくことは=守られること、と思っています。
だけど、そう思った私たちの生きる現実においてはちゃんと満たされて祝福を受ける生涯が必ずあるでしょうか?
それとひっくり返っているような状況が語られている。
そこには「悲しみが、苦しみが」あるんです。こういうことはあるに決まっているとイエスは言うんです。
これは私たちが避けたいことでしょう。
ですが、それは起こるという、その先に救いがあるにしろ。
一体どうしてなのか、と思わされます。
神を信じて生きていくうえで、良い事がたくさんあって欲しい、
けれどそうではないこともたくさんあるといわれている、
それは何か。
ルカ20,21章においては
「わたしの名のために、証をするものとなる」
証をする=自分の命はイエスのものだ、神のよって祝福されている
でもどうしてなんだろう、
自分にとって大事なものは何かを改めて知る機会が起こる。
今日でしたか、チャペルでのメッセージ、辛い実習経験のなかで、
3年次に辛かった、しかしその時はじめて自分にとって友が慰めであり励ましであったかと。
それまでは友に心を開くほうでは無かったが、隣に座ってくれることの大事さを知るようになったと。
もしかしたら、人間は苦しみ、悲しみのなかで、本当に大事なもの、命の意味を受け取っていく機会になっていくのかもしれません。実際その時に、ルカ21章「そのとき何を証するか、準備する前と決めよと、その時言葉と知恵が」その時神が与えられたものを深く知るようになっていく
不幸の只中において本当に受け取るものがあるんじゃないか。
この祝福の言葉はそれに気づかされる。
もちろん、その先にある約束があるから厳しさに耐え、ゆだねていくことが出来るんですが。
つい先週、ある会で、お坊さんを呼びました。話をしてもらうと。
そのお坊さんがこんな事を言いました。
極楽、浄土、キリスト教なら天国ですが。
その極楽浄土はどんなものか?楽しみの極まりですからとても良いところと思われるでしょうと、
その浄土真宗のお坊さんは、極楽とは
それは「悲しみや苦しみをともにして生きていくことが出来ると」悲しみがなくなることではない、と。
それはつまり悟りの境地ですね。
私たちが祝福をうけるということも、
悲しみがなくなることではない、そうではなくて、
イエスがともにいてくれて「悲しみとともに生きていく力を得る」ということ。
そういう一般的な祝福の意味とはちがって
「生きる支え」ということを。
さて、ここまでいいでしょうか。八福の教えから山上の説教は始まるが、
「地の塩、世の光」と。
マタイ5章13節
・地の塩、世の光
○「あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気が無くなれば何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
塩や光という言葉のなかで、キリストともに生きるという事、信ずる人々がどういう役を持つかという事を示している。
塩も光も、自分だけでは余り意味が無いもの、つまり相手を生かすもの。
塩によってなにかに味が付けられる、光によって他のものが見える。
あなた方は既にそういうものだと。
あなた方が立派な働きをするということではなく、ともにいることで他のものを生かしていく。
これはいろんなミッションスクールのモットーになっていたりしますね。
うちの学長が時々言うことですが、
糸賀一雄 「この子らを世の光に」という言葉をもって福祉の働きを自分の働きをした人の言葉ですが。
これは「この子らを」ということが大事なところで。
障害で苦しい、本当に大変な困難を抱えた人だが、そのこらを輝かせていかなくては、と。
輝かせられる―掛け替えのないものとして大事なことが知らされてくると。
5章17節からのひとかたまり、律法についての教え
21節
「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺したものは捌きを受ける』と命じられている。
しかし私はいっておく。兄弟に腹を立てるものはだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』というものは、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる―
これなかなか、厳しい言葉です。
『殺してはならない』これはまぁ誰でもそういう風に思う、でしょうか。
まぁ一般的にそういうことは大事だと思われるだろうが、これは特に十戒のなかで戒められた言葉です。
十戒というのは旧約聖書入門でやりましたか?出エジプト記の20章に書かれています。
その中には前半、最初の3,4つは神と人間の関係についての戒め、後半は人間同士の関係においての戒め
その中のひとつに「殺してはならない」と。
律法を守るか否かは大きな問題で、これは神の恵みを受ける条件のように考えられたでしょう。
さて、ここでイエスは何を言われたか。殺してはいけないと聞いているだろうと。
だけど私は言う、と。
つまり、殺すか否か、においてはたいがいの人は人を殺しはしないが、
ここでイエスが言うことには人を「馬鹿」といったり、見下したり、腹を立てたり、
それは殺すのと同じといっている。
律法でいっていることの意味は何か、と。
これは単に行いとして現れることだけではなくて心で何をしたか、言葉で何をしたか、という事。
そうした言葉で踏み込んで「神の眼差し」があることを示している。
なかなかこれはどっきりさせられるでしょう。僕なんかもなまじ牧師の息子として生まれましたから
小さい頃からこういうことを知ってしまっていて。
しかしだからといって怒らずに子どもを育てることは出来ない。
今僕も牧師ですけど家庭で厳しく起こることもあります。これは虐待ではなかろうかと怖くなることもありましたよ。叱ることと爆発的な感情が一緒に名って出てくるわけですから。
そういう自分自身を神様は知っているんですよ。
高校時代、一個上の先輩、あまり折り合いが良くない間柄。
自分が言葉で悪いことを言った。ところがそれから安心できない。
自分は何をしたか、と心に引っかかっていて。次にその先輩に合うまで不安で不安で。
私たちは行為だけでなく、言葉で心で罪を犯す、神の御心から遠いことに気づかされる。
この教えの厳しさ、これはどういう状況のなかで語っているか。
これは当時の(何回も言いますが)シナゴーグで律法を説いていた人は
「これは守らねばならない、罪びとだ」と。そのように罪を定めて言っていました。
しかし当時の貧しい人が―
イエスの宣教における一番大きな論争は、「安息日の規定」
「安息日を覚えこれを聖としなさい」と十戒にある。
これが何故特別か、神が休まれた日だからというのがひとつ。
つまり日常から離れ「神のことを考える日」特別な日なんです。だから働いてはいけないんです。
しかしそういわれても「一体何が働いてない」という状態なのか。
そうすると、いろんなことが出来なくなる。
例えば水を汲みに行くということ、外出するという事も(距離にもよるが)問題になってくる。
そして律法によって定められる。労働に当たることは○○だと。安息日の規定。
イエスが出会った一番の問題は、「安息日に癒やしをするか」ということ。
その時に助けを求める人を癒やすか否か。
しかしこれは労働だから安息日の規定に反するとしてイエスを訴えるという状況があった。
イエスは、これはおかしいんじゃないかと
本当は何のための安息日か?と。つまり「人のための安息日だろう」と。
神が休めというのは「神との関係を思い起こしなさい」と。人が神のものとして生きるため。
形の上の律法遵守を超えて。ということ。
当時はとくに律法学者達、自分は神様の戒めを引いているよ、あなた達は違うよ、という事に対して
アンチテーゼを示しているといっても良いでしょう。
一体律法を守るとはどういうことなのか。
そうした教えを山上の説教では語られます。
「殺してはならない」の次もそうです。
27節
姦淫をするな
右の目がつまずかせるなら、えぐりだせ
全身が焼かれるよりまし。
31節
離縁状について
・当時の常識であった律法の教えに対して「神の眼差し」がどういうところに働いているのか。
・驕っている人に対して「あなた方もまた罪びとではないか」と迫ること
これらは山上の説教の特徴です。
こんな風に教えられたらこれを守れるのはどういう人か、と。特別な人なんじゃないのか、と。
なるほど、そういう人が聖職者になるのだと受け取られた時代もあります。
修道院に入る、司祭になる。そういう人たちはこういう教えに従うことになるだろうと、
一般の人はそこまでではないだろうと分けて考える時代もありました。=二重倫理。
しかし今は、分けて考えることはありません。
私たちが生きる現実のなかで「だれが特別ということはもともと無い」ということがこの教えの明らかにするところなわけです。
皆、神様の前には罪びとだ、ということをある意味では知らされる。
そういう罪びとはではどうしたら神の前に正しく生きられるのか、というチャレンジになるし、
それにはイエスの恵みに生かされるしかないのだ、ということが救いの唯一の道と。
6章、
これは律法と無縁ではないが、実際の信仰を生きていく際の教え。
ひとつは、よい行い、施し、
6章1節
見せびらかすようにするんではなくて、人目につかないように。
それから
6章5節
祈りのこと。祈りの教えのなかでいわゆる、
イエスがどう祈るべきかを教えられた祈りがあります。
主が教えられた祈り、だから「主の祈り」です。
*主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪いものから救ってください。
主の祈りはここと、ルカの11章にあります。
どちらも私たちが礼拝で祈っている祈りと微妙に違う。
どれをとっても実際の礼拝の主の祈りそのままではありません。
それは教会のなかで整えられたものとして受け継いだものがある。
しかしほぼ内容としては同じものと。
あ、もう時間が終わりになってしまいました。ひとつだけちょっと。
主の祈り
6章12節
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
こう祈ると、赦しました様に、が先に。
マタイの語る状況はこういうことです。
目の前にいる人たちに教えるのですが、目の前の人はどういう状況にあるか
負い目=借金。お金を取られているんです。そして負債を赦したといっている。
つまり返してもらえない。帳消しにされてしまう。赦す羽目になってしまっている人です。
それが苦しい生活を強いられているという状況があって、こういう言葉が祈りとして教えられているということです。
はい、じゃあここまでにいたしましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿